今の法華経の文字は皆、生身の仏なり。我らは肉眼なれば文字と見るなり。たとえば、餓鬼は恒河を火と見る。人は水と見、天人は甘露と見る。水は一なれども、果報にしたがって見るところ各別なり。この法華経の文字は、盲目の者はこれを見ず。肉眼は黒色と見る。二乗は虚空と見、菩薩は種々の色と見、仏種純熟せる人は仏と見奉る。されば、経文に云わく「もし能く持つことあらば、則ち仏身を持つ」等云々。
『日蓮大聖人御書全集』新版 1426頁 (法蓮抄)
法華経を読んで何を見るかはその人の境涯によります。仏界の人間は、法華経の文字を仏と見ます。法華経を説いた仏そのものを法華経に見出すのですね。
小林秀雄も同じようなことを言っています。
書物が書物には見えず、それを書いた人間に見えて来るのには、相当な時間と努力とを必要とする。人間から出て来て文章となったものを、再び元の人間に返す事、読書の技術というものも、其処以外にはない。
小林秀雄『読書について』中央公論新社 13頁
読書するときは、単に本を読むという段階に留まらず、その本を書いた著者を見る段階にまで至らないといけないということですね。
単に文字を追っているだけでは、読書の技術として未熟というわけです。時間もかかり、努力も要しますが、文字から、文章から人間を引き出すことが読書の技術ということです。
読書というと、つい文字、文章だけを読んでいるという感覚になりますが、本来、読書とは、日蓮、小林秀雄が言うように、人間を見ることなのですね。人間を見出さない読書は、実は、読書たり得ないといえましょう。
では、人間を見出してどうなるのかということですが、これについて小林秀雄が答えてくれています。
他人を直かに知る事こそ、実は、ほんとうに自分を知る事に他ならぬからである。人間は自分を知るのに、他人という鏡を持っているだけだ。
同書 15頁
読書をして、その著者を見出し、その著者と対決することにより、自分を認識するのですね。著者が鏡であり、その鏡を通して自らを省みることが読書の醍醐味ということでしょう。
法華経を読む場合、仏を鏡として、自らを見ることになり、御書を読む場合、日蓮を鏡として、自分を見つめることになります。偉大なるものと触れ合う中で自己を磨くという感覚ですね。
ある意味、仏、日蓮という存在は、鏡としては途轍もない明鏡です。毎日、このような明鏡と対峙するならば、愚かな自己も仏界に近付くことになるでしょう。単に文字、文章を追うというのではなく、人間、著者を見るという姿勢で読書していく中で自らの存在をも的確に認識し、誤りのない人生行路を進むことが肝要です。