新宗教団体が設立された時には、純粋で瑞々しいものですが、世代が変わるにしたがって、変質していくものです。
法華経教団、日蓮教団で考えますと、当初は、法華経を中心にし、日蓮を中心にして、法華経及び日蓮が言うように人々の中から仏を開くということを目指します。
信仰する人が成仏するか否かに関心があるわけですね。
法華経、日蓮の御書に基づく新宗教教団としての活動がそこにはあります。
当たり前のことを当たり前にしているというだけです。
特別なことはありません。
しかし、教団がそれなりに大きくなり、世代も変わり、教祖のように崇められる人が出てくるとおかしくなるようです。
創設時にもっていた信仰する人が成仏するというテーマが薄れ、いつの間にか、教祖のように崇められる人の自己実現がテーマになり、目的になっていきます。
根本義から外れた余分なものが出てくるわけですね。
根本義とは、信仰する人が成仏することであり、法華経教団、日蓮教団としては、南無妙法蓮華経と唱えることです。
ここで日蓮の言葉を確認してみましょう。
「法華経を行ずる人の一口は南無妙法蓮華経・一口は南無阿弥陀仏なんど申すは飯に糞を雑へ沙石を入れたるが如し、法華経の文に「但大乗経典を受持することを楽うて乃至余経の一偈をも受けざれ」等と説くは是なり」(『日蓮大聖人御書全集』1071頁)
確かに、変質してしまった教団にしても、一応、南無妙法蓮華経とは唱えています。
しかし、教祖のように崇められている人の自己実現を達成するという目的が付随しています。
これが余経なわけですが、日蓮は、これを「南無阿弥陀仏」と表現しています。
「南無阿弥陀仏」は、その字の通り、阿弥陀仏に南無する、つまり、阿弥陀仏に帰命するということです。
教祖のように崇められている人を崇拝するというところとよく似ています。
法に基づかず、人に基づいていますね。
日蓮は、あくまでも「法に依つて人に依らざれ」(涅槃経)ですから、この点からも変質した新宗教団体はおかしな方向に行っていることが分かります。
教祖のように崇められている人が自己実現を達成するのは、それはそれで結構ですが、自分自身でやっていただきたいですね。
新宗教団体を巻き込んで、信仰する人々を巻き込んで行うことではありません。
新宗教団体が本来持っていた目的に立ち返ることですね。
そのためにも、「不受余経一偈」が大切になってきます。
変なものを採用しない、取り入れない、相手にしない、ということですね。
新宗教団体の中から、本来あるべき目的は採用するが、その目的と関係しないものは採用しないことです。
もし、余経を取り入れてしまうならば、日蓮が言うように「飯に糞を雑へ沙石を入れたるが如し」ですから、何もかも台無しです。
教祖のように崇められている人の自己実現に協力する必要はありませんし、協力するとご飯のなかに変なものが混じりますから特に注意が必要です。
せっかく「南無妙法蓮華経」と唱えていても「南無阿弥陀仏」に相当する教祖のように崇められている人を崇拝する言辞を吐いている限り、法華経及び日蓮の御書に基づく成仏はあり得ません。
もちろん、教祖のように崇められている人が書いたとされる書物に基づく成仏はあるかもしれませんが、そのような宗教もどきは私の信仰とは関係しませんので、お好きにどうぞとしか言いようがありません。
ただ、既存の新宗教団体を利用するのは控えていただきたいですね。
どうしても、教祖のように崇められている人の自己実現がしたいならば、別の新しい団体を作ってほしいものです。
しかし、そうすると、教祖のように崇められている人の自己実現が不可能になるので、既存の新宗教団体を利用するのですね。
困ったものです。
時代の流れにまかせながら、待つことでしょうか。
その間は、根本の目的を忘れることなく、オーソドックスに信仰していきたいですね。
ある意味、新宗教団体があろうとなかろうと信仰できるわけですから、実のところ、問題はありません。
新宗教団体が本来の目的に帰るならば、それなりの利用価値はあるでしょう。
団体があった方が楽しいというところがありますからね。
もちろん、変な目的が混じっていると楽しくありません。
いずれにしても、真剣に信仰を続けていくことが大切ですね。