かりそめにも法華経を信じていささかも謗を生ぜざらん人は、余の悪にひかれて悪道に堕つべしとはおぼえず。ただし、悪知識と申して、わずかに権教を知れる人智者の由をして法華経を我らが機に叶い難き由を和らげ申さんを、誠と思って、法華経を随喜せし心を打ち捨て余教へうつりはてて、一生さて法華経へ帰り入らざらん人は、悪道に堕つべきこともありなん。
『日蓮大聖人御書全集』新版 1頁〜2頁 (唱法華題目抄)
法華経の信仰を始めて、法華経に背くこともせず、悪いことにも流されないならば、悪い道、不幸の道に落ち込むことはないと言っています。
しかし、問題は、「悪知識」という根本的に悪道に誘う人間なのですね。大した学識があるわけではないが、権教を少し知っている程度でありながら、知識人、智者のふりをして、「法華経は、難しいから我々凡夫には合いませんよ」という旨を穏やかに言うような人のことですね。
そこで、「いや、私は法華経を信仰し続けますよ」と言えばいいところ、悪知識が言うことを「そうなのか」と本当のことと思って、法華経信仰で得た喜びの心をさっさと捨ててしまい、他の経典(浄土三部経)に移ってしまい、そのまま、一生、法華経に帰ってこない人は、悪道、不幸せの道に落ちてしまうでしょうねと指摘しています。
せっかく法華経を信仰したならば、そのまま法華経の信仰を貫けばいいのですね。別に他の経典を根本とする必要はないでしょう。
仏教経典には、様々な経典がありますが、一番メジャーな経典は、やはり、法華経です。法華経信仰者が勝手に言っているだけではないのですね。日本仏教の歴史を鑑みますと法華経ほど重視された経典はありません。所謂、蓄積が違うのですね。
確かに、法然、親鸞らによって、念仏が力を持ち得て、浄土三部経にも注目が集まったにせよ、法華経の蓄積にはかないません。
仏教信仰をするならば、オーソドックスに法華経を選択するのがベストでしょう。