法華経を通して考えてみましょう。
日蓮が法華経勧持品を引いているところがありますので、見てみましょう。
法華経勧持品に云く「諸の無智の人悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん我等皆当に忍ぶべし」文妙楽大師此の文の心を釈して云く「初めの一行は通じて邪人を明す、即ち俗衆なり」文文の心は此の一行は在家の俗男俗女が権教の比丘等にかたらはれて敵をすべしとなり
唱法華題目抄 6頁
所謂、俗衆増上慢の場合、悪口、罵倒を浴びせてきます。また、暴力を振るう場合があります。その際、反撃すべきか。
身の危険、命の危険に及ぶ場合は、防御しなければなりませんが、それほどでもない場合、「当に忍ぶべし」とあるように、じっと耐えることですね。
耐えると言うと、苦しい感じがしますが、言い換えると、「相手にしない」ということになります。流してしまうのですね。深入りしないということです。
日蓮は、この勧持品を含む法華経の巻第五をもって、顔を殴られたという経験を持ちます。その日蓮は、その時のことを、こう述懐しています。
法華経の第五の巻をもつて日蓮が面を数箇度打ちたりしは日蓮は何とも思はずうれしくぞ侍りし、不軽品の如く身を責め勧持品の如く身に当つて貴し貴し
妙密上人御消息 1241頁
「日蓮は何とも思はずうれしくぞ侍り」ということで、何とも思っていないという側面があると同時に、うれしくすらあると言っています。
なぜ、このようなことが言えるのか。それは、次の文にあらわれていますね。
「不軽品の如く身を責め勧持品の如く身に当つて貴し貴し」ですから、法華経通りの人生となっていることに喜びを感じているのですね。
こうなることは、分かり切っていることで、特段、驚くことではなく、確認ができて、よかった、よかったという感じでしょう。
どうしようもない人間、くだらない人間は、相手にしないことですね。
もちろん、相手にしないといっても、それなりの忍耐は必要とされます。
仏教的な言い方をすれば、忍辱ということですね。辱めを忍ぶということです。
日蓮のように、法華経を読み、人間の様々な側面を研鑽しておけば、吃驚することもなくなるでしょう。
あらかじめ分かっていれば、対処ができるというものです。
そして、日蓮のように、何とも思わず、むしろ、うれしくすらあるという境涯に至るべきですね。時間はかかるでしょうけれども、目指したいところです。
そのために、御書研鑽、法華経研鑽があるわけですね。