仏法を習い極めんとおもわば、いとまあらずば叶うべからず。
『日蓮大聖人御書全集 新版』212頁(報恩抄)
仏法を極めようとするならば、時間が十分にないと叶わないということですね。仏門に入り、仏法を専門とする仕事に従事するならば、極めることは可能でしょう。
しかし、在家にとって、主たる仕事は、ほぼ実業であり、仏法を専門にしているわけではありません。仏法を極めようとしても、時間の制約がありますね。
まさに、日蓮は、仏法を専門とする僧侶であり、中世の仏教の総本山たる比叡山での修行を経ており、申し分ない経歴があります。その後の仏法研鑽も理論、実践とも十二分に行っており、仏法を極めた人物といえます。
さすがに在家の身として、日蓮と同じことはできません。しかしながら、日蓮は、仏法の要点を各御抄に残しており、この各御抄、つまり「御書」を研鑽することにより、在家なりの仏法の極め方があるのではないかと思うのですね。「法華経」と「御書」というこの二書を丹念に読んでいくことにより、仏法を極めるという方向性が在家の我々にはあるのではないかと考えます。
法華経以外の経典を読む時間があるかと言われれば、そのような時間はないと答えざるを得ませんし、日蓮以外の釈、論を読む時間があるかと言われれば、これまた、そのような時間はないと答えることになります。仏法の書物は、膨大であり、すべてを読むことは不可能です。ましてや、内容を理解することは、もっと不可能ですね。
ある意味、仏法の信仰において、選択が求められます。我々としては、「法華経」「御書」という点に集中するわけですが、ここに信仰を集中させ、研鑽を深めながら日蓮仏法を極めようと精進することになります。
「法華経」「御書」だけでもなかなかの大部ですが、さすがに「法華経」「御書」を読まずして、日蓮仏法を極めるとは虫が良すぎますので、ここは、大変であっても読み進めるべきでしょう。
ただ、「御書」を読みますと、法華経以外の経典や他の仏教者の釈、論がいろいろと出てきます。結局、日蓮を軸としながら、仏法の大要を把握することができるのですね。「法華経」「御書」を選択して、範囲が狭くなっているようですが、狭い範囲に限定されることなく、それなりに仏法全体を学ぶことができるのですね。この点、日蓮の書は、極めて優れているといえるでしょう。