荒廃的な歌詞、核の絶望感と尾崎の孤独感、不安感、悲壮感を合成さてたナンバーである。
尾崎の曲の中でも異質を放っている名曲である。正式に発表されはたバージョンにはアルバム収録バージョンと、シングルバージョンがあり、その大きな違いはボーカルにある。シングルバージョンはもともとシャウトが多い曲だか、その曲を破壊的な歌い方をしており、迫力あるボーカルは圧巻である。
一方でアルバムバージョンではシングルに比べると抑え気味だ(もっともそれでも十分なききごあさたえがある)。公式な発表された音源はこの二つであるが、
冒頭で述べたような「荒廃的」な内容からもともと『街路樹』の制作時期は尾崎の精神状態が不安定だったということもあって、この曲もそのような時期に製作されたと思われがちだが、実はこの曲の製作自体は1984〜1985年の間に書かれたことが『NOTES 僕を知らない僕』によって読み取れることができる。
もともとこの曲は『COOKEIS』(クッキー)というタイトル書かれたいた。『クッキー』と聞いてすぐ思い出されるのはアルバム『バース』収録の曲だろう。『COOKEIS』として書かれたとは一体どういうことか、まずはその詩を見てみよう。
何か話をしよう
なんだか分からないけど
俺はひどく怯えている
心を温めてよ
崩れた壁吹き抜ける風
俺と社会とを不調和にするもの
口づけをありふれた痛みに変えて
ねぇクッキーを
ねぇクッキーを
手のひらに乗せてくれ
笑えるような気がする
抱きしめてねぇ甘えてよ
一欠片のクッキーを
クッキーを
ビルの合間それを縫う
光が幾筋に分かれアスファルトに突き刺さるのがほら、心の影のよう
無造作に並べられた
顔を持たない街の微笑み
少し疲れただけよなんて
わかったふりをしないでいい
愛なら救うかもしれない
君のためなら犠牲になろう
愛という名のもとに俺は生きたい
死ぬために生きるような暮らしの中で
ごめんよこんな馬鹿げたこと
聞かずにいてくれ
抱きしめてねぇ甘えてよ
一欠片のクッキーを
君の焼いたクッキーを
誰かと君が笑う時
俺の瞳を探さないで青く漂う光
俺から遮らないで
悲しみに暮れるのは誰のせいでもないのに
何かを見ているようで
何も映らない君の瞳
そして綺麗に笑くならいい
そして綺麗に泣くならいい
そこに居る、眠ってる、君の胸を
何もかも変わりある愛は闇の中
君の鼓動が聞き取れるよって俺は笑った
抱きしめて愛してる
一欠片のクッキーを、クッキーを
ねぇ、一体何を意味するものなの
光に包まれて
俺はクッキーを握り泣いている
街には帰るところがない誰もが
夜を彷徨う
そうあの日どこかに
クッキーをなくしちまってから
恋人たちは愛を語り合い
俺は身を粉にして働いてる
誰が誰を責められるこの生存競争
勝つために戦う人々
抱きしめて
以上
これはかなりの衝撃である。
出だしこそ『核』と同じだが、とても同じ曲とは思えない。その音源がインタネット上から聞くことができるが、それかなければ同じ曲とは思えないだろう。この『核』のクッキーバージョンの詩により、後年の「cookie」の歌詞の「クッキー」の意味がよりわかりやすくなる。つまり尾崎豊の心の象徴、大事なものの何かの象徴が「クッキー」なのである。
さてここでは、そのアルバム『街路樹』での正式リリース前にライブで公開されていた『反核』について歌詞を上げらながら取り上げていこうと思う。
この曲はアルバム収録前にすでに完成をしてライブでも公開されていたのだ。
歌詞は大分違うが、アルバム収録以上に迫力ある歌詞である。
youtubuでそれは聞くことができるが、その歌詞を読み取ってみることにする。
アルバム版と聞き比べてみると微妙だが表現の違いが非常に興味深い。
何か話しよう
なんだかわからないけど 俺はひどく怯えている
今夜は止めてくれ テレビは消してくれないか明かりもひとつにしてよ
こんなに愛してるから 俺から離れないで
一人ぼっちで路地裏俺の背中の人影におびえて気持ちをとがらせて
今まで街灯にもたれてた
抱きしめて 愛してる
抱きしめていたい それだけ それだけなのに
なぜ俺はこんなにまで 怯えているのだろう
前から少しづつ感じていたことなんだ
なのに俺はとても孤独になってしまう
少し疲れただけ寄って君は体すりよせる
愛なら救うかもしれない
きみの為なら犠牲になろう
愛という名のものとに俺は行きたい
死ぬために生きるような暮らしの中で
ごめんよこんなバカげたこと聞かずにいてくれ
抱きしめて愛している 抱きしめていたいそれだけなのに
真夜中盛り場 人込みを歩いいていると
幻に駆られてそしていつも気を失う
通りすがりの見知らぬだけかが誰かと当たり前の顔で俺と殺しあう
何から身を守ろうというの
何かが少しおかしいような街で
ネオンライト、クラクション、地下鉄の風
何もかも元のままに見えるけれど
見えないかい 聞こえないかい 愛なんて口にできない
抱きしめて 愛してる 抱きしめていたい それだけなのに yoh
ねえ もしかしたら 俺のほうが正しいかもしれないだろ
俺がこんな平和の中でおびえているけど
反戦 反核 いったい何ができるというの
小さな叫びにすぎやしないだろう
恋人たちは愛を語りあり 俺は
俺の目をみてくれ いったい何ができる
傷つけたくはないんだ ただ愛を守りたい
一思いにやってくれ 苦しむのは嫌なんだ
俺は既に頭をやられているのか
戦争や人々の争いもおわることはなかったよね
抱きしめて 愛している 抱きしめていたい
それだけなのに yoh
抱きしめて 愛している 抱きしめていたい
それだけなのに yoh
dadaadada gat gatu nonono no・・・
尾崎の曲では冒頭に心の痛み、不安を告白することがある。この曲では得体のしれないものに怯えていると告白から始まる。
ここではアルバム版との違う点に注目したい。行数にすれば小さなものだがそのもつ意味は大きい。他の曲でも傾向としては、原詩は、より率直な尾崎豊が言いたいことをそのまま伝えている。
すなわち、元の詩詩の世界とは言え死ぬか生きるかぎりぎりのところにいた尾崎の生き様そのものを映している。
「なのに俺はとても孤独になってしまう」
結局尾崎の孤独は他者がどうこうするわけでもなく彼自身がどのようなの状況に置かれても自発的に孤独になってしまうのだ。
これは尾崎豊というパーソナリティを読み解くのに非常に重要なキーワードである。
そして尾崎がくしくも最後に迎えた謎の死はこの曲の一節で、枯れ自身が予告していたような内容となってしまっている。
「真夜中盛り場人込みをあるいていると
幻に駆られてそしていつも気を失う
通りすがりの見知らぬ誰かと偶然に当たり前の顔で俺と殺しあう」
という歌詞は彼の行末を暗示してしまった結果となった。地でいってしまったのかもしれないと少し思わざるを得ない。
半分詩の世界であるが、半分はリアルな尾崎の世界を歌ったものであるのである。
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