おそらく私たちの青春の何十年もまえから、日本社会の人間関係を支配していたのは「組織」であった。そしてその組織の紐帯に染み込み、個人をがんじがらめにしていたのは独特のじめついた感情であった。恥辱をともにし傷をわけあい、乱酔のなかの告白によって結ばれるこの種の交情を、かつて司馬遼太郎氏は「若衆宿」の習俗になぞらえた。それは左翼にも右翼にも、およそ熱狂的な思想集団のすべてに浸透し、隠れた美学と倫理となって表向きのイデオロギーを動かしていた。高坂氏も私も、イデオロギーの硬直になじめない以上に、無意識のうちに、この奇怪な人間関係の腐臭に嫌悪を覚えていたように思われる。
山崎正和『歴史の真実と政治の正義』中央公論新社 149頁〜150頁
「奇怪な人間関係の腐臭」とは、強烈な言い方ですが、なんとなくしっくりくるのですね。
「そうそう」と首肯してしまいます。
「組織」というものは、必要ですけれども、「個人」に対して必要以上に深入りする傾向があります。気持ち悪いのですね。よって「奇怪」であり「腐臭」なのですね。
じめついており、恥を共有し、傷をなめ合い、語りと称して無駄な告白をして、情を交わしながら結合していくというのですから、やはり、気持ち悪い。
気持ち悪いというのは、当人たちも薄々気付いているようで、このようなじめついた行動を表立って示すことはなく、隠れたところで、このようなじめついた行動を「美学」や「倫理」なのだとして、その仲間内の人間に強要するというわけですね。どうしても気持ち悪いですね。
思想は大切なのですが、変に熱狂的なのは困りますね。気持ち悪くなりますから。
思想集団に限らず、「組織」には、上記のような傾向がありますので、そのような「組織」には関わらないことですね。
奇怪な人間が醸し出す腐臭が感じられたならば、すぐ退散するというのが賢明な態度です。変なものに対して、的確に嫌悪を覚えるというのは、人間にとって必要な能力といえましょう。