我が此の土は安穏にして 天人は常に充満せり
創価学会教学部編. 妙法蓮華経並開結 (Kindle の位置No.32314-32316). 創価学会. Kindle 版.
「我此土安穏 天人常充満」の書き下し文は、上記のとおりですが、通解や現代語訳では、どのようになっているのでしょうか。確認してみましょう。
私の住むこの国土は安穏であり、つねに喜びの天界・人界の衆生で満ちている。
池田大作『新版 法華経 方便品・自我偈講義』聖教新聞社 414頁
わたくしのいるこの国土は安穏であって、天・ひとびとがつねに満ちみちている。
三枝 充悳『法華経現代語訳(全)』第三文明社 379頁
私が住するこの仏国土は安穏であり、天の諸神や清浄な人々で充ち満ちている。
日蓮正宗宗務院『日蓮正宗 勤行要典の解説』大日蓮出版 52頁
また、法華経のサンスクリット語からの翻訳も見てみましょう。
私のこのブッダの国土は、神々と人間たちで満たされているのだ。
植木雅俊訳『梵漢和対照・現代語訳 法華経』下 岩波書店 241頁
私のこの仏陀の国土は神々や人間で満たされている。
松濤誠廉/丹治昭義/桂紹隆 訳『大乗仏典5 法華経U』中央公論新社 116頁
漢文では、「此の土」となっており、仏の国土とは書いていませんが、サンスクリット語の翻訳では、「ブッダの国土」、「仏陀の国土」となっており、仏の国土であることが明確になっています。よって、日蓮正宗宗務院の訳では、「仏国土」となっているのですね。
「我」とは、釈尊のことですから、「我此土」で仏国土を表現できると鳩摩羅什は考えたのかもしれません。
この「我」ですが、私としては、釈尊一人に限定するのではなく、すべての人々を包含していると考えたいと思います。我々の仏国土と捉えながら信仰をするのが適切と思われるのですね。
「天人常充満」では、「天」と書かれていますので、漢文からの現代語訳では、「天界」、「天」と表現していますが、サンスクリット語からの翻訳では、「神々」となっています。よって、日蓮正宗宗務院の翻訳では、「天の諸神」としており、サンスクリット語を意識した翻訳となっています。
八百万の神と共に我々がいるという感覚が大切であることに気付きます。また、我々といっても、日蓮正宗宗務院の翻訳にあるように「清浄な人々」との解釈が妥当だと思われます。俗悪な人間は仏国土にいないと思うのですね。「天人常充満」は、麗しい人間関係、充実した人間関係のことといえるでしょう。
我々の住む地域が仏の国土であり,安穏、平安、安全であり、神々に守られながら、素晴らしい人々と共に生きていくことができるということが「我此土安穏 天人常充満」なのですね。素晴らしい経文であると思います。