「顚倒して義を解す」とは、実経の文を得て権経の義を覚る者なり。
『日蓮大聖人御書全集 新版』507頁(顕謗法抄)
法華経の文を得たにしても、法華経の義を覚らず、権経、爾前経の義を覚る人のことを言っています。
新宗教団体で活動していた頃、トンチンカンなことを言う人がいましたので、それはおかしいと指摘したところ、その人は、私に向かって「二乗だ」と非難がましく言うのですね。簡単に言うと、二乗(声聞、縁覚)は成仏ができない、よって、お前も成仏ができないということが含意されているのですが、よくよく考えるとこの人は矛盾していることを言っているのですね。
確かに、権経、爾前経において、二乗は成仏できないと説かれています。しかし、法華経に至って、二乗も成仏できると説かれます。よって、法華経は、最第一の経典であるとされるのですね。
一応、法華経を根本経典とする新宗教団体に所属しながら、人に向かって「二乗だ」というのは、まさに、「実経の文を得て権経の義を覚る者なり」に相当しますね。
法華経の団体の人間であるならば、「二乗だ。しかし、あなたは成仏できる」という台詞になるはずです。しかし、この台詞では、非難にならないのですね。褒めてしまうことになります。
とにかく、私に対して、非難したいという気持ちがあったのならば、それなりの非難の言葉を言えばいいものを、「二乗だ」と言ってしまうわけですから、結局、法華経信仰の団体に所属していても、法華経の信仰に至らず、権経、爾前経の信仰になっているのがばれてしまうのですね。
瞋りの感情が出たときに、その人の本性が現れますが、その人は、権経、爾前経の信仰レベルの人であることを現したということです。法華経がどのような経典であるのか理解できておらず、信仰できていないのですね。みっともないことです。一応、「二乗」という仏教用語を知っているのは結構なのですが、自分のものにできていないのですね。このようなレベルでは、話になりませんので、研鑽する場合は、正しく研鑽するべきですね。