外典・外道等は、仏前の外道は執見あさし。仏後の外道は、仏教をききみて自宗の非をしり、巧みの心出現して仏教を盗み取り自宗に入れて邪見もっともふかし。附仏教・学仏法成等これなり。
『日蓮大聖人御書全集』新版 54頁〜55頁 (開目抄)
「附仏教」とは、仏教を取り入れ、仏教に添って、仏教に基づきながら、外道の説を立てる者のことです。せっかく、仏教を信仰をして、仏教通りを志しながら、結局、外道に落ちてしまうとはもったいない限りですね。仏教を信仰するならば、仏教の道を進むべきですが、外道という全く違う道に逸れてしまっては話になりません。
新宗教団体など、仏教を標榜し、それなりに仏教を極めつつ、結局、新宗教ならではの外道チックな教義を立ててしまう場合があります。仏教に添いながらも、結局、仏教でなくなってしまい、外道になってしまう傾向があるようです。残念なところですね。仏教の新宗教団体ならば、仏教らしくすればいいのですが、目先の利益に囚われているのかどうか分かりませんが、仏道ならぬ外道に邁進している場合があります。
「学仏法成」とは、仏教を学んではいるけれども、仏教に添うことができず、仏教に基づくことができず、つまり、正しく仏教を見ることができず、仏教に背いて外道に落ちる者のことです。仏教を学びながら、結局、仏教を自らのものとできず、間違った考え、邪な考えに陥り、外道になってしまうということですから、みっともないといえますね。
新宗教の信者さんなど、あまり仏教の教義に関心のない人にこのような傾向がありますね。人によっては、一応、仏教を学んではいるけれども、中途半端な研鑽にとどまり、仏教通りになれず、誤解や邪見を起こし、外道まっしぐらというわけです。これももったいなく感じますね。仏教信仰をするならば、仏道のままでよいものを横道に逸れ、外道を歩んでいる人が一定数います。
「附仏教」、「学仏法成」という語は、なじみのない語ですが、内容は身近な団体や人々のことをあらわしています。この言葉の典拠は、『摩訶止観』ということですので、天台智は、事細やかな議論を展開していた人であったことが分かります。やや、細かい議論とも思えるのですが、仏教を信仰していながら、外道に落ちる危険性があると指摘している点は、慧眼といえましょうか。一信仰者としては、正しく仏教を研鑽し、外道に落ちないよう十二分に注意する必要があります。