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2024年02月04日

そばや 永竜

千束
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【このカテゴリーの最新記事】

2023年03月21日

かいとう

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3バツ14バツ1狭間

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24人

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33

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1バツ12バツ1


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8以上?

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102〜

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21以上


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105以上


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282以上

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300以上

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535以上

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9くらい

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60以上

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170以上

2022年11月29日

竹田氏(たけだし)

竹田氏(たけだし)
岩手県八幡平市大更
屋号は孝エ門(こえもん)

竹田孝エ門
竹田菊松
竹田嘉吉
竹田ふじまつ
竹田新一
竹田重男(たけだしげお)息子
0195-76-4389

竹田末松
竹田一正(かずまさ)甥っ子
竹田一義(かずよし)(息子)
0195-76-4330

竹田藤男
0157252817

岩手県竹田氏に関して
情報お寄せくださいませ平謝り下矢印2
07090166990

2022年11月19日

海和家(かいわけ)

海和家家とは山形県山形市漆山が本拠。同地に江戸時代にあった。
北海道北見市端野町2区にある
海和家は10人くらいでなんと徳島県から渡って来たと言う話です
海和祐作 曾祖父
海和祐蔵 祖父
海和正勝 叔父
海和加代子
海和家(かいわけ)に関するルーツとかありましたら連絡下さい
平謝り‍♂️
07090166990

2020年02月24日

福島女性教員宅便槽内怪死事件

他殺説
誰かにおしこめられた

自殺説
女性教員に何らかの復讐

のぞき説
限りなくありえない

なぜか
のぞくとしても彼女の身辺、
行動を確認してから
便槽に入る為

2020年02月04日

村上源氏

村上源氏(むらかみげんじ)
第62代村上天皇の皇子を祖とする源氏氏族で、
賜姓皇族の一つ。
姓(カバネ)は朝臣。
Screenshot_20200204-124848~2.png
家紋
五竜胆車 いつりんどうぐるま
各、村上源氏によって異なる。

本姓
源朝臣
家祖
第62代村上天皇の皇子・諸王
種別
皇別
出身地
山城国
著名な人物
村上源氏の人物一覧参照
支流、分家
久我家(公家)
中院家(公家)
久世家(公家)
東久世家(公家)
植松家(公家)
六条家(公家)
梅渓家(公家)
愛宕家(公家)
千種家(公家)
岩倉家(公家)
北畠家(地下家のち武家)
赤松家(武家)など

概要
源氏には祖とする天皇別に二十一の流派(源氏二十一流)があり、村上源氏はそのうちの一つで村上天皇から分かれた氏族である。

致平親王、為平親王、具平親王の各皇子を祖とする3つの流派がある。その中でも具平親王の子孫の中院流が最も栄え、久我家(嫡流)や中院家を始めとして10家の堂上家を輩出し、源氏系の公卿では筆頭を占めた。

歴史
村上源氏の中でも最も栄えたのは、具平親王の子・資定王(のち源師房)の中院流の流れである。資定王は2歳で父親と死に別れ、姉である隆姫女王に育てられた。隆姫が後に摂政藤原頼通の正室となると、子供のなかった頼通は養子縁組をするために資定王を臣籍降下させ、源師房と名を改めた。頼通の父・藤原道長も師房を寵愛して娘の尊子を嫁がせた上に、頼通に男子が生まれなければ師房を藤原氏に改姓させて摂関家を相続させても構わないと言ったとされている。

師房が摂家を継ぐことはなかったものの、師房の娘・麗子は藤原師実、師房の次男である 源顕房の娘・師子は藤原忠実の正室となり、藤原頼長が「彼の右府(師房)外戚先祖と為す」[1]と記すなど結びつきは強く、子孫からは多くの大臣を輩出した。顕房の娘・賢子が産んだ堀河天皇の治世では、「左右大臣、左右大将、源氏同時に相並ぶ例、未だ此の事あらず」[2]、「近代公卿廿四人、源氏の人半ばを過ぎるか、未だ此の如き事あらんか」[3]とあるように天皇の外戚として隆盛を極めた。源顕房長男・源雅実は源氏として初めて太政大臣となる。その後、天皇の外戚の地位は藤原氏閑院流に奪われて源氏の勢力は後退する。

鎌倉時代になり、中院流嫡流の源通親は九条家に対抗し後白河法皇・後鳥羽上皇の院政下で活躍し、土御門天皇の外祖父として権勢を振るった。

通親の子・源通光以降は久我を家名とした。足利義満が太政大臣となるまでは清華家である久我家・堀川・土御門・中院の4家が交互に源氏長者を世襲したが、室町時代に堀川・土御門両家が断絶し[4]、久我・中院両家の世襲となる。

久我家からは大臣家となる中院家やその分家筋である北畠家、岩倉家、六条家の分家である千種家のほか、合計10家の堂上家を輩出した。南北朝期の北畠親房と顕家父子と千種忠顕、幕末の岩倉具視も村上源氏の支流にあたる。

その一方、村上源氏雅兼流と自称した名和氏や、同じく村上源氏季房流と自称した室町時代の守護大名赤松氏(および奥平氏)など、村上源氏の後裔と称する武家も数多く存在する。

系譜
村上天皇諸皇子系譜

第62代天皇
村上天皇

皇子

広平親王

第63代天皇
冷泉天皇

為平親王ー為平親王流へ

昭平親王

昌平親王

第64代天皇
円融天皇

具平親王ー具平親王流へ

永平親王

2020年02月03日

豆まきの由来

宇多天皇(うだてんのう)の昔、
くらま山の近くに住んでいたオニが、
村人を困らせるので、
豆を打ってオニを追い払ったのが
始まりと言われています。

2020年01月19日

源氏

源氏(みなもとうじ、げんじ)
日本の氏族のひとつ。姓は朝臣。

Screenshot_20200118-203333~2.png
家紋 笹竜胆ささりんどう
  (代表的な家紋)
各、源氏によって異なる。

氏姓
源朝臣
氏祖
天皇の皇子・諸王
宮家の諸王
種別
皇別
著名な人物
村上源氏:
源通親
北畠親房
清和源氏:
源頼朝
足利尊氏
徳川家康(自称)
その他は源氏の人物一覧を参照
後裔
嵯峨源氏
村上源氏
清和源氏
花山源氏
宇多源氏
正親町源氏
など

その他の源氏については、二十一流を参照

日本において皇族が臣下の籍に降りる(臣籍降下)際に名乗る氏のひとつで、多数の流派がある。源氏を統べる源氏長者は室町時代まで村上天皇の子孫である村上源氏が独占し、建久七年の政変で摂関家を越える権力を手にした源通親や、後醍醐天皇第一の側近として南朝を指揮した北畠親房などがいる。また、清和天皇の子孫である清和源氏は武家の棟梁を多く輩出し、鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏などがいる。戦国時代の武将松平元康も後半生には清和源氏を自称して徳川家康と名乗り、江戸幕府を開いた。

概要
姓の代表的なものの一つとして、平氏・藤原氏・橘氏とともに「源平藤橘」(四姓)と総称されている。

嵯峨天皇から分かれた嵯峨源氏や清和天皇からの清和源氏を含め、二十一の流派(二十一流)があるとされている[注釈 1]。中でも家格が最も高いのは村上源氏とされ、室町幕府の成立まで源氏長者を有した。また、平安以降臣籍降下が頻発すると源・平の二姓ばかりになるが、最近の研究で「一世王、二世王が源、三世以降が平」だった事が判明している。源姓(本姓が源氏)の家系はそれぞれ別の苗字を号しているため、現在「源」を今日的な意味の姓として名乗る例は多くなく、推定人口は4,000人程である。

代表的な家紋である「笹竜胆」は日本最古の家紋であると言われている。

起源
嵯峨天皇が生まれた子らに源姓を与えたことに始まる。皇室と祖(源流)を同じくするという名誉の意味をこめて与えられた。

元々は中国の五胡十六国時代、南涼王の子の禿髪破羌が、南涼滅亡後に北魏に仕えた際、太武帝から禿髪氏と拓跋氏(北魏の帝室の姓)は源が同じであるとして源の姓を与えられ、源賀と名乗ったことに由来する。

他にも、「源」は「水元」であるという説もある。例えば、『和訓栞』(谷川士清)では「みなもと、源をよめり。水元の義なり」とある。また、『神代巻藻塩草』(玉木正英)では「源ノ訓ハ水元也」とある。

嵯峨天皇に皇子皇女が増え、朝廷の財政を逼迫させる基にもなることから、早くに臣籍降下することが皇胤にとって子孫繁栄の道であった。親王ながら皇位を望めない場合や、諸王にあって親王宣下を望めない皇族が自ら降下を求める場合と、朝廷から一方的に降下させる場合とがあり皇別氏族を取り巻く状況は朝廷の財政事情と常に連動する要素が強かった。

嵯峨天皇の後の天皇も度々皇族を源氏として臣籍に下したことから、嵯峨天皇を祖とする源氏を嵯峨源氏と称する様になり、以後源氏はそれぞれの祖と仰ぐ天皇の号をもって氏族の称とした(仁明源氏、文徳源氏、清和源氏、宇多源氏など)。

臣籍に降下すると言っても天皇の実子である一世源氏は特殊な待遇を受ける存在であった。嵯峨天皇の子である源定・源融、仁明天皇の子である源冷は父天皇の意向で親王の例に準じて内裏において元服を行っており、親王に準じた待遇を受けた。その後、陽成天皇の退位後の後継選定で藤原基経が源融を退けて光孝天皇を即位させ、光孝天皇が崩御するとその基経が臣籍に降下した源定省を復籍させて宇多天皇として即位させるなど、同じ天皇の子でも親王と一世源氏の区別の明確化を迫られる事態が発生し、宇多天皇以降の儀式書では親王の元服と一世源氏の元服では異なる作法が記されるようになる。しかし、その後も規模を小さくしながらも内裏で元服を行い、内蔵寮から饗宴や引出物が用意された醍醐天皇の子である源高明・源兼明の元服など一世源氏の特殊性が完全に排除されることはなかった(内蔵寮は天皇の私的な支出を扱う官司であり、一世源氏の元服を公的行事から天皇主催の私的行事に切り替えることで特殊性を維持したとみられる)。『源氏物語』において、桐壺帝が一世源氏である光源氏の元服を自ら主導して、引出物も自ら準備している(費用も桐壺帝の負担と考えられる)のも、一世源氏の特殊性が描かれた場面と言える[2]。

また、朝廷が皇族を臣籍降下させ源氏とした背景としては上級貴族として皇室の藩塀とすることという理由もあった。しかし実際には3代目以降も上級貴族であり続けた例はほとんどなく、大半は受領階級として地方へ赴任しそこで土着して武士化するか、中央で中下級貴族として細々と生き延びた。他に皇族に対して賜った姓としては、在原朝臣・平朝臣などがある。

武家源氏と公家源氏
清和源氏は、二十一流あるといわれる源氏における一家系であるが、武家源氏として歴史上に名を馳せたことにより、清和源氏をして源氏と称することが多い。

この一族は清和天皇の皇子を祖とする。武家源氏として名を馳せた清和源氏においては畿内に始まり各地に土着しており、源満仲の子から摂津源氏、大和源氏、河内源氏とに分かれた。河内国を本拠地とした河内源氏の源義家(八幡太郎義家)はその主流で、その子孫は鎌倉幕府を開いた源頼朝に代表される武門として栄えた。さらに河内源氏からは石川源氏、甲斐源氏、常陸源氏、下野源氏(足利氏)、上野源氏(新田氏)などが分派している。摂津国を本拠地とした摂津源氏からは多田源氏、美濃源氏その他が分派しており、いずれも清和源氏一門であり、いわゆる「武家源氏」である。

清和源氏以外に武家となった源氏としては、嵯峨源氏の源融を祖とする「融流嵯峨源氏」がある。嵯峨源氏の武家として系譜を伝えた代表は、摂津国を基盤とした渡辺氏とその分流の松浦氏である。また、宇多源氏の中で武家として近江国を基盤とした系統は近江源氏(佐佐木源氏)と称し、佐々木氏として有力武士団に成長していく。

中央貴族として栄えた源氏として村上天皇の皇子を祖とする村上源氏がある。同じ源氏でも公卿として繁栄する系統や、武士や神官となる系統に別れるのは、政治情勢や臣籍降下する者、母方の勢力や身分がその後の官途に大きく左右する為である。特に天皇の皇子が降下することを、「一世の源氏」といい、任官の上で大いに優遇された。皇孫に至って臣籍降下することを「二世の源氏」といい、一世の源氏よりも家系的には不利を蒙った。

平安後期以降、皇位継承とは関わりのない皇子皇女たちは出家する慣例が生まれたため、賜姓源氏はほとんど途絶えていた。江戸時代に入って一家が生まれた(広幡家)が、それを最後に源氏賜与は途絶えた。

源氏の一覧
源氏は全部で21の流派(「二十一流」参照)があるとされるが、そのうち18流を以下に示す。

嵯峨源氏
52代嵯峨天皇の子孫。詳細は「嵯峨源氏」を参照。

嵯峨天皇は多くの皇子皇女に源氏姓を賜り臣籍降下させた。この内、源信・源常・源融は左大臣となり、平安時代初期に朝廷の一大勢力をなした。また、源融の系統は地方に土着として武家となった。

氏族:渡辺氏、松浦氏、蒲池氏など

嵯峨源氏 系図
嵯峨天皇諸皇子・皇女系譜
女子は数を限って記載。

日本の第52代天皇
嵯峨天皇

日本の第54代天皇
仁明天皇 嵯峨天皇の第二皇子

秀良親王

業良親王

忠良親王

基良親王

淳王

源信 源信流へ

源弘 源弘流へ

源常 源常流へ

源定ー源至ー源挙ー源順

源明 源明流へ

源生ー源加ー源浮
   源見

2020年01月18日

清和源氏

清和源氏(せいわげんじ)
第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。
Screenshot_20200118-203333~2.png
家紋 笹竜胆(代表的な家紋)
   各、源氏によって異なる。

本姓
源朝臣
家祖
第56代清和天皇の皇子・諸王
種別
皇別
出身地
摂津国
著名な人物
清和源氏の人物一覧参照
支流、分家
摂津源氏
大和源氏
河内源氏
その他の支流については、主な清和源氏を参照

概要
源氏には祖とする天皇別に21の流派(源氏二十一流)があり、清和源氏はそのうちの一つで清和天皇から分かれた氏族である。

清和天皇の皇子のうち4人、孫の王のうち12人が臣籍降下して源氏を称した。中でも第六皇子貞純親王の子・経基王(源経基)の子孫が著しく繁栄した。

中級貴族であった経基の子・源満仲(多田満仲)は、藤原北家の摂関政治の確立に協力して中央における武門としての地位を築き、摂津国川辺郡多田の地に武士団を形成した。そして彼の子である頼光、頼親、頼信らも父と同様に藤原摂関家に仕えて勢力を拡大した。のちに主流となる頼信流の河内源氏が東国の武士団を支配下に置いて台頭し、源頼朝の代に武門の棟梁として鎌倉幕府を開き、武家政権を確立した。

その後の子孫は、嫡流が源氏将軍や足利将軍家として武家政権を主宰したほか、一門からも守護大名や国人が出た。また一部は公卿となり、堂上家として竹内家が出た。

出自
Screenshot_20200118-205124~2.png
初期清和源氏の略系図(源満仲の子まで)

一般に武家として知られる清和源氏の起源は、清和天皇の第六皇子貞純親王の子である経基王(六孫王)が臣籍降下により源姓を賜り源経基と名乗ったことに遡る。

陽成源氏説
経基王について、貞純親王の子ではなく貞純親王の兄陽成天皇の子・元平親王の子であるとする陽成源氏説がある。この出自論争は実証ができず決着はついていない。

この陽成源氏説は明治の歴史学者星野恒が『史学雑誌』に発表した論文「六孫王ハ清和源氏ニ非ザルノ考」において提唱した説で、「清和源氏の祖は実は清和天皇ではなく陽成天皇であるが、暴君であったとされる陽成帝の名を冠せず清和源氏を名乗った」というものである。石清水八幡宮祠官田中家文書の中に源頼信が誉田山陵(応神天皇陵)に納めたと称する永承元年告文に「先人新発、其先経基、其先元平親王、其先陽成天皇、其先清和天皇」と明記してあることが根拠である。 発表当時は波紋を投げかけたものとなったが、通説の清和源氏説を覆したり長く論争になったりすることはなかった。

その後、竹内理三が永承元年告文を肯定する[1]と、庄司浩、杉橋隆男、奥富敬之、貫達人、元木泰雄、野口実など支持者が増え有力な仮説となった。 一方で宝賀寿男[2][3]、赤坂恒明[4]など旧来の系譜が妥当とする立場もあり、決着はついていない。

賛成の立場でも星野説そのままではなく、竹内は陽成天皇の暴君像を武士の家としてふさわしいものと捉えている。

また経基・貞純親王・元平親王などの年代で論じるもの[3][5]もある。ただし赤坂によって、史料性の上で問題ないといえない系図資料が使用されていると指摘されている。 赤坂は、当時の皇族の叙位例・氏爵などから清和源氏説が妥当とする。また『権記』に引用されている天暦7年(953年)の王氏爵不正事件に現れる、清和天皇の子孫でありながら陽成天皇子孫を詐称したとして罰せられた源経忠を経基あるいはその兄弟と推定し、頼信が願文で陽成天皇の子孫であることは真実であると主張して名誉回復を図ったと解釈する。

写本であり告文の裏面に校正したと但書きがあることから、宝賀寿男はその信憑性を疑っている。一方、安田元久は星野説の考証を肯定する、ただし一層厳密な史料批判が必要とする。義江彰夫も今考証する余裕はないが源頼信の作に間違いないとする[6]。赤坂は先行研究から後世の偽作でないことは確実だが源頼信による作為があり実際と異なるとしている。

なお経基が清和源氏でも陽成源氏でも、武士の家となった系統の性質に違いはない[4]。また「清和源氏」は広く名が知られさらに名称で本質は変わらないため、「陽成源氏」へ名称を変える必要はないとする意見[7]もある。

系譜
清和源氏説:清和天皇−貞純親王−源経基−源満仲
陽成源氏説:清和天皇−陽成天皇−元平親王−源経基−源満仲  

歴史
武士団の形成
経基の名跡を継いだ源満仲は藤原摂関家に仕えて各地の受領を歴任、摂津国川辺郡多田(現 兵庫県川西市多田)を本拠地として源氏武士団を形成した。酒呑童子退治などで有名な満仲の長男・源頼光も摂津国に拠点を置いたことから、摂津源氏と呼ばれる武士団を形成した。摂津源氏の中でも本拠である多田を継承した嫡流源頼綱(頼光の孫)の系統を多田源氏という。満仲の次男・源頼親の系統は大和国宇野(現奈良県)を本拠地としたことから大和源氏と呼ばれる武士団を、三男・源頼信の系統は河内国壷井(現大阪府羽曳野市壷井)を本拠としたことから河内源氏と呼ばれる武士団を形成した。

源氏一族の争い
源満仲の子の中でも特に三男の源頼信は、長元元年(1028年)房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で起きた平忠常の乱(長元の乱)を平定するなどの武功を示す。また頼信の子・頼義は康平5年(1062年)から陸奥国奥六郡に蛮拠する俘囚の長・安倍氏を討ち(前九年の役)、頼義の子・八幡太郎義家は、同族の源国房、源重宗と合戦を繰り広げ、寛治元年(1087年)には出羽国の俘囚長・清原氏の内紛を収めて(後三年の役)声望を高め、頼信流の河内源氏は東国に足掛かりを持つようになった。河内源氏はこのように武名を上げ、それまでの清和源氏庶流であった地位から嫡流の地位を事実上占めるに至った。このような興隆は時の権力者白河法皇の警戒を招き、河内源氏は抑圧された[8](ただし、研究の進展で見直しがされている)。

河内源氏が摂津源氏のように京都を活動舞台にせず板東を拠点としたのは、兄の源頼光、源頼親が藤原道長に側近として仕えたのに対し、頼信は上野介や常陸介など遠方で収入の少ない東国受領となっていたからである[9]。しかし、上記のように武功を重ね、義家、義綱(美濃守)、義光(新羅三郎)兄弟の頃には清和源氏最大の勢力となっていた(ただし、義家と義綱の仲は悪く、義綱は中央で昇進を重ねた。)。この頃、源氏庶流は国の下級官人を辞し、地方の荘官などとなることにより勢力を築いていった。

しかし、義家の晩年に次男の義親が朝廷に反抗したため義家は苦境にたたされ、河内源氏に陰りが見え始める(義家の長男は早世していた)。また、弟の新羅三郎義光(常陸源氏、甲斐源氏の祖)と四男の荒加賀入道義国(上野源氏、下野源氏の祖)が嘉承元年(1106年)に常陸合戦を引き起こし、両者が勅勘を受けてしまう。さらに天仁2年(1109年)、義家の死後に家督を継承し栄名を誇った、義家の三男源義忠が暗殺され、当初事件の主犯とされた弟の義綱(美濃守)が、白河法皇の命を受けた源義親の子源為義と源光国(美濃源氏)の討伐を受けて壊滅、また事件後真犯人が新羅三郎義光であったことが明らかになるなど、河内源氏内部の分裂は明白になり、権勢はしばらく失墜した。この背景には、河内源氏が拠り所にしていた摂関家の摂関政治から、白河法皇の院政への移行があった。

摂関家と院の対立
源義忠の後を継いだ源為義は白河法皇に近侍したが、自身、郎党、八男・鎮西八郎為朝らの乱行で信用を失ったため、摂関家へ接近した。一方で長男の源義朝は南関東に下向して勢力を伸ばし、白河法皇に仕えて父とは別行動をとった。この際、当時の武蔵守・藤原信頼に接近したとされる。義朝は、義忠の弟である上野国と下野国に所領を有する源義国とも結ぶことに成功し関東で力をつけ、さらに院の影響下で京都へ復帰した。一方、父・為義は義朝の弟・源義賢を義朝の支配の及ばない北関東へ派遣した。秩父氏の争いもかかわって義賢は義朝の長男・義平と対立したが、久寿2年(1155年)の大蔵合戦で義賢が討死、義平側が勝利した。こうした河内源氏の内紛の一方で、白河法皇や鳥羽法皇の寵愛を受けた伊勢平氏の平正盛・忠盛父子、美濃源氏の源光保・光宗父子らが復興し、武門の中で河内源氏の勢力は相対的に低下していった。

源為義と義朝の対立は保元元年(1156年)の保元の乱において決着する。父や弟を処刑した義朝は、同じく後白河法皇側についた下野源氏の足利義康が急逝したこともあり、一族を圧倒して河内源氏の総領の座についた。しかし京都では、信西一門・二条天皇親政派・後白河院政派というグループの鼎立(ていりつ)が起こり、平治元年(1160年)、藤原信頼と結んでいた義朝は後白河法皇を幽閉し平治の乱を起こす。一時天下を我が物にした義朝だったが、平清盛らが秘密裏に法皇らを救出したことで形勢逆転、敗退して京を落ちて東国へ向かう。しかし、道中で腹心の鎌田政清の舅(しゅうと)にあたる尾張国の長田忠致の手にかかって殺害され、源光保らも後白河法皇により誅殺(ちゅうさつ)された。

源平合戦
治承4年(1180年)、平氏政権での皇位継承の不満から反乱を企図した以仁王に源頼政(摂津源氏)が協力する(以仁王の挙兵)。この乱は失敗するが熊野に潜んでいた義朝の弟の源行家らが以仁王の令旨を全国に伝えると、河内源氏の源頼朝、源希義(土佐冠者)、源範頼、源義円、源義経ら兄弟や、源義朝の弟の源義賢の子であり、頼朝の従兄弟にあたる源義仲(木曾次郎義仲)、源義光の子孫の武田信義・安田義定(甲斐源氏)、山本義経・柏木義兼(近江源氏)、義国の子孫の足利義清(下野源氏)、新田氏庶流の山名義範、里見義成、そして新田義重(上野源氏)、摂津源氏では、源頼綱を祖とする嫡流多田行綱(多田源氏)、源頼綱の弟国房を祖とする源光長(美濃源氏)、大和源氏では、源親治らが各地で挙兵し、俗に源平合戦と呼ばれる治承・寿永の乱が発生する。

当初は平家が源氏を圧倒しており、頼朝の弟の希義が敗死している。しかし次第に形勢が逆転して平家は源義仲に京都を追われた。その後、源義仲軍と源頼朝軍・平家の三つ巴となったが頼朝軍が圧倒していき、寿永3年(1184年)に粟津の戦いで義仲軍を、元暦2年(1185年)に壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼして頼朝軍が勝利した。

鎌倉時代
平家の追討に成功した頼朝は、乱の中で他の源氏一門(源義広・佐竹秀義(常陸源氏)、新田義重(上野源氏)、武田信義(甲斐源氏)、多田行綱(多田源氏)、弟の源義経・源範頼)を滅亡や衰退させ、奥州藤原氏を討ち勢力基盤を固めた。武家政権の台頭を嫌いその勢威を抑制してきた後白河法皇が崩御すると、建久3年(1192年)に征夷大将軍に任ぜられ、今日でいう鎌倉幕府が成立した。これにより、清和源氏が武家の棟梁であると名実共に認められた。

ただし源頼朝の系統は、頼朝の子・源実朝が兄源頼家の子・公暁に殺害される。その公暁も捕らえられて処刑、公暁の異母弟・禅暁も加担を問われ殺され、さらに禅暁の同母兄・栄実が泉親衡の乱に擁立されるが乱が失敗し自害、そして男系男子で最後まで残っていた頼朝庶子・貞暁が天福2年(1231年)に死去して断絶、また男系女子でも頼家の娘・竹御所が1234年死産により死去したことで、完全に断絶した。

また、鎌倉幕府において源氏一門は、血統や功績などにより源姓を称することが許される「御門葉」と、源姓を称することが適わず、名字を称するものに区別された。御門葉には信濃平賀氏(信濃源氏)、大内氏(信濃源氏)、安田氏(甲斐源氏)、加賀美氏(甲斐源氏)などの新羅三郎義光の系統、足利氏、山名氏などの源義国の系統が名を連ねたが、平賀氏、大内氏は、承久3年(1221年)の承久の乱により得宗家に敗れ没落した。

室町時代以降

鎌倉幕府末期の混乱期に頭角を表した、源義国の次男・足利義康を祖とする足利氏の棟梁・足利尊氏は、源義国の長男・新田義重を祖とする新田義貞らの対抗勢力を打ち破り、武家の棟梁として1338年に征夷大将軍に任じられ室町幕府を開く。足利義満は清和源氏出身者として初めて源氏長者となり、その後の将軍が源氏長者となる道を開いた。その後、尊氏の子孫は鎌倉公方、古河公方、小弓公方、堀越公方、堺公方、阿波公方などに別れた。

また、足利氏庶流で「御一家」とされた吉良氏・渋川氏・石橋氏、「三管領」の斯波氏・細川氏、「四職」の一色氏の他、山名氏(新田氏庶流)、土岐氏(美濃源氏)が中央で台頭し、地方では九州探題や駿河・遠江守護を歴任した今川氏(吉良氏庶流)、奥州探題の大崎氏(斯波氏庶流)、羽州探題の最上氏(斯波氏庶流)が勢力を伸ばした。

その後、戦国時代には、清和源氏の末裔を称して家格を誇張する者も出てきた。 清和源氏を称している近世大名の多くは、その事実が歴史学的に証明されたわけではない。ちなみに武家の棟梁である征夷大将軍には清和源氏の者しかなれないという説がある。しかし、藤原頼経といった先例が存在し、織田信長も征夷大将軍に就任する可能性があった(三職推任問題)。そのため、現在ではこの説は俗説とされている。

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