妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法なり
一生成仏抄 383頁
信仰をする上で、何を信仰しているかを明確にする必要があります。
なぜか。
それは、自分の外に信仰の対象を持ってくる人がいるからです。
自分の中に信仰の対象を持ちませんと意味がないのですね。
もし、自分の外に信仰の対象を設定すると、偽善教団にいいように搾取されるだけです。
自分の外にある教団を信仰の対象としてはいけません。間違いですから。
あくまでも自分の中に信仰の対象を持つべきです。
では、自分の何をもって信仰すればよいのか。
自身の祈りには力があることを信仰するのですね。
自分が唱える南無妙法蓮華経に力があると信仰できるかどうか。ここがポイントです。
誰かさんが何かをしてくれるわけではありません。自分が自分の人生を切り開くしかなく、そのためのスタートが自身の祈りというわけです。
神頼み、仏頼みということではないのですね。自分頼みということです。
自分の祈りに価値を認め、それを信仰することができるか。御書、法華経が発しているメッセージはこのことなのですね。
自分の外に信仰を向けても仕方がありません。自分の中に信仰を向けるべきです。
このような信仰感覚からすると、教団間の争いや、教団そのものなどは、取るに足らない、副次的な事柄ということが分かります。
信仰は教団で行うのではなく、自分で行う事柄なのですね。
ここを間違えてはいけません。
宗教に対し、勘違いしている人は、ここを間違えていますね。