譬えば女人の一生の間の御罪は諸の乾草の如し法華経の妙の一字は小火の如し、小火を衆草につきぬれば衆草焼け亡ぶるのみならず大木大石皆焼け失せぬ、妙の一字の智火以て此くの如し諸罪消ゆるのみならず衆罪かへりて功徳となる毒薬変じて甘露となる是なり
千日尼御前御返事 1316頁
人間は、不完全な存在であり、過ちを犯すものです。罪を得るわけですね。通常、罪は、償いにより、一応、消滅したものとみなします。道義的にいえば謝罪などがあり、刑事的にいえば懲役刑などがあり、民事的にいえば損害賠償などにより、それなりに解決したと考えるのですね。
そうではあっても、罪が消えることはないとの考え方もあり、確かに罪が消えるというのは、ある意味、都合がよすぎるだろうとも思われます。
ただ、罪は消えないので、そのまま罪として残るというのも芸がないですね。これでは、何の進展も発展もありません。
上記の日蓮の言葉では、妙の一字の智火により諸罪が消えるだけでなく功徳となるとあります。
一応、罪が消えるとは言っていますが、功徳となると言っていますので、完全消滅ではなく、転換がなされたとみるのがよいでしょう。
つまり、罪は、妙の一字によって功徳に転換されるということですね。確かに罪は何もしなければ消えない。しかし、信仰の力でもって、その罪を功徳に転換することができるというのですね。
これは、なかなか思い切った考え方ですね。罪が消えるというだけでも都合がよすぎると思われるところ、罪が功徳に変わるというのでは、それ以上に都合がよすぎるように思われますね。
都合はよすぎるのですが、信仰をして都合がよくないのでは、誰も信仰しないでしょう。信仰をするということは、ある意味、神秘的なことであり、日常生活、社会生活の次元を超えたことですから、罪が功徳に転換するということは、信仰の次元からすると当たり前のことなのかもしれません。
罪が功徳に転換するということですが、妙の一字の智火があってのことであり、罪がそのまま功徳になるわけではありません。妙の一字の智火がポイントですね。信仰があるかどうかというところが重要ですね。
妙の一字の智火によって、人は、自らの罪をしっかりと悔いることができます。罪を悔いることができないようでは、信仰ではありません。まずは、罪を悔い、自らの至らない点を見つめることが必要です。
それから、今後は、自らが犯した罪を犯すことのないような人間になること、また、その罪を犯すことがいかにみっともないことであり、価値のないことであるかをしみじみと感じ、それが自らの血肉、骨髄に染み込むことが、すなわち、罪が功徳に転換するということなのですね。
罪そのものが消えるわけではないが、反省し、今後に活かすことによって、罪が功徳に転換するということですね。
罪を罪のままで放置するのではなく、功徳にしていくのが信仰の神髄といってもよいでしょう。
一見、都合がよすぎるように見えますが、結局、自分だけでなく他の人のためにもなるので、それ故、功徳といえるのでしょうね。
罪すらも功徳に変える、これが妙の一字の智火であり、信仰ですね。
Kindle Paperwhite 防水機能搭載 wifi 8GB ブラック 広告つき 電子書籍リーダー 新品価格 |