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2018年06月21日

人が悪魔化する!?

私たちは助け合って生きてきた

私たちが子供の頃は、周りの人々も何かと隣の家庭のことを気にしてくれて、必要な時は助けてくれました。別に特別なことではなく、人間として一緒にこの世界を生きていこうという何も言わないけれどこの助け合って生きていくというのが一種の習慣みたいなものだったと思います。

少しずつ変わりゆく人間の生き方

しかし、最近ではご近所同士の付き合いというのがほとんどないというところも全然珍しくありません。実際に隣に引っ越してきた方が昔であれば挨拶に来たりするのがマナーというような感じでしたが、今では隣に誰が引っ越して来たかもわからないということが時々あるくらいです。

そして、お互いの家庭のことには干渉しないというスタイルになって来ました。確かに、これはいいことでもありますが、悪いことももちろん。以前は隣のご家庭の子供さんが何か困っていたから相談に乗ってあげたということや、たまたま出かけ先で迷子になっている近所の子を見かけたから、その子の両親に連絡してあげた等、近所付き合いがあっての事。最近では、ほとんど近所の付き合いというものがない為、こういうような近所同士での困った時の助け合いというのもやはりなくなって来ているのが現状でしょう。

ただし、近所付き合いがなくなった事でいいこともあります。面倒な近所同士のお付き合いをしなくては良くなったので、少し近所の家族同士の関係が悪くなっていぎこちなくなってしまい、生活がし難い。こういうことは、もちろん全くないわけではありませんが、以前より減って来たのではないでしょうか?

実際人は助け合わないほうがいい!?

近所の付き合いがなくなって来て、人が助け合っていく機会が減った来たのは事実。そして、近所同士の付き合いがあったからこそ、面倒であった問題等も必然的に減少してきました。そうすると、だんだんどのような場所でも人々は必要以上に関係を持とうとしなくなるわけです。例えば、同じ施設を利用している方がいます。今でもよく見かけるかもしれませんが、ご高齢の方々ですと、よく顔を見かける人同士であれば挨拶をしています。そして、だんだんと話を始めたりすることもあるでしょう。そのうちに友人になることだってあり得ます。しかし、60代以前の方々はそれほど相手のことに関心を持たず、挨拶をする人であれあば会釈をする程度。それ以上に話しかけて友人にまでなれるというのはかなり稀です。たまたま、通路で物を落としてしまい手伝ってもらった。そして、後日会った時に「この前はありがとうございます。。」と手伝ったもらった方へ、話しかけたりして少しずつ会話をスタートさせるような方であればそういう可能せもありますが、ごく少数です。

このトピックからは少し外れてしまいますが、皆さんは友人が困っているとき何かしら助けてあげようと思いますか?普通は「はい」だと思います。それでは、逆に顔は見たことがあるけれど話したことはない人が困っていた時はどうでしょう?助けてあげようと思いますか?この答えは結構多くの人が「いいえ」だと思います。どうしてこのような差が生まれてしまうのでしょうか?友人だと信用があるからでしょうか?結構難しいですよね?なぜ友人なら助けてあげられるけれど、他人であれば助けてあげられないのか少し考えて見てください。

最近時々耳にすることがあります。それはお年寄りの警戒心が強くなりすぎていることです。

地下鉄の中でお年寄りの方が重たそうな荷物を持っていた。電車から降りる際大変そうに見えたので、近くにいた女性が手伝ってあげようとしたら、不審者と間違われ、「触るな!」と言われた。

この女性は親切な行動をしたのですが、相手から強く拒否されたわけです。皆さんであればどのような気分になりますか?「この人は自分のものを触られるのが嫌だったんだな。」とか「今日は気分が悪かったのかな?」とか第三者的な立場のような考え方ができますか?それとも、「せっかく手伝ってあげようと思ったのに、なんかあんなこと言われてちょっと不愉快。」という考えになりますか?私の推測ではありますが、おそらく多くの方が校舎の考え方になるのではないかと思います。こういう経験をしたことがある方であったなら、次同じような場面があった時また手助けをしてあげようと思いますか?これも恐らくではありますが、以前の嫌な気持ちっていうものはそう簡単に消えないはずですから、「声をかけたり、手伝ってあげないほうがいいかな?」という考えに至り、結果として、手助けをするという行動を起こさないようになると思います。これが私たちが他人の手助けをしなくなってきた最大の理由ではないかと思います。

もちろん、お年寄りにだって言い分はあるでしょう。お年寄りになり体力的にも以前と比べ物にならないほど衰えしまった。そういう高齢者を狙う若者がたくさんいる。人助けをするかのように見せかけて、実は騙したりする。こういう犯罪が後を絶たない為、高齢者としては失礼になったとしても自分の身を守るために、他人の手を借りないような生活をしなくてはいけない。実際そうだと思います。私が仮に今80歳でお金持ちだったら、私を狙う誰かがいても全然おかしくないです。だから普通の人以上に心配になり、より他人に対しての警戒心を強める。

お互い助けようとする側と助けられる側のマイナスの部分が強まってしまったことで、この助け合わないようがいいということが習慣化されつつありますが、このようなことがもっと加速化していけば、もう人はどのようなことであっても他人を信用することは全くできなくなってしまうでしょうし、全てにおいて攻撃的でより保守的な生活を行うことになり、最終的には孤立し孤独な将来が待ち受けているだけでしょう。

ある国で起きたコメディーのような話だけど、人が悪魔になりつつある瞬間

ある国で一人の女性がバス停でバスが来るのを待っていた時の出来事です。近くに60代くらいの女性が歩道を歩いていました。そこへ若い女性が自転車に乗り横を素通りした瞬間、この60代の女性が叫んだのです。「ちょっと、今あんたが私の肩にぶつかったでしょ!肩を怪我したから、病院代払え!」そしたら、この若い女性は、「私は田舎から出てきてお金がない。何もない。あなたに払えるお金なんてないし、実際あなたの方になんて当たってない。どうしても私を訴えたいなら、警察でもなんでも呼べばいい!」と言ったのです。この二人はたまたまバス停にいた女性の目の前で口論になたのですが、バス停にいた女性が見ていた感じでは確かに自転車に乗っていた女性の方が少し触れたか触れていないかくらいの際どい当たりであり、肩が怪我するというなことはあり得ない状況だったそうです。しかし、この二人は同じことをずっとお互いに主張し合い、結局は口喧嘩で終わったのですが、私の感想は「怖い」のただ一言。バス停にいた女性はちょっと今回置いておきます。自転車の女性も気をつけて運転しなくてはいけないのは当然ですが、少し肩が当たったからと言ってお金払えはちょっと行き過ぎですね。ここで「気をつけなさい!」であれば、妥当です。またいくら肩が少し触れたからといって、ご高齢になればなるほど体のバランスを崩しやすいので、その接触が原因で転倒してしまう事はあります。これは確かに見た目は怪我をしていないかもしれませんが、自転車という一種の車を運転している以上、自転車を運転していた側の責任になるでしょう。しかし、今回のケースは、別に点灯したりしていないわけですから、人が悪魔とかしてしまった瞬間です。

一方で、心温まる出来事も

同じ国ですが、あるご高齢の男性が電車に乗っており、携帯電話で話をしていました。(電車内での通話はマナーといてはよくないのですが、今回はこの部分は置いておきます。)どうもこの男性は電車から降りてから近くのタクシー乗り場に行って空港まで行かないといけない様子。ただし、この男性には問題があり、腰が悪いのか足が悪いのかわかりませんが、とにかく普通の人が歩く速度の半分程度の速さでしか歩くことができない上に、大きいスーツケースを持っている為、どこへ行くにしても普通以上に時間がかかってしまうのです。そしたら、その内容を聞いていた隣の若い女性が悩んでいる男性の顔を見て話しかけて事情を聞いたのです。「駅に着いたらタクシー乗り場まで行って空港に行かなくてはいけないのだけど、ここまで来る途中の電車が停まったりして、飛行機が乗れるか乗れないかギリギリなんだ。急いでタクシー乗り場まで行きたいけれど体が悪いから早く歩けない上に荷物があるからもっと時間がかかる。」こんな内容だったのです。そしたら、この若い女性は「私は駅に着いたらおじいちゃんと反対の方向に行かなくてはいけないから空港までは一緒に行ってあげられないけれど、タクシー乗り場まで私が一緒に行ってあげるよ。荷物は私が持つから頑張って着いてきて。」そうして、この男性はなんとか飛行機に間に合ったそうです。先ほどから人はお互いに助けたり助けられたりすることに対してネガティブな印象を持ってしまったことにより、助け合うという行為をしなくなってきたと言いましたが、この女性のように、今でも相手の為に自ら進んで手助けをしてあげようとする方もいるんですね。こう言うエピソードは本当に喜ばしくなんとなく、嬉しい気持ちになります。

結局私たちはどうするべき?

最後はここに来ると思います。学校教育の中で困った人がいたら自ら進んで助けてあげましょうと習ったと思いますが、この教えはほとんど実行されていないでしょう。しかし私たちも理性を持つ生き物ですからこの教えが間違っていないと言うことは知っているのです。嫌な現実ですが、いつになっても弱い者をターゲーっとにして習う者はいますし、今後でもこういう人々はいなくならないでしょう。しかし、少しでも人間として行きていくのであれば、完全に心を閉ざしてしまうことはせず、相手を信用する気持ちを持ったりすることも大切ですし、手助けしようとする人々も仮に断られて嫌な思いをすることがあったとしても全員が全員そういう対応をするわけではありません。少し大目に見てあげようという大きな心でまた困っている人がいたら手を差し伸べてあげようとする気持ちを持つべきでしょう。そして、私たち一人一人が人を見極めるしっかりとした目を持つことが重要なのかもしれません。誰がどのような人なのかということは正直誰にもわかりませんが、この人は本当に助けてもらいたいと思っているとかこの人は助けて欲しいとそれほど思っていない等であれば理解することができるようになるはずです。こうすることによって、消滅寸前の助け居合という概念をなんとか保つことができるのではないでしょうか?
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