「例えば経済学ならアダム・スミスの『国富論』と、マルクスの『資本論』を読了しただけでも、まあ兎に角経済学を勉強した人として通用しますし、資本主義経済機構の根本はそれだけで一応理解できます(近代経済学の人には叱られるかもしれませんが)。政治学にはこういった意味での「便利な」古典というものはありません」(丸山眞男『政治の世界』岩波文庫 245頁〜246頁)
然るべき古典がある分野の方が研鑽しやすいという側面はありますね。
とにかく、これだけはしっかりと読み込むべきという本があれば、確固とした軸が出来ます。
安定しますし、安心しますし、落ち着きもでます。
常に、帰るべき家があるような感じでしょうか。
ひとつの例として経済学ならば、『国富論』と『資本論』とを読めば、それなりの格好がつくようです。
政治学や社会学などになると、所謂「便利な古典」がなく、あれもこれも読まなければなりません。
そうこうしている内に、「私は一体何をしているのだろう」と思い始めます。
帰るべき家がなく、ジプシーのようになるわけです。
軸となる古典がないだけに、フラフラしてしまうのですね。
なかなかつらいところです。
そういうわけですから、政治学や社会学等々の学問の場合、専門家を目指すのは大変ですから、一般教養の枠組みの中であれこれ自由にあらゆる本を読んでいく方が、精神衛生上、好ましいと思いますね。
専門として極めたいならば、確固とした古典がある分野を選ぶのがよいでしょう。
日蓮仏法を専門にする場合は、「御書」と「法華経」とが軸になります。
この軸になる書を何度も丹念に読み込むことが専門家への道といえましょう。
あれもこれもと広げるのでなく、とにかく、深く研鑽することが大事です。
依って立つべきものがない分野は、落ち着きません。
やはり、これは申し分ないという古典と共に人生を歩んできたいものです。