鎌倉仏教の高僧の一人として、「日本史」や「倫理」の教科書等で紹介される日蓮は、歴史上の人物であると共に現在の我々にも強い影響力を及ぼしている人物といえます。
伝統的な仏教教団としては、身延山久遠寺の日蓮宗、大石寺の日蓮正宗、その他の日蓮宗や法華宗等々の教団が存在します。
当然、「日蓮宗」というぐらいですから、日蓮の影響をもろに受けています。
この影響は、そのまま、檀家、信徒等に及んでいます。
新宗教の教団としては、霊友会、立正佼成会、創価学会などの巨大教団がありますが、日蓮の影響を強く受けています。
この影響も、各会員に及んでいます。
確かに、鎌倉時代、十三世紀の人物ではありますが、伝統的な仏教教団や新宗教の教団の隆盛を見るとき、現在にも多くの人々に強い影響力を及ぼしている人物であることが窺われます。
この点から、日蓮を読むことは、法華経を学ぶことにもなりますが、取りも直さず、現在の我々の生き方を読むことともいえます。
「日蓮を問うことは、十三世紀の日本の問題であるとともに、まさしく現在我々がいる日本を問うことでもある」(末木文美士『増補 日蓮入門 現世を撃つ思想』ちくま学芸文庫 14頁)とは、全くその通りであると思います。
現在にも強い影響力があるということは、伝統仏教教団や新宗教の教団に確固とした日蓮観というものがあるということであり、所謂、「宗学」や「教学」といわれるものが確立されていることとパラレルになっています。
日蓮を読んでいく場合、伝統教団や新宗教教団の著作を参照することもありますが、教団としての「宗学」、「教学」が強すぎるきらいがあります。
やや、強引な読み方をしているのではないかと思われるふしがあります。
教団としては、それでよいかもしれませんが、一信仰者、一読者、一人間という観点から考えた場合、教団云々は、実のところどうでもよいことです。
影響力が強い日蓮だけあって、伝統教団、新宗教教団の影響力も強いものです。
しっかりと読み込んでいかない限り、伝統教団、新宗教教団の読み方に押し切られてしまう感があります。
このことから、「先入見を捨てて、テキストを文脈に即して理解することが肝要である」(同書 20頁)との指摘通り、「御書」または「遺文」といわれる日蓮の著作そのものを適切に把握することが大切になってきます。
伝統教団や新宗教教団の業績や蓄積を活用すべきは活用しながらも、主体的に日蓮を読み込むという姿勢が求められるでしょう。
教団にとっての日蓮ではなく、自分自身にとっての日蓮という観点が必要です。
そうしないならば、現在の自分自身の生き方と関連しない日蓮になってしまいます。
あくまでも現在の自分自身の生き方と連動する形で日蓮を読み、我がものとしていくべきでしょう。