聖徳太子が役人に対して訓示したのが「十七条憲法」です。
しかし、役人だけのものとする必要もなく、内容に関しては現代にも通用するものばかりですので、民衆にも求められる姿勢が示されている書として読み込めばより価値的でしょう。
「十に曰く、こころのいかり〈忿〉を絶ち、おもてのいかり〈瞋〉を棄てて、人の違うことを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執るところあり。かれ是とすれば、われは非とす。われ是とすれば、かれは非とす。われかならずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫のみ」(聖徳太子『法華義疏(抄)十七条憲法』中央公論新社 149頁)
「忿」や「瞋」に気を付けるよう訓示していますが、1400年前も今も人間の本質は変わらないようです。
瞋ることが最悪の生命状態であるとの指摘は日蓮も行っていますが、聖徳太子も指摘していたのですね。
また、人はそれぞれ考え方も生き方も違うということを認識し、いちいち違いに目くじらを立ててはいけないと教えています。
一緒でなければならないと考えている方がおかしいといえましょう。
一緒、同じであるならば、別々に存在する必要はありません。
それぞれ違いがあるからこそ、別々に存在しているというのが実相です。
その上で、自分だけが素晴らしいのだ、偉いのだといった勘違いをしないよう教えています。
人は自分に関しては評価が甘くなるものです。
注意したいですね。
その一方で、他人に対しては評価が辛くなり、愚か者と認定したくなるようです。
つまり、相手が愚かであればあるほど、自分だけが聖なる者になると考えているのでしょう。
しかし、どちらかが聖なる者であり、どちらかが愚か者というのではなく、共に凡夫と指摘しています。
実のところ、大差ないということですね。
さほど差がないわけですから、その僅少な差にあくせくするよりは、相手の違いを理解し、その違いを尊重し、学べる点があればさりげなく学んでしまうという、したたかな姿勢が求められます。