一流の作家なら誰でもいい、好きな作家でよい。あんまり多作の人は厄介だから、手頃なのを一人選べばよい。その人の全集を、日記や書簡の類に至るまで、隅から隅まで読んでみるのだ。
小林秀雄『読書について』中央公論新社 12頁
小林秀雄は、読書について、一人の作家を隅から隅まで読むことを推奨しています。確かに多作の人では、全部読むのに時間がかかりすぎる懸念があります。手頃な分量というものがあるでしょうね。存命中の人を選んでしまうと次々と作品が生まれてしまうので、常に読み続けなければならず、それは大変ですね。あえて選ぶとすれば、古典の中から選ぶのが賢明でしょう。古典になったという段階で評価が定まったといえ、一流といえます。
この点、私の場合、日蓮をその一人として選んでいます。鎌倉時代の僧侶であり、評価は二分されているともいえますが、一流であることに異議をはさむ人はいないでしょう。残された書は、他の仏教者に比べ多いのですが、それでも、近代、現代の作家のように何十巻もの分量ではなく、それこそ手頃な分量です。古文、漢文で書かれているところが大変といえば大変ですが、我々は日本人であるので、全く分からないということはありません。
一人の著者を選ぶということに関し、加藤周一も同じようなことを言っています。
文学をわかるために、あるいはもしかすると、書物を通して理解できるかぎりで、人間が生きてゆくということを理解するためにも、一人の作家と長く付きあうのは、よい方法だろうと思われます。
加藤周一『頭の回転をよくする読書術』光文社 107頁
一人の著者をじっくり読むということは、人間を理解することに繋がり、人生とはどういうものかを理解することに繋がります。一人の著者と一時だけ付き合うというのではなく、長く付き合うことによって、人間、人生を深く理解することができます。
日蓮は、1253年(建長5年)4月28日に立教開宗し、1282年(弘安5年)10月13日に亡くなっていますので、今の暦で勘定すると29年5ヶ月16日の宗教活動です。後年の絶大な影響力から考えますと、それほど長く活動していないのですね。30年足らずの活動でありながら、現代の我々にも大きな影響を与え続けており、偉大な人物といえます。
この約30年にわたって執筆された日蓮の著作を読みながら、自らの人生、信仰を磨こうというわけです。日蓮の宗教実践は、激動であり、波瀾万丈でありました。伊豆、佐渡への流罪、所謂追放刑もあり、松葉ヶ谷の法難という、所謂放火にも遭い、小松原の法難では、刀で切りつけられ殺されそうになりました。竜の口の法難では、死刑になりかけています。
散々な目に遭いながらも、文筆活動は活発なのですね。五大部、十大部といった教理書も執筆しながら、各門下に対する手紙である消息文も多く書いています。もちろん、日蓮の多くの書は紛失してしまったと思われますが、それでも現在伝わっている日蓮の書は多く、日蓮を知るに十分な分量の著作が残っています。
日蓮を知りながら、自らをも知っていくという方向性が正しい読書のあり方でしょう。日蓮という鏡で常に自分を確認しながら、自分を認識し、自己を磨くことが本当の読書であり、研鑽であり、信仰といえましょう。