確かに、そうだろうとは思うのですが、いろいろ考えていきますと、利根とは才能のことであり、通力とは権力・権威のことではないかと思うようになりました。
改めて、御文を拝しましよう。
法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず
唱法華題目抄 16頁
いつの世にあっても、才能がもてはやされるものです。
才能があれば、世界が開けますし、裕福になる確率が高まります。
誰しも才能を欲します。しかし、才能は一部の人にしか与えられていないというのが実情であり、ほとんどの人にとっては無縁です。
よって、才能のある人に羨望の眼差しを向け、その才能のある人の言っていることは正しいと思いがちですが、唱法華題目抄の御文を拝した後であると、才能を根本にして物事を見てはいけないとあるわけですから、気を付けなければと思いますね。
才能は、その人の特性であって、万民のために有用なのかと考えますと、そうでもなさそうですね。
やはり、長年、培われてきた法門による方が安全でしょう。
次に、通力ですが、確かに、超能力も含まれると思いますが、スプーン曲げのような、ある意味、子供だましのような超能力などは、取り立てて問題にすることもないでしょうね。
人間世界における超能力とは、まさに権力といえるでしょう。
どこにそのような力があるのかと思えるぐらい、多くの人々を一定の方向性に動かす力が権力にはあります。
また、権威も超能力的ですね。
権力・権威のある人の言うことは、影響力が大きく、いつのまにかその通りになりがちです。
これが通力なのでしょう。
しかし、唱法華題目抄の研鑽後であると、その権力・権威すら根本にはなり得ないということが分かります。
権力・権威といっても、それぞれ「権」という字に象徴されているように、仮のものなのですね。実のもの、真実のものとは違うわけですね。
仏教的に言うならば、権教・権経の「権」であり、臨時の便法に過ぎないということですね。
このように考えますと、権力・権威すら、確かに大した事柄ではあるけれども、人生の中心に据えるものではなく、あくまでも、利用、活用するものに過ぎず、我々としては、法門を根本、中心として、世の中の事象を見ていくべきですね。
今回拝した唱法華題目抄の御文は短い一節ではありますが、豊潤な内容を含んでいます。