アメリカ革命とフランス革命はどちらも、権利の平等を絶対的な原理として認めた――当時としては進歩的な立場だ。でも実際問題としては、19世紀を通じ、こうした革命から生じた政治体制は、主に財産権保護に専念したのだった。
トマ・ピケティ『21世紀の資本』山形浩生 守岡桜 森本正史 訳 みすず書房 500頁
権利の平等を絶対的な原理として認めることは大切なことだとは思います。
しかし、権利の平等を絶対的な原理として振りかざしたところで誰も相手にしないでしょう。
実際のところ、権利は平等ではありません。権利を行使できる人と権利を行使したくてもできない人とがいます。よって、権利は平等とはいえないでしょう。
簡単に言うと、財力がある人にとっては、権利は行使しやすく、実際、行使しています。また、権利を行使する術を知っています。
財力がない人は、権利を行使したくとも、どのように行使すべきかを知りませんし、知ったところで、タダで権利を行使することはできず、それなりのお金がかかります。そのそれなりにお金すらないのが財力のない人ですから、権利は平等という以前に、そもそも財力のない人にとっては権利などないのですね。
権利を行使できる人、つまり、財力がある人が政治体制を作り上げますから、財産権保護に専念するのは当たり前でしょうね。
財力のある人は、建て前では、権利の平等を絶対的な原理として謳ったにしても、本音では、権利が平等なわけがないと思っているわけです。当然でしょうね。
左がかっているのかどうかは分かりませんが、権利の平等を絶対的な原理として叫んでいる人がいますが、よく見るとただの貧乏人であったりします。
まずは、真面目に働けば、と思ってしまいますし、まずは、貯金すれば、と思いますね。
権利、権利と言えば、どうにかなるというその発想が貧困なのですね。よって、生活も貧困というわけです。
現実の世の中をみれば、建て前と本音とがあり、それを上手に使い分けることが大切なのですね。
いつまでも子供じみたものの考え方で生きていくのは危険極まりないことです。厳しくとも現実を見つめ、そのメカニズムを解明していく癖を付けておく必要があるでしょう。