人生でのターニングポイントなど何度もあるわけではなく、一度、二度といったものです。
死ぬまでのことを考えると、三度程度ではないかと思われます。
いずれにしても、今までの間に、ターニングポイントがあったのですが、そのターニングポイントにおいて、人生行路を誤ったがために、せっかくの上昇気流に乗れず、下降気流に押し流されてしまったことがあります。
その影響は20数年経った今でも引きずっているものです。
通常であれば、上昇気流に乗れるところを、なぜ、下降気流の流されたのか。
私の努力不足という側面があるにしても、通常であれば、上昇気流に乗れたわけですから、私の努力不足というのも理由の一つではあるにしても、主原因ではないですね。そこには何かがあると思われます。
中島敦の「牛人」という短編に、その何からしいものを表現した言葉があります。見てみましょう。
世界のきびしい悪意といった様なもの
中島敦『李陵 山月記』小学館文庫 130頁
そうですね。「世界のきびしい悪意といった様なもの」があったように思われます。
特定の誰かではないのですね。「世界」なのですね。
単ある悪意でもないのですね。「きびしい悪意」なのですね。
また、それがそのものとして輪郭をもって存在しているのではなく「といった様なもの」という風にファジーなものであり、掴みどころがないものなのですね。
よって、今まで、よく分からなかったのです。
しかし、中島敦の「牛人」のこの言葉によって、おぼろげながら、私が人生のターニングポイントにおいて、下降気流に流された主原因が掴めたように思います。
人生においては、どうしようもないことがあり、それはそれで引き受けざるを得ません。
その理由も明確なものではなく、「世界のきびしい悪意といった様なもの」が原因というのですから、対応のしようがありません。
自分自身の根本的な何かと「世界のきびしい悪意といった様なもの」とが結びついたとき、人間の力など何の役にも立たないでしょう。
やはり、宗教的な何かを求めたくなります。
今は、「世界のきびしい悪意といった様なもの」にやられてしまうのではなく、日頃から注意を怠らず、精進しているところです。
いくら「世界のきびしい悪意といった様なもの」が強烈であったにしても、常に襲いかかってくるものではありません。
また、日頃からの習慣という長期間にわたる努力の積み重ねがあれば、「世界のきびしい悪意といった様なもの」も近づいてこられないでしょう。
「世界のきびしい悪意といった様なもの」に対決するには、「御書」「法華経」という劇薬を用いるほかないと考えます。
もちろん、劇薬ですから、使い方を間違って、おかしくなる人が続出しますが、そうならないよう、注意を怠らないことですね。
いずれにしても、中島敦「牛人」の中の「世界のきびしい悪意といった様なもの」という言葉は、まさに、キーワードですね。