その都度、気分が悪くなります。
ほとんどは、人に関することで、嫌な奴が原因なのですね。
冷静に考えてみれば、相手にする必要のないくだらない人間ですから、ほっとけばいいのですが、一応、関わりを持ってしまうと、へばりついてくるようです。
よって、気分が重くなり、嫌な気持ちになるのですね。
そこで、相手にしないようにしようとするのですが、そのくだらない人間の記憶は、そう簡単に消えません。さも、この記憶が重要であると思わせるのですね。実際は、取るに足らない記憶であり、それこそ、どうでもいいわけです。
このままでは、しょうもない記憶に振り回されますので、視点を変える必要があります。
その際、適切な御文がありますので、確認してみましょう。
世間にまさる歎きだにも出来すれば劣る歎きは物ならず
佐渡御書 961頁
くだらない記憶、しょうもない記憶は、世間の歎きといえるでしょう。
しかし、世間の歎き以上のものといえば、まさしく、生老病死ですね。
仏法の根幹の歎きに思いを馳せれば、くだらない記憶、しょうもない記憶など吹き飛んでしまいますね。
世間の歎きなど、あまりにも取るに足らない。
やはり、生老病死という観点や、低い境涯にある自分自身の現状を大いに歎き、生老病死を超え、また、境涯を高めることですね。
このような観点を持てば、くだらない人間のことなど気にならなくなります。というよりは、気になっている場合かと思えてくるでしょう。
我々の人生において、肝心なことは、境涯アップであり、どうでもいいただの他人はほっておけばよいのです。
落ち着いて考えますと、くだらない人間は、我々の人生にとって、何らの価値を生みません。時間を奪い、財を奪う存在にしか過ぎません。
叩き潰す対象といってもいいでしょう。ただ、相手にする価値がないほどの人間ですから、放置するというわけです。相手にするだけ、時間と労力との無駄というものです。
あくまでも、我々は、御書、法華経を土台として、境涯を上げていくことに専念すべきです。