尾崎を少しでも知ると彼の人生は人に傷つき
苦しんだ人だったことがわかる。
彼のファンはこう誤解してしまう「彼を利用する大人たちに傷つけられたのだ」と。
しかし、公平に見てこれは彼の周りの人がひどい人だったということではなく、彼の生まれながらの性分にあったということを理解しなければならない。彼の心はガラスのようにもく、ささいな言動が裏切りに感じたり、傷つきやすい感性を持っていた。
そういう意味では「傷つきけた人びとへ」というタイトルは彼の生きる中で切り離せないテーマと直結していたものだということがわかる。
『傷つけた人々へ』は、秀逸なタイトル、
哲学的な内容の詩、印象的なサビの詩、メロディ、美しいボーカルから人気の曲である。全曲名曲である『17才の地図』にあって最終局の前に配置されたことにより、やや影になっている曲の印象もあるが、一方ファンの間では非常に評価我高い曲である。
また尾崎は自分の「罪」を懺悔するような詩を曲をいくつか発表しているが、大枠で考えるとこの曲もその一つである。(『贖罪』など)
彼のこのような作風はおそらく彼自身の行動で、彼自身後悔やなどすることが多かったのかもしれない。そしてそれを詞にすることによって救いを求めた(人は誰しもあのときこうすればよかったなどと思うことはあるが)
タイトルから『傷つけた人々へ』一体どういうは意味が込められているのか、と思う人も多いと思う。
尾崎豊の人生を考えると非常に意味のある重いタイトルである。このタイトルは伊達や、言葉の遊び、かっこをつけるためにつけたものではない。けして尾崎の悪口ではなく、周りの人を振り回し、人々を傷つけた人生の歩みや、その後の人生について、暗示している。
彼は後年著書『普通の愛』の後書きで「自分の罪を告白します」と書いたが、この『傷つけた人々へ』はそこまでの生生しさはないものの、それに通じるもになっているとおもう。
そして、尾崎自身がなにより、自分自身にひどく傷つき、心を痛めていたのだとおもう。
サビの「僕をにらむ君の瞳は」というとても印象的な詩である。通常「にらむ」とは悪い意味で使われるがこの曲ではあえて「見つめる」よりももっと強い眼差しの意味で「にらむ」が使われていると思われる。そこが尾崎豊の言葉の抜群なセンスである。
アルバムの流れではこの『傷つけた人々へ』の次は『僕が僕であるために』であるが『僕が僕であるために』のなかにある「人を傷つけることに目をふせるけど優しさを口にすれば人は皆傷ついてゆく」という解釈に戸惑う歌詞もこの曲と合わせてみていくことでヒントとなる。
そう考えるとアルバムで『傷つけた人々へ』『僕が僕であるために』の並びは偶然ではなく必然の並びだったのかもしれない。
一方『街角の風の中』で「今日の僕は運がいいそれぞれにあるわけの中たった一言でも君に傷つかずにいるなんて」という歌詞を見逃してはならない。彼の心がいかにガラスのハートであったか。彼がどんな他人の言動で言葉で傷ついてしまうか予想がつかない。彼のこのような繊細すぎる心は時に近くにいる人を混乱させたであろうことは容易に想像がつく。このようなの繊細さから発せられた一つ一つの曲だという面もあるというこたは尾崎豊を神格化しすぎてみあやまならいためにも必要なことだとおもう。
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image