譬えば、水精の玉の、日輪に向かえば火を取り、月輪に向かえば水を取る。玉の体は一なれども、縁に随ってその功同じからざるがごとし。真如の妙理もまたまたかくのごとし。一妙真如の理なりといえども、悪縁に遇えば迷いと成り、善縁に遇えば悟りと成る。悟りは即ち法性なり。迷いは即ち無明なり。
『日蓮大聖人御書全集 新版』614頁(当体義抄)
法華経の信仰があったにしても、悪縁に遇えば迷いを生じ、無明の状態、つまり、成仏ができない状態に陥ってしまいます。法華経の信仰があるから大丈夫とはならないのですね。信仰を持っているからこそ、悪縁を排除するよう、悪縁を寄せ付けないように心掛ける必要があるのですね。油断大敵といったところです。
当然、法華経を信仰して善縁に遇えば、悟りとなり、成仏の境涯に至ります。しかし、そう簡単に善縁と巡り会うというわけにはいきません。善縁と遇えるよう努力、精進をしなければなりません。いつ、善縁と出会うか分かりませんので、常にいつ出会ってもよいように信仰をしてくことですね。
世の中を見渡してみますと、悪縁は多く、善縁は少ないですね。