機とは仏教を弘むる人は必ず機根を知るべし
教機時国抄 438頁
仏道修行をする者としては、機根を知ることが大切です。
相手の機根を見て、対応しなければなりません。
何でもかんでも一本調子というわけにはいきません。
変化が必要なのですね。
職場を例にして考えてみましょうか。
職場には、改善すべきところが多いものです。
日々、ビジネス環境は変化していますから、常に改善を求められます。
しかし、無能な上司は、改善すべき点があろうとも、改善する気はありません。
改善する気はありませんから、改善への行動は一切ありません。
ただ、これでは、仕事のレベルが低いままになってしまいます。
とは言いつつ、無能な上司は、改善しない。改善する気すらない。もしかすると、改善すべきことすら理解していないかもしれない。否、理解していないだろう。
仏教的観点からすると、無能な上司には改善する機根がないことが分かります。
よって、仏教信仰者としては、無能な上司に改善を求めても意味がなく、相手にしないという行動をとればよいのですね。
ところが、仏教的観点がない場合、無能な上司の機根に考えが及ばず、改善しなければならない点だけに目が行ってしまい、無能な上司に対して、改善を要求し始めるのですね。要求とまで行かなくても、改善の提案をしてしまいます。
それで改善がなされればよいですが、無能な上司ですから改善がなされるわけがなく、かえって、無能な上司から疎まれ、嫌がられるだけです。
もっと悪くなると、無能な上司から、余計なことをしやがってということで攻撃される可能性すらあります。
自分は、良かれと思ってやっていることでも、それは、無能な上司には通じないのですね。
良かれと思って物事をするのではなく、本当に良いことをすべきなのですね。
自分が良かれと思うことは、単に自分がそう思っているだけで、結果が良くなるという保証はありません。というよりは、良かれと思ってやっていることは、ほとんど自己満足次元のことであり、結果は、悪い方向に行くものです。
すべきことは、本当に良いことであって、良かれと思ってという思いなどはどうでもいいことなのですね。
本当に良いことをするために仏教思想の知見を活用すればよいのですね。
そう、機根を知るということです。
相手の機根を知った上で、行動すればよいのですね。
無能な上司の場合、相手にしなければよいのです。もっとも、全く相手にしないわけにもいきませんので、仕事上、最低限の接点だけ持っておくということです。
改善する気のない人間を相手にしても意味がありません。相手にしないことです。時間の無駄です。仏教においても、明確に説かれており、我々としては、その知見を活用すればよいのですね。
ともあれ、いずれは、無能な上司との縁も切れます。我々としては、自分自身の境涯を上げ、無能な上司のような人との関わりが少なくなるよう精進に励めばよいのです。
相手の機根が上がる見込みはありませんので、相手にせず、自分の機根、境涯を上げればよいのですね。