かれらの小説の一部登場人物たちが贅沢だとしても、19世紀の小説家たちは、格差はある程度必要不可欠なものとして世界を描いている。もしも十分に裕福な少数の人々が存在しなければ、誰も生存以外のことに頭がまわらなかっただろうと考えていた。このような格差に対する考えは、少なくともそれを能力主義に起因するものとして描かなかった点では賞賛に値する。ある意味で、この少数の人々はその他のみんなのために生きるように選ばれた人々であったが、誰もこの少数の人々が、他の人々よりも能力が高いとか高潔だとかいうふりはしていない。それにこの世界では、財産がなければ尊厳のある人生が送れないのはまったく明らかだ。学歴や技能があれば、平均の5倍や10倍は稼げるかもしれないが、それ以上はない。現代の能力主義社会、特に米国は敗者に対してずっと厳しい。なぜならその社会は、根柢の人々の低い生産性は言うに及ばず、正義、美徳、能力が優れているから自分たちの優位性は正当化されると主張したがるからだ。
トマ・ピケティ『21世紀の資本』山形浩生 守岡桜 森本正史 訳 みすず書房 432頁
19世紀の世界は、まさに格差社会であり、階級社会ですが、当時の小説家からその社会が糾弾されていたかというと、そのようなことはなく、格差社会は当然という描写であったようです。
ただ、裕福な暮らしをしている少数の人々が、人間的に優れ、能力があるから裕福な暮らしをするにふさわしいというものの考え方ではないようです。
言ってみれば、たまたま裕福な家に生まれたというだけのことであり、運がよかっただけということです。
裕福な家に生まれた少数者が、貧しい人に対して、自らが優れていると主張しないというのは、能力主義社会の観点からすると、不思議に思えますが、当時の裕福な人からすれば、自らが優れていると主張する必要もなかったのでしょうね。
いずれにしても、古今東西を問わず、財産がなければ話にならず、尊厳などあったものではありません。
まともな生活をしたければ、財産がなければなりません。
お金なんて、などとほざいている場合ではありません。
この世の中がお金で動いている以上、どのようなことがあろうとも、それなりの財産は確保しておくべきです。所謂、恒産というものですね。
ピケティの指摘で「学歴や技能があれば、平均の5倍から10倍は稼げるかもしれないが、それ以上はない」という点は興味深いですね。
平均の5倍10倍も大したものですが、「それ以上はない」と言われると、大したことがないように感じられます。
ピケティが論じているのは、10倍をはるかに超える報酬を得るスーパー経営者のことであり、5倍10倍などもののかずではないということでしょうね。
そして、ピケティが難じているのは、特に米国のスーパー経営者の自らが優れていると強調したがる点です。
人間的に優れていると言うそのもの言いに不遜なもの、思い上がり、勘違い、滑稽さ、実のところおバカさんという点を見ているのでしょう。
確かに、10倍を超える報酬は多すぎるでしょうね。運が良かったという分には、その通りでしょうと首肯できますが、私が優れているからですよと言われると、失笑しますね。そんなことはないだろう、と指摘することになるでしょう。
たくさんの報酬を得るのは結構なのですが、思い上がる必要はないでしょうね。
多額の財産が得られても、それは運が良かったからと考えるのが正しいでしょうね。
ただ、人間は、お金を持つと名誉が欲しくなるために、自分が優れていると言いたくなるのでしょうね。
こうなりますとお金の問題というよりは、精神性の問題といえるでしょう。
お金があるからこそ出てくる名誉欲、これを制御することができれば、それなりの一級の人間になったといえるでしょう。