汝が立義一一大僻見なり執情を改めて法華に帰伏す可し、然らずんば豈無道心に非ずや
蓮盛抄 154頁
宗教、信仰の話になると、意味不明になってしまう人がいます。
その人の所属する教団がいかれているために、その影響をまともに受けているからでしょう。
辻褄が合わない、道理に反している、価値がない、そして、聖典と違うことを平気で言うのですね。
宗教には、人を賢明にする側面もありますが、人を愚昧にする側面もあります。
賢明にする側面を採用すればいいものを、どうしたことか、愚昧にする側面に依拠してしまうのですね。
教団がそのように仕向けているからでしょうが、別に、教団の思惑通りに信心する必要はないでしょう。
そうはいっても、愚昧な信心の人が一定数存在します。
その人たちの言うことは、ひとつひとつが大僻見、偏った考えであり、間違った考えなのですね。
日蓮が言うように、間違った考えに執着しないで、法華経を読むべきでしょう。
しかし、そのような人は、法華経を読まないのですね。「時間がない」「難しい」などと言って読まないのです。
はっきりと、「読む気がありません」と言うならば、それはそれでいいのですが、信心をしている格好はつけたいからか、そうは言わないのですね。
所詮、このような人々は、道を求める気のない人々であり、信仰者でもなんでもない人々です。我々としては、妖怪と認定しておきましょう。
我々は、妖怪と付き合う程、暇ではありませんので、法華経を読み、御書を読んでいきたいと思います。