浄土といい穢土というも、土に二つの隔てなし、ただ我らが心の善悪によると見えたり。
『日蓮大聖人御書全集 新版』317頁(一生成仏抄)
我々は、環境の影響をもろに受けますが、我々の心の状態も環境に影響を与えます。それぞれ相互に関連しているというわけです。現在の環境が悪い状態であるならば、どうにかして改善しなければなりません。そこで、自らの心のありようが問われるのですね。環境が悪いと文句を言うだけでなく、環境が悪いと認識できたならば、その環境を改善するか、または、その環境そのものを捨て去り、新しい環境に身を置くなど、自らの心を善にしながら、行動を起こすことですね。
衆生というも仏というも、またかくのごとし。迷う時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり。
同書同頁(一生成仏抄)
いつまでも文句を言って愚痴だらけの状態は、迷っている状態であり、単なる凡夫の状態です。しかし、自らの心のありようを善の方向性に変革しながら、改善にいそしむならば、それは悟りの状態といえましょう。よって、単なる凡夫が仏となるのですね。凡夫のままでよいのか、それとも、仏を目指すのか、ここに信仰が生じてくるといえるでしょう。
譬えば、闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるがごとし。只今も、一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。これを磨かば、必ず法性真如の明鏡と成るべし。
深く信心を発して、日夜朝暮にまた懈らず磨くべし。いかようにしてか磨くべき。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、これをみがくとはいうなり。
同書同頁(一生成仏抄)
それでは、どのようにして自らの心を善の方向性にしていけばよいのかとの疑問が生じます。そこで、日蓮は、南無妙法蓮華経と唱えることを勧めています。迷った心を南無妙法蓮華経と唱えることで磨けというわけですね。磨きに磨き抜けば、仏の心が現れるというのですね。
何度も生まれ変わって、やっと仏になるのではなく、この今の人生の中で自らに仏を現すことが一生成仏であり、このような信仰をすべきですね。