「私たちがおこなっている行為や考え方のかなりの部分は自分で選んだものではなく、日本の文化の中で成長する過程で身につけてきたものである。日常生活において、多くのことは一々理由を考えず、当たり前のこととしておこなっているが、それはある文化の中で共有されている「当たり前」であり、別な宗教から生み出された別の文化にはまったく異なる「当たり前」が存在する」(吉村均『神と仏の倫理思想』北樹出版 17頁)
大人になるにしたがって、自分が生きている国で「当たり前」とされていることが、他の国では「当たり前」ではないということに気付き始めます。
海外旅行に行くことも多いでしょうし、身近に他の国の文化に触れると「違い」を感じることができます。
また、書籍、テレビ等で外国の事情を見聞きする中で、いろいろな文化、習慣があるものだと認識するに至ります。
一般的な文化に関しては理解できても、宗教が絡みはじめると理解できなくなる場合があるようです。
自分が信仰している宗教が絶対であると凝り固まっている人にとっては、他の宗教の言説のすべてが間違いであり、腹立たしさを引き起こす源となっているようです。
ある新宗教の人にイギリス人の学者の文章を読ましたところ、段々と怒りが込み上げてきているようでした。
自分と違う国、宗教の人の文章を受け付けないという感じでしたね。
その後、その文章について話をしようとしましたが、その人は怒りにまかせてイギリス人学者の著者の悪口を言うばかりでまともな話になりませんでした。
その人に言わせるとイギリス人の学者は「分かっていない」ということだそうです。
国や宗教が違えば、「当たり前」とすることが違うのであり、その違いを理解することが重要という意図でその文章を素材にして話をしようとしたのですが、その人にとっては、「分かっていない」の一言でおしまいです。
その人は不勉強な人なので、おせっかいながらも勉強の素材を提供したのですが、不勉強な人は偏狭な考え方に留まるばかりで、勉強が嫌なようであり、違いを理解したくないようです。
「分かっていない」のはその人なのですが、その人がそのことに気付くことはないでしょう。
違いが分からないということは、恥ずかしいことですね。
傍目から見て、こちらが恥ずかしくなるぐらいのみっともなさでした。
世界には、いろいろな「当たり前」があるということ、それぞれの国、宗教には違いがあるということをしっかりと分かり、認識した上で、自分自身の考え方、信仰に磨きをかけていきたいですね。