大事には小瑞なし。大悪おこれば大善きたる。すでに、大謗法、国にあり。大正法、必ずひろまるべし。各々なにをかなげかせ給うべき。迦葉尊者にあらずとも、まいをもまいぬべし。舎利弗にあらねども、立っておどりぬべし。上行菩薩の大地よりいで給いしには、おどりてこそいで給いしか。普賢菩薩の来るには、大地を六種にうごかせり。
事多しといえども、しげきゆえにとどむ。またまた申すべし。
『日蓮大聖人御書全集』新版 2145頁 (大悪大善御書)
通常、大悪が来ると参ってしまい、大善に転換できずに終わってしまうものです。
しかし、日蓮によれば、大悪が起きるならば、大善が来るというのですね。根本的に次元が違います。そもそも、信仰をするとは、このような「大悪おこれば大善きたる」というような境涯になることであり、単なるおすがり信仰とは訳が違うのですね。極めて実践的なのが日蓮仏法の特徴ですね。
この「大悪大善御書」ですが、昭和定本では、「大善大悪御書」となっています。ただ、御書では、「大悪おこれば大善きたる」と記載されていますので、「大悪大善御書」の方がしっくりくると思うのですが、どうなんでしょうね。
昭和定本によると、「大悪大善御書(大善大悪御書)」は、系年が文永12年となっており、真筆は、堺の妙國寺に所蔵されているようです。真蹟がある御書ですね。
舞いがあり、踊りがあり、躍動感のある御書です。迸っていますね。ダイナミックな信仰を求められるのが日蓮仏法ということでしょう。
迦葉尊者、舎利弗、上行菩薩、普賢菩薩が出てきますが、よくよく考えますと、本尊の相貌にあらわれる菩薩、声聞ですね。本尊との関連性が深い御書ですね。
短い御書ですが、中身の濃い御書となっております。困ったことがあれば、まずは、「大悪大善御書」を確認するという癖を付けておくのがよいでしょう。