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2022年10月03日
九州の伊勢「伊野天照皇大神宮」へ
情報
名前:伊野天照皇大神宮
住所:糟屋郡久山町猪野604
創始:200年
社格:県社
御祭神:天照大神(あまてらすおおかみ)
手力雄神(たぢからおのかみ)
萬幡千々姫神(よろずはたちじひめのみこと)
御神徳:所願成就、勝利祈願、水難守護、天候祈願、航海安全、国家繁栄
御朱印:有(毎月1日と15日)
由緒
ここに鎮座せざるゝ伊野天照皇大神宮は、その縁起をたずねるには草創は極めて遠く、日本書紀によると神功皇后香椎の宮に御幸臨の砌、仲哀帝の9年3月(紀元200年)皇后小山田邑の斎宮に入り、自ら神主となり天照大神(撞賢木厳御魂)の霊をお祭りになったと記されてある。
降って、陽成帝元慶元年12月15日(紀元887年)筑前天照神に授位のことが三代実録に見えている。
往昔、この宮は南古宮大神宮として祭られてあったが旧記によれば武将の信仰厚く、北條時宗、菊池武重、織田信長、立花道雪、小早川隆景等は、各難局に際して奉幣し或は社領を奉納するなど敬意を表したと云う。
次で、慶長年間(紀元1601年)黒田氏福岡に入封後代々藩主崇敬厚く、二代藩主忠之は、神主、工匠を伊勢に派遣して、伊勢神宮の工法を学ばせその秘法を授かった。斯くて伊勢の例にならい二十年毎に式年遷宮を行うことになった。
その神幸には、筑前一円の大庄屋、庄屋が参列し一国を挙げて盛大無比の一大絵巻が繰り展べられたと云う。
後に、六代藩主継高の時天和3年(紀元1683年)に此の社地に社殿を移築して益々祭祀を手厚くしてその五穀成就祈禱礼の如きは、藩内各村々に行渡り広く庶民に敬仰されたことは記録に詳らかである。
(境内の掲示板より)
散策
目の前には、猪野川が流れており、参拝に訪れた時期は7月末ということもあり、涼を求めて川遊びをする家族が多くいらっしゃっいました。
門柱の後ろには立派な御神木の夫婦杉が2本があります。
『数百年の自然環境の摂理により根交の杉なり
何時の頃からか
夫婦和合、家庭円満の守り神、
夫婦杉として象徴されるに至った。』
(根本の看板より)
階段を登ると、右側に社務所。左側に手水舎があります。
この付近から見える風景が好きで何枚か写真を撮ってました。
太鼓橋から先が、違う世界のような気がして、気になって気になって。
手水舎にて、身を清めます。
鳥居の横木がまっすぐです。
伊勢神宮と同じで、伊勢の式年遷宮の後の神殿などを、ここで見る事が出来ます。
また、伊勢神宮の20年に1度の式年遷宮の際、建て替えられるときに出た木材(再利用)でこちらを建て替えられるとのことです。
これが、九州の伊勢と言われる所以です。
拝殿です。
この神社に無事に来られた感謝tと、自然への感謝のお参りをしました。
本殿裏に階段があり、登ると天照大御神の御神殿があり、両脇に三叉の槍が置いてありました。
こちらの御神殿にも御参拝します。
御神殿の左手に道があり(神様から見て左手)、さらに上へと上がることが出来ます。
古神殿跡がありました。
そしてここが、パワースポットと言われているところです。
神が降臨した場所で、心柱(しんばしら)が建っています。
何ていうか、爽やかな優しい感じなんですよね。ふわって。
参拝というか、この場所にいるだけでいいって感じで、聖域内の賽銭箱の前の石畳のところで正座してました。
無意識で。
何にも力のない私ですが、ぼーっとしてました。
居心地の良い場所でした。
そして、お礼と感謝の参拝をして写真を撮りました。
石碑、石柱がありましたが、何のかは不明です。
合祀で、水取宮祭神・五霊大明神・住吉三神・志賀三神が祀られています。
天照皇大神宮の欅です。
社殿に上がる手前の右側にある 岩井の滝です。
SNSにて、龍神様がいらっしゃるとのことですが、残念ながら私には分かりませんでした。
境内に流れる水の流れは本当に気持ちがいいですし、心が浄化されていく感じがします。
由緒書きです。
最後に
素晴らしい雰囲気を持つ伊野天照皇大神宮は、福岡市内から小一時間で来られる距離なので、自身の浄化や気分転換にどうでしょう。
春夏秋冬の季節ごとに変わった顔を出してくれる神社でもあるので、これからの秋の季節には紅葉が楽しめます。
参拝日が社務所が開いてない日だったため、御朱印は頂けることは出来ませんでしたが、それも縁なので、フラッと立ち寄った時に、頂けたら嬉しいですね。
御朱印を収集されている方は、1日と15日に空いてますので、合わせて行ってみてください。
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2022年10月01日
子宝・安産・子育ての神様「宇美八幡宮」へ
情報
名前:宇美八幡宮
住所:糟屋郡宇美町宇美1丁目1−1
創始:敏達天皇の御代(572年−585年)
社格:県社
御祭神:應神天皇(おうじんてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
玉依姫命(たまよりひめのみこと)
住吉大神(すみよしおおかみ)
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
御神徳:安産祈願、子育大願、海上交通、海外防護、事業繁栄、商売繁盛、出世開運、武運長久、延命長寿、厄除開運
御朱印:有
由緒
三韓征伐より御帰還された神功皇后が、應神天皇を安産にて御産になられた地です。
産所を蚊田邑(蚊田は宇美の古名)に定めた神功皇后は、側に生出る槐の木の枝に取りすがって、軽い御産で應神天皇を御産みになったと伝えられ、この産所を名づけて「宇瀰(うみ)」。その後に「宇美(うみ)」と称されました。
御産所の四辺に八つの幡を立てて兵士に守らせた故事が後世、八幡大神と称する由縁となったとも伝えられています。
八幡大神御降誕の聖地として、敏達天皇の御宇(西暦570年頃)に創建され、先ず神功皇后と應神天皇の母子神をお祀り致し、後世に至りて住吉大神、宝満山の御祭神の玉依姫命、若杉山の御祭神の伊弉諾尊を合祀し、五座としてお祀りされました。
散策
国道沿いの鳥居から境内に入ります。
神門が見えます。
神門手前右手に手水舎があり、身を清めます。
立派な神門です。
入り口横には、七夕の季節ということもあり、多数の願いが書かれている短冊がありました。
拝殿です。
ここに来れた感謝と、日本国民全員の安産を祈願しました。
ちょうど祈願者の方の祝詞があがっており、拝殿の中を映しませんでした。
参拝中に祝詞を聞くのはラッキーですね。
夫婦の木 (めおとのき)
招魂(おがたま)の木と槐(えんじゅ)の木、種の違う縁起の良い二本の御神木が、あたかも仲睦まじい夫婦が寄り添うように一体となり、皆様のお参りを見守っています。
子安の木 槐(えんじゅ)
神功皇后、産所を蚊田の邑(蚊田は宇美の古名)に定め、側に生出づる槐(えんじゅ)の木の枝に取りすがり、應神天皇を安産にてお産みになられました。
その木は今もその種を絶やさず、「宇美宮の槐」として、皇后皇女を始め、産平安の衣木(みそぎ)には、必ずこの槐を用いたとされています。
「平産の幸ある木」という意味で、「子安の木」と称されています。槐は中国の本草学によれば、解毒、補精に効果があり、その枝にすがれば安産するという信仰があります。
山神社の石祠と御神木です。
御祭神として大山祇命を祀っています。
湯蓋(ゆぶた)の森
応神天皇がこの地で出産され産湯(うぶゆ)を使われたとき、その上にこの木の枝葉が覆いかぶさっていたので「湯蓋」の名がついたと伝えられています。
産湯の水
社殿後方の左奥で、衣掛の森の左に祀まつられています。「應神天皇御降誕の時、此の水を産湯に用い給いしより今に至るまで妊婦拝受して安産を祈る」と伝えられています。
子安の石
湯方社を囲むように、玉垣を築きづき、こぶしくらいの石が山ほど積まれています。
安産祈願を終えた妊婦が「御産の鎮」として此処の石を預かって持ち帰り、めでたくご出産の暁には、別の新しい石にお子様の名前等を記して健やかなる成長を願い、安産御礼(初宮詣)の御祈願にてお祓いの後に、預かった石と一緒お納めするのが慣しとなっています。
隣には聖母子像が祀まつられています。
聖母宮(しょうもぐう)
主祭神應神天皇の安産に因む信仰から、その「母后・神功皇后」に対する特別の崇敬を以って、宝永3年(1706)当時の藩主・黒田綱政公により寄進されました。
福岡県指定文化財(民俗資料)聖母宮御神像が奉安されており、「二十五年に一度」御開帳の神事が斎行されています。
衣掛の森
樹齢二千年以上とも推定されている巨大な御神木です。
神功皇后が御産の時に産衣を掛けた楠とされています。
見るものを圧倒する大きさで、たくさんの方が赤ちゃんを抱いて記念写真を撮ってました。
本殿・拝殿・衣掛の森が一緒に収まる写真が撮れました。
境内にはお茶屋さんがあり、『子安餅』が有名です。
その隣には、隠された御神木があります。
なんとその御神木の中に入ることができ、お参りをすることができました。
二枚目は中から上空を撮影した写真となります。
境内の様子です。
由緒書です。
奥宮(胞衣ヶ浦)
胞衣ヶ浦(えながうら)は、境内から後方、北東250m程にある小山に鎮座する宇美八幡宮の奥宮です。
應神天皇を御産みになった神功皇后は、胞衣を産所の北に流れる宇美川で洗い濯ぎ、筥に入れて、奥宮とされる北東250m程にある小山に奉安したとされています。
そのため奥宮は、胞衣ヶ浦(えながうら)とも称されています。
また、宇美八幡宮の奥宮(胞衣ヶ浦)と共に、胞衣を祀つるとされる伝承地が筥崎宮です。
筥崎宮では、筥はこにおさめた胞衣を、白砂青松の葦津ヶ浦に御埋鎮し、御標として松を植えたと伝えています。
「標の松」は「筥松」と名付けられて以後、筥松のある岬(崎)ということで「筥崎」の名が起こったと伝わっています。
宇美川を横切る橋を渡り、奥宮に上がって行けます。
社殿も新しくなっており、社殿周りの木々が伐採されて、光が差し込むようになっていました。
最後に
御朱印を頂いたので、ご紹介しますね。
安産のパワースポットとして有名なので、沢山の夫婦や家族が参拝していました。
また、安産祈願の申し込みに並んでる方がいて、ずっと祝詞が境内に響いていました。
赤ちゃんを抱いたお礼参りの方も多数いらっしゃって、幸せを感じる神社です。
幸せのおすそ分けを頂いたありがたい参拝となりました。
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2022年09月30日
難攻不落の猫城跡「月瀬八幡宮」へ
情報
名前:月瀬八幡宮
住所:中間市上底井野1696-1
創始:1638年(寛永15年)
社格:村社
御祭神:品陀和氣命(ほむだわけのみこと)=応神天皇(おうじんてんのう)
息長足媛命(おきながたらしひめのみこと)=神功皇后(じんぐうこうごう)
比淘蜷_(ひめおほかみ)=宗像三女神(むなかたさんじょしん)
御神徳:開運招福、武運長久、子孫繁栄、勝運、縁結び、厄除け、家内安全、長寿、海上安全、交通安全
御朱印:有
由緒
寛永15年(1638年)8月、筑前国2代藩主黒田忠之公が、底井野に別館(現在、底井野小学校のある所)を建てるに当たり、廃城となっておりました。
猫城跡に先ず日頃崇敬するところの宇佐八幡宮の御分霊を祀ったのが月瀬八幡宮の始まりであります。
御社号は初め猫城八幡宮と称していましたが、後に宇佐八幡宮境内を流れる月瀬川にちなみ月瀬神社、その後 月瀬八幡宮と呼ばれるようになりました。
(参考資料:月瀬八幡宮HPより)
猫城について
現在、月瀬八幡宮の社殿が建つ所は、室町時代、「猫城」と呼ばれる小さな出城がありました。
遠賀平野の田畑の中に丘陵(高さ20mの円錐状)の上に築かれた端城は、猫の姿にみえることから「猫城」と呼ばれていました。
また一説には、かつて、この地で麻生氏と宗像氏の両軍がにらみ合い、合戦を繰り広げました。
「敵が攻めてくるときは山が高くなり、城から攻め下りるときは山が低く感じるため、まるで猫が背を高くしたり低くしたりしている」と言われていたことから名付けられたともいわれています。
高さ20メートルほどの丘陵上に所在し、そこからは宗像・鞍手・遠賀が一望できる要衝の地であるため、15世紀中頃から遠賀郡周辺に勢力を強めていた麻生氏によって端城として築かれたとされています。
端城とは、本拠地の城を守るため、見張り的な補助的役割を持った砦などのことです。
実際に「猫城」は、天守閣や城壁となる石垣などは確認されていませんので、まさに陣屋のようなものが存在していたものと考えられます。
天正6年(1578年)、山鹿城主麻生元重と宗像大宮司氏貞は、遠賀と宗像を巡り幾度となく合戦を行いました。
その戦の後、遠賀川の東を麻生領、西を宗像領となり、「猫城」は、麻生氏から宗像氏の所領となりました。
宗像大宮司氏貞は家臣の吉田倫行と共に兵150余人を配属させております。
その2年後の天正8年5月上旬、今度は豊後国の大友宗麟から命を受けた鷹取城主毛利鎮実が、兵数千人を引き連れ「猫城」を取り囲みます。
吉田倫行以下少数の兵士は、これを守り、援軍を呼ぶため宗像に向けて狼煙(のろし)をあげます。
この狼煙により援軍が宗像から駆けつけ城は守られたと言われております。
(参考資料:月瀬八幡宮HPより)
散策
一の鳥居は取り忘れてました。
この写真は、二の鳥居です。
手水舎で身を清めます。
手水舎の横に階段があるんですが、祭壇がありお供え物が多数ありました。
夏越(なごし)茅の輪(ちのわ)くぐりと祇園祭が終わった後みたいです。
見れなくて残念です。
境内へ登る斜面に、カノコユリがたくさん咲いてました。
綺麗ですよね。
階段の参道を上ると正面一段上に社殿、左に猫城址の石碑が見えます。
拝殿にて、感謝をお参りしました。
拝殿の中には、猫城にちなんで、キラキラな猫の置物が可愛く置いてありました。
“猫城址”と書いてあるこの石は、俳優の高倉健さんが奉納したものだそうです。
高倉健さんは、一時期こちらの八幡宮のすぐ近くに住んでおられて、この場所で友達と野球をしたり相撲を取ったりしたそうです。
ファンの方にとっては聖地のような場所かもしれませんね。
猫城跡の由緒書です。
最後に
元お城だったせいなのか、かなり急な参道の階段でした。
御朱印も頂けるそうですが、私が参拝した時はお祭りの後のせいか、誰もおらず、頂くことが出来ませんでした。
残念ですが、これも縁ですね。
用事の帰りに鳥居が見えて急遽上がった神社でしたが、高倉健さんの所縁のある神社ということを知り、嬉しくなりました。
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2022年09月29日
岡田宮の元宮「一宮神社」へ
情報
名前:一宮神社
住所:北九州市八幡西区山寺町12-36
創始:合祀され昭和25年
社格:県社
御祭神:
王子神社
神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこ)=神武天皇(じんむてんのう)
天忍穗耳命(あめのおしほみみのみこと)
諏訪神社
建御名方命(たけみなかたのみこと)
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
応神天皇(おうじんてんのう)
大歳神社
大歳神(おおとしのかみ)
事代主神 (ことしろぬしのかみ)
御神徳:開運招福、武運長久、金運、子孫繁栄、商売繁盛、五穀豊穣、勝運、縁結び、厄除け、病気平癒、
所願成就、家内安全、長寿、難難克服、海上安全、豊漁
御朱印:有
由緒
1元王子神社
古事記によれば神武天皇が豊前の宇佐から筑前の岡田の宮においでになり、一年の間この所にとどまられ軍務を見られた所謂御宮居の地であります。
天皇御親ら祓いをされ、地主の神をまつられたという礫をしきつめた社祠の跡が今も残って居ります。この形式の遺跡は全国でも極めて数少ないもので、神籬磐座と呼ばれるものです。
昔は稀に見る大社でありましたが残念なことには、大友氏の兵火により焼失しました。
また神功皇后が洞海を過ぎられた時、三韓降伏を此の神社に祈られ、皇后崎から船出されたこともよく知られています。
2元大歳神社
三代実録や続風土記に表れている古く、且つ由緒の深い壮大な社でありましたが、兵火に会ったり没収のことなどのため衰退していました。
元は熊手字港(現日本アルミ敷地内)にあって、新地のお宮として、又農業ゆかりの深い五穀の神として厚く祭られました。
大正13年に三菱の土地買収のため刑部田(現熊西公民館南側)に遷座され、また昭和16年に区画整理のため、今の一宮神社の北隣の地に遷座されました。
3元諏訪神社
花尾城主麻生氏が、信州の諏訪神社を刑部田(現御手洗公園敷地)に分祀し、貞元のお宮として厚く祭られました。
祭礼は非常に盛大であつたことが古文書に記されています。
昭和15年区画整理のため遷座の折に王子神社に合祀されました。
4合祀について
諏訪神社は前記の理由で王子神社に合祀されましたが、昭和25年に王子神社大歳神社の氏子の総意で両社を合祀して社号を一宮神社と称することになりました。
一宮とは多数の文献によると、もと王子神社が所謂一宮として郷土の尊祟の中心であり一宮と称されていたことによるものだそうです。
散策
一の鳥居です。
周囲は街の中で、一瞬で自然に囲まれます。
二の鳥居です。
扁額には「王子神社」と書かれていました。
鳥居をくぐるとすぐ左を見ると「神蹟山 王子本宮」という石碑が目に入ります。
この「王子」というのが天皇になる前の神武天皇の事です。
古代祭祀場跡の神籬磐境(ひもろぎいわさか)があります。
この磐境は古事記によれば神武天皇、御東征のみぎり、豊前の国宇佐よりこの筑前の国のこの地に御滞在された旧蹟と言われています。天皇が御滞在中、磐境を設けて天神地祇をご親祭された神座神処です。
神籬(ひもろぎ)とは、神代時代、神霊の憑依する所として、清浄な土地を選び周囲に常磐木(ときわぎ)を植えて神座となしたもの。
磐境(いわさか)とは、神を祀るため磐石をもって築きめぐらした場所。
全国でも大変貴重な遺跡でもあり、神聖な場所です。
露天の祭祀は古代の祭祀場の特徴です。
二つの磐境を作って、神々が降りて来る聖なる形を表しています。
神武天皇がここに滞在して、格別に清らかな場所を選んで祭祀し、それから数百年たって、仲哀天皇と神功皇后を伴って来て祭祀をしました。
そして、この場に出逢えた奇蹟。
本当に鳥肌が立ち、感動しました。
古代祭祀場跡の由緒書きです。
階段を登ると駐車場になっており、そこから入って行きます。
手水舎で身を清めます。
拝殿にて、一宮神社に参拝に上がれた感謝と神籬磐座(ひもろぎいわくら)をこの目で見れたことに対する感謝をしました。
ありがたいことなので、入念に。
この社付近は、昔、岬の上だったとのこと。
一宮神社の隣が皇后崎(こうがさき)という地名があり、神功皇后が「豊浦宮の時代に船を作る為に来た時」として上陸した岬があります。
神武天皇の時代から数百年後の神功皇后の時代にも、まだ海だったということが分かります。
御神木です。
社務所の隣にありました。
八大竜王が祀られています。
「水郷柳川から御縁をいただき、この地に祀られました」とのことです。
御神徳は「運気上昇 水難除 祈雨」だそうです。
境内社は、蛭子神社、疫神社、道祖神が祀られています。
一宮神社の由緒書きです。
最後に
御朱印を頂いたので、ご紹介しますね。
神籬磐境が書かれている御朱印にしました。
これで、黒崎祇園山笠の神社の最後の一つで、三社を回り終えました。
前々回、前回と記述した春日神社と岡田宮と今回の一宮神社です。
黒崎祇園山笠の三社が入った特別な御朱印です。
枚数に限りがある限定御朱印とのことでいたが、偶然参拝した私は、頂けることができました。
ありがとうございます。
参拝の順番に書かれているので、一人一人の神社名の順番が変わります。
この偶然に感謝しかないですね。
教えてくださった春日神社さんありがとうございます。
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2022年09月21日
天・地・人の三ノ宮の「岡田宮」へ
情報
名前:岡田宮
住所:北九州市八幡西区岡田町1-1
創始:不詳
社格:県社
御祭神:
中殿
神武天皇(じんむてんのう)
右殿
大国主命(おおくにぬし)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
県主熊鰐命(あがたぬしくまわにのみこと)
左殿
高皇産霊神(たかみむすびのかみ)
神皇産霊神(かみむすびのかみ)
玉留産霊神(たまつめむすびのかみ)
生産霊神(いくむすびのかみ)
足産霊神(たるむすびのかみ)
大宮売命(おおみやのめのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
御膳神(みつけかみ)
御神徳:子宝・安産・家内安全・厄除・無病息災・福運・金運・仕事運・縁結び
御朱印:有
由緒
岡田宮は古代、崗地方(旧遠賀郡)を治めていた熊族が洞海・菊竹浜(貞元)に祖先神を奉斎した地主神にて、岡田の宮と称し、この地を熊手としました。
神武天皇は日向国より東征の途次、当宮に詣り天神地祇の八神(八所神)を奉斎し、この地に留まったとされています。
仲哀天皇8年(199年)、神功皇后が、三韓征討の折、崗県主祖・熊鰐の案内で熊手出岬(皇后崎)に到り、当宮に詣り八所神を親祭し、これを岡田の三宮と称し「天」「地」「人」の三才を表しました。
古来当地は北部九州における海陸路(洞海船留、皇后崎津、太宰府官道)の要に位置し、皇室、公家武門、武将等の崇敬篤く、祭礼法度を定め社領18所、末寺9坊と栄えました。
天慶3年(940年)、藤原純友追討の折、追捕使の主将・小野好古、副将・源経基、戦勝祈願の為に当宮に参詣し、三環鈴を奉納しました。此の神鈴今も当宮に伝来してます。
建久5年(1194年)、征夷大将軍・源頼朝の御家人・宇都宮上野介重業、平家討伐の功によりて筑前国遠賀・鞍手両郡のうち三千町を賜わり、当宮の祭祀を波多野重満大夫藤原兼直に奉仕せし、大社として崇敬されていたとされています。
永禄2年(1559年)、大友宗麟の兵火に遭い社殿焼亡するも、永禄8年(1565年)、麻生上総介元重、社殿を再興しました。
慶長10年(1605年)、黒崎城築城の際に筑前六宿の起点となりて現在地に御遷座され、福岡藩祈祷社・黒崎宿の産土神と定められます。
爾来、藩主はもとより、長崎街道参勤の九州諸大名の崇敬篤く、社殿造営・社参奉幣等多く、又上り下りの文人墨客等数多く参詣されています。
慶応元年(1865年)三条実美卿、大宰府に流謫の途次、従士・土方久元を伴いて当宮へ参詣し、維新回天の大願成就を祈念し和歌一首を奉納しています。
(参考資料:岡田宮HP)
散策
この狛犬と桜門と空の風景が綺麗でした。
桜門をくぐると境内に入ります。
写真では写ってないですが、「天・地・人」の額縁があります。
手水舎で身を清めます。
自動センサーで水が出てきます。
立派な拝殿です。参拝しました。
拝殿と境内の様子です。
八咫烏の銅像です。
八咫烏の銅像を撫でると、人生を導き出す道案内をしてくれるそうです。
金鵄の銅像です。
金鵄の銅像を撫でると、勝利をもたらすそうです。
八咫烏の銅像と金鵄の銅像が対で向き合っています。
拝殿の横に子宝恵方犬の銅像があります。
子宝恵方犬の銅像を撫でると、子宝・安産・家内安全・厄除・無病息災・福運・金運・仕事縁・えんむすび等のご利益がいただけます。
開運石です。
厄除玉を開運石に向けて投げ割ります。厄除玉の色で、開運を願います。
黒:災厄 ストレス・良くないこと、災いを祓い清めます
赤:縁切り 悪縁を断つことができる
青:仕事運 人間関係、仕事での悩みを打ち消し、努力・成果が報われる
緑:健康運 病気を祓い健康な体へ、運動能力が上がる
黄:金運 散財を防ぎ、財産が増え、豊かな生活を送ることができる
桃:恋愛運 素敵な出会いの場が増え、良縁を呼び込む
開運石は、神武天皇ゆかりの地である奈良県橿原市の石だそうです。
御神木である「いちょうの木」です。
駐車場にありました。
最後に
御朱印を頂いたので、ご紹介しますね。
黒崎祇園山笠の神社の一つです。
前回記述した春日神社と一宮神社の夏祭りで、地域の無病息災・悪疫退散を祈ります。
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2022年09月15日
黒田藩所縁の地であり黒崎祇園山笠の「春日神社」へ
情報
名前:春日神社
住所:北九州市八幡西区藤田1丁目10−44
創始:不詳
社格:県社
御祭神:天児屋根命(あめのこやねのみこと)
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
経津主命(ふつぬしのみこと)
比売神(ひめがみ)
天押雲命(あめのおしくものみこと)
黒崎大明神(くろだよしたか・ながまさ)
黒田二十四騎(くろだにじゅうよんき)
御神徳:交渉、愛、武芸・芸事上達、学問成就、武運長久
御朱印:有
由緒
神武東征のとき、天津児屋根命を鳥野の原に祭り鳥野神社と言われていた。
神護景雲年中(767〜770年)に、奈良の里に春日四所の神を祀られた例にならい、武甕槌命・経津主命・比売神を合祀して鳥野春日神社と名を改めました。
その後、花尾城主麻生氏によって厚く祀られていましたが、黒田長政が黒崎城を築いた慶長9年(1604年)、家臣井上周防之房によって現在地に移され、長政の霊。後に功臣二十四騎の霊神を奉斎してを祀ったことから黒田宮とも云われ江戸へ往来する藩主は必ず参拝した。
また、延宝年中祇園原の地より祇園社を勧請して、山王宮相殿に奉斎し、須賀神社と崇め祀った。
これより黒崎祇園山笠として、悪霊退散を祈る夏の祭礼として、黒崎宿あげての伝承行事となり、郷士の心燃ゆる風物詩を今日に伝えています。
散策
長崎街道の黒崎宿の方の鳥居から入って行きます。
手水舎の横に猿田彦神の石碑があります。
身を清めて、最後の階段を上がっていきます。
拝殿です。感謝のお参りをしました。
拝殿扁額です。
本殿横に恵比須大神様がいらっしゃいました。
なぜこんなところに??って感じでしたが、何か理由があるのかもしれませんね。
本殿の右には神明鳥居があり、天照社と天満宮の小さな社殿があります。
御神木です。写真を撮影したのですが、映す角度を間違えてしまいました。
2本の木の根元ががっちり繋がって、ぴったり寄り添った2本の御神木です。
自然の凄さを伝えられずすいません。
社務所前にある「遠賀鞍手郡大役所奉献狛犬」です。
文久2年1862年に奉納された狛犬です。
ところどころ少し崩れていて、ちゃんと屋根の下に安置されています。
最後に
御朱印を頂いたので、ご紹介しますね。
黒田藩所縁の神社なので、当時の歴史好きには堪らない神社とのこと。
「黒田二十四騎画像」、「刷り物黒田二十四騎画像」を社宝として所蔵されていて、本物の甲なども奉納されています。
黒崎祇園山笠の特別な御朱印を教えてくださいました。
三社すべての記述したら、紹介します。
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2022年09月14日
福岡の商売繁盛「十日恵比須神社」へ
情報
名前:十日恵比須神社
住所:福岡市博多区東公園7-1
創始:1591年
社格:無格社
御祭神:事代主大神(ことしろぬしのおおかみ)
大國主大神(おおくにぬしのおおかみ)
御神徳:商売繁昌、家内安全、厄払い、縁結び、交通安全、漁業繁栄
御朱印:有
由緒
「福岡懸神社誌」(昭和19年刊)によると、「香椎宮社家の武内平十郎(後隠居して五右衛門と称す)が博多に分家し、神屋と号して商売を営んだ。
此の者天正十九年(一五九一年)正月三日、年始に当り香椎なる父の家に至り、香椎宮、筥崎宮への参詣の帰途、浜辺潮先に於て、恵比須大神の尊像を拾い上げたる地に御社を建て氏の神と家運大いに栄えたと云う」とあります。
また、「明治参拾参年旧正月記録ヨリ写取者也」と添え書きのある武内文書「十日恵比須神社記録写」には
「香椎から箱崎に参拝途中の潮先で、恵比須二対を拾い上げて、持ち帰って奉斎した」「毎年正月十日恵比須ととなえて、自身でお供えして拾い上げたところで御神酒をささげた。これが知られて次第に参拝する人が多くなって繁昌した」
という意味のことが書かれています。
当時、社は崇福寺境内にあったようですが、博多に分家した香椎宮ゆかりの武内家の一族が、最初は自宅に祀り、のち千代の松原に一社を建立したのが始まりらしいとのことです。
(参考資料:十日恵比須神社HPより)
十日恵比須神社は、事代主大神(ことしろぬしのおおかみ)と大國主大神(おおくにぬしのおおかみ)の二柱をお祀りしています。
えびす様は、「事代主大神(ことしろぬしのおおかみ)」で、だいこく様であるお父様は「大國主大神(おおくにぬしおおかみ)」の親子の神様をお祀りしています。
西宮神社のえびす様は蛭子神をお祀りしていて、同じえびす様でもお祀りしている神様が違う場合があるので注意が必要です。
また、だいこく様は、今では貴重な出雲大社からの御分霊です。
現在、御分霊をいただく事は、出雲大社に限らず全国どこの神社も行っておらず、大変珍しい事なのだそうです。
十日恵比須について
毎年1月10日前後になると、福岡の方は仕事の途中、もしくは仕事を早めに切り上げ早々に「商売繁盛」を願いに、十日恵比須神社に向かいます。
福岡では、ごく普通の光景です。
十日恵比寿の目玉といえば、何といっても「福引」です。
1 回 2,000円でハズレ無しの福引に参加することができます。
福笹や、張子の福起こし、福寄せ、干支、金蔵、そろばん等「縁起物」がもらえます。
何が当たっても嬉しいのが、「福引」です。
そして、この福引の他にも「えびす銭」というのがあります。
こちら、200円で「借りる」ことができます。
借りるというのは、来年この「えびす銭」は返さないといけないけません。
昔は、この十日恵比須では『縁起の良いお金を借りて、それを元金に商売をして翌年「倍にして返す」』という風習があったそうです。
お金を返したらまた、借りて行くのだそうですが、それを現代ではこの「えびす銭」で表現してます。
散策
鳥居をくぐり、本殿の神域に入っていきます。
境内は綺麗にされています。
十日恵比須祭りでは、両側にたくさんの露店が出店している通りを過ぎていきます。
こちらは、手水舎です。
恵比須様にちなんで、縁起の良い鯛の像があり、その口から糸のように水が出ています。
可愛い飾りつけと共に和みますね。
拝殿で、商売繁昌と家内安全の感謝のお参りをしました。
金運アップのパワースポットとしても有名なので、金運アップの祈祷もしました。
額に「出雲大社」と書いてあります。大黒様が出雲大社からの御分霊だからでしょうね。
本殿の裏手には、奉納された「恵比須様」「大黒様」の像がたくさん並べられています。
癒され、愛される二柱の神様の像にも、手を合わせ、お参りします。
十日恵比須神社の案内板です。
最後に
御朱印を頂いたので、ご紹介しますね。
金運アップのパワースポットで多くの方がお参りに参られます。
駐車場は近隣のコインパーキングしかなく、十日恵比須の時期は料金がかなり上がるので注意が必要です。
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2022年09月09日
古からの勅祭社「香椎宮」へ
情報
名前:香椎宮
住所:福岡市東区香椎4丁目16−1
創始:200年又は724年
社格:官幣大社
御祭神:
主祭神
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
配祀神
応神天皇(おうじんてんのう)
住吉大神(すみよしのおおかみ)
御神徳:世界平和、国家安寧、安産育児、子授け、芸能上達、厄除け開運、武運長久、成功勝利、
清祓、外交、除災招福、海上安全、交通安全、土木治水
御朱印:有
由緒
『日本書紀』『古事記』によると、仲哀天皇8年に天皇は熊襲征伐のための西征で筑紫の行宮の橿日宮(かしひのみや)に至ったが、仲哀天皇9年に同地で崩御したという。
香椎宮の社記『香椎宮編年記』によれば、その後養老7年(723年)2月6日に神功皇后の神託があったため造営を始め、神亀元年(724年)12月20日に廟として創建されたとする。
現在の香椎宮社伝では、仲哀天皇9年時点ですでに神功皇后の手で仲哀天皇廟が建てられたとした上で、さらに養老7年の皇后の託宣により神亀元年に皇后廟も建てたので、これら二廟をもって創建とし「香椎廟」と総称された、としている。
後述の通り、創建当初から10世紀中頃まで香椎宮は文献では「廟」すなわち霊廟として記され、他の神社とは性格を異にする。
(参考資料:Wikpedia)
天皇・皇后の神霊を祀るという性格から、戦前の近代社格制度においては最高位の官幣大社に位置づけられ、現在も勅祭社として10年に一度天皇からの勅使の参向を受ける神社である。
境内の社殿のうち、特に本殿は江戸時代後期の再建時のもので、「香椎造(かしいづくり)」と称される独特の構造であり国の重要文化財に指定されている。
祭事としては、10年に一度勅祭が斎行されるほか、現在も仲哀天皇・神功皇后の命日に神事が行われている。
散策
道路側の鳥居から参拝します。
境内に入り、一番最初に出てくるのは、しょうぶ池です。
池の中之島、辨財天社の市杵嶋姫命は財運・開運招福・芸能上達の御神徳があると伝えられます。
右手にあるお茶屋さんを過ぎると、立派な楼門が出てきます。
こちらは、手水舎です。
身を清めます。
階段を登ると空気が変わる感じがします。
神域なのでしょうか。
拝殿まであと少し。
最後の階段と門が出てきました。
拝殿が見えてきました。
拝殿にて、日ごろの感謝をお参りしました。
毎年お正月に、お参りに訪れる神社で、普通の日にお参りは初めてです。
本殿を撮影したかったのですが、改修中でした。
残念。
奉楽殿の太鼓です。
祭典奉仕、または演奏会(雅楽・香椎宮大神楽等)で御披露頂けます。
本殿の案内板です。
本殿は724年に建立され、1801年に第十代福岡藩主黒田斉清(長頼)により再建された「香椎造」という名の日本唯一の建築様式です。
入母屋造平入に切妻屋根が複雑に連結し、正面の大千鳥破風、左右の車寄せなど、変化に富んだ造りとなっています。
古代より朝廷の崇敬が極めて厚い神社に天皇陛下よりの御幣物を奉り、御祭文を奏上する方を勅使とよび、その勅使を迎えて執り行う祭儀を勅祭といいます。
香椎宮は全国に十六社ある勅祭社の一社です。当宮勅祭は十年毎に執り行われています。
摂社・末社の巻尾神社。
仲哀天皇・神功皇后に仕えた五大臣の中臣烏賊津大連命(なかとみのいかつおおむらじのみこと)をお祀りし、勝負運向上 武芸上達の御神徳があるとされます。
これから、境内を一旦離れます。
理由は、香椎宮起源の地 古宮に向かうためです。
香椎宮起源の地 古宮の入り口です。
境内を出て歩いて5分くらいです。
地名となった御神木「香椎」は今もここに残ります。
案内板に詳細が書いてあります。
仲哀天皇が国家鎮護の拠点とした橿日宮の跡地。かつては香椎廟と呼ばれた神聖な場所です。
香椎宮起源の地 古宮の境内に入って、沢山のアゲハ蝶が舞っていて、囲まれてしまいました。
歓迎されているんでしょうか。
その中の1匹が私の方に止まってしばらく一緒に歩いてました(笑)
香椎宮起源の地 古宮からさらに5分くらい歩いた先に、不老水が汲める神聖な泉があります。
この泉の水を汲み仲哀天皇・神功皇后の食事と酒を調えた家臣、武内宿禰は三百余歳の長寿を保ち得たと伝えられます。
今現在でも水を汲むことができ、飲むことが出来ます。
口当たり滑らかの軟水で、冷たくて、凄く美味しい水でした。
香椎宮の境内に帰って参りました。
次は、御神木である綾杉。
神功皇后が三韓より御帰還され剣・鉾・杖の三種の宝を埋め、そこに鎧の袖に挿していた杉枝を「永遠に本朝を鎮護すべし」と祈りを込め埋められたものです。
葉が綾の様に交互に生えているので綾杉といわれ、国家鎮護の象徴として古来よりその杉葉を宮中に献上しています。
本当に素晴らしい御神木で、神々しく感じ、見る人圧倒する美しさがあります。
参拝に来られたら、絶対に参拝して欲しい一つです。
摂社・末社の稲荷神社と鶏石神社です。
稲荷神社は五穀豊穣・商売繁盛・殖産興業の御神徳があるとされています。
鶏石神社は修理固成(しゅりこせい)・五徳向上・養鶏・育児夜泣きの御神徳があるとされます。
亀乃池です。
亀がたくさんいて癒しの空間です。
おばあちゃんが井戸端会議をしてました。
300才以上の長寿だったと伝えられている竹内宿禰の像です。
仲哀天皇・神功皇后に仕えた五大臣筆頭の大臣武内宿禰命(おおおみたけうちすくねのみこと)をお祀りし、健康長寿・病気平癒・知恵向上・学業成就の御神徳があるとされます。
香椎宮の案内書です。
最後に
御朱印を頂いたので、ご紹介しますね。
この香椎宮は、パワースポットの宝庫としても有名なので、夫婦円満や愛情の交差がうかがえるエネルギーが高めとのこと。
神功皇后が仲哀天皇を想っての聖地なので、愛情が強いかもしれませんね。
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2022年09月03日
宗像三女神の御祭神「名島神社」へ
情報
名前:名島神社
住所:福岡市東区名島1丁目26-1
創始:4世紀頃
社格:村社
御祭神:田心姫神(たごりひめのかみ)
湍津姫神(たぎつひめのかみ)
市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)
御神徳:交通安全、家内安全、無病息災、智徳伎楽、縁結び、安産、商売繁盛
御朱印:有
由緒
神功皇后の三韓御遠征の折、香椎の西にある黒津の岬より、諸軍各々に郷名姓名を名乗らせながら乗船させたことから、その場所が「名嶋」と名付けられたと伝えられます。そしてこの地より宗像三女神を拝し、遠征の無事を祈られました。
御凱旋の後、神功皇后は再びこの地に上らせ給い、宗像三女神を勧請して御奉斎された事が名島神社の起源と伝えられています。
本殿は文政十三年(一八三〇)四月、黒田斉清公の再建に成り、神仏習合時代の名残をとどめ、華麗なる仏閣作りが加味されています。
拝殿は明治の神仏分離と共に宗栄寺に移され、現在の薬師堂となっています。現在の拝殿はその後の御造営であり、平成二十三年(二〇一一)に改修されました。
(名島神社HPより)
散策
海側に鳥居があり、そこからの参拝です。
こちらは、手水舎です。
身を清めます。
手水舎の横には、魚の像があります。愛らしい姿です。
拝殿で感謝のお参りを。
先日、宗像三女伸の総本宮である「宗像大社」に参拝した次の神社なので、繋がりを感じざる負えません。
本殿も映したつもりでしたが、少ししか映ってなかった。
残念。
本殿・拝殿の四隅の東西南北の方角には、神仏習合の名残である四神が描かれています。
名島豊川稲荷神社です。
明治初期に勧請された五穀豊穣・商売繁盛の神で、毎年2月の午の日には、初午祭が執り行われています。
名島城跡地は現在公園となっています。
昔、香椎の花火大会があった時は、この公園から見てました。
春には、桜がとても綺麗で、お花見を楽しむ方が多いです。
城跡の写真を撮ってたつもりでしたが、なかった。
すいません。
庚申塚です。
神社の鳥居の海側には、神功皇后の伝説の地があります。
9個の円柱状石は、古代三紀漸新世前期(今から約3500万年前)に堆積した志免層群名島層の砂岩、礫岩層中に含まれる珪化木とよばれる樹木の化石です。
香椎宮の社伝には、3世紀ごろ、神功皇后が三韓出兵の際に使用した船の帆柱が化石になったものという言い伝えがあり、波打ち際の岩の上に並ぶその姿は、まさに帆柱を連想させます。
帆柱石の近くにある古宮があるんですが、残念ながら参拝をするだけして、写真を撮り忘れていました。
名島神社のサイトによると、
「天正十六年(1588年)名島城建築の際、名島神社は現在の丘(神功ケ峯) から海辺へと移されました。その後、福岡城築城に伴い名島城は廃城となり、元禄(1695年) に黒田綱政公の命により元の場所へ御遷座されました。この旧詞を古宮としてお祀りしております。」
このように書かれています。
境内にある由緒書です。
最後に
御朱印を頂いたので、ご紹介しますね。
昔、名島水上空港が目の前にあり、神功皇后の伝説の交通安全にあやかったのかもしれませんね。
大昔は島で、現在埋め立てばかりで景観も変わってますが、香椎宮から近く船の発着に良い立地だったと考えれます。
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2022年09月01日
宗像三女神の総本宮「宗像大社」へ
情報
名前:宗像大社
住所:宗像市田島2331
創始:不詳
社格:官幣大社
御祭神:沖ノ島 「沖津宮(おきつみや)」 :田心姫神(たごりひめのかみ)
大島 「中津宮(なかつみや)」 :湍津姫神(たぎつひめのかみ)
田島(本土)「辺津宮(へつみや)」 :市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)
御神徳:交通安全、恋愛成就、縁結び、夫婦円満、子孫繁栄、大願成就、金運アップ、商売繁盛、学問
御朱印:有
由緒
日本各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、および宗像三女神を祀る神社の総本社です。
宗像大社は、日本神話に登場する日本最古の神社の一つです。御祭神は、天照大神の娘の三女神で、沖津宮、中津宮、辺津宮にそれぞれ祀られ、この三宮を総称して、宗像大社といいます。
伝えられる伝承では日本神話の話に起源を持つという。
天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)の際、天照大神の息から生まれたのが宗像三女神ということになっていて、彼女達は天照の勅命を奉じ皇孫を助けるため筑紫の宗像に降りこの地を治めるようになったのが起源とされています。
『日本書紀(720年)』には、天照大神から宗像三女神へ「歴代天皇をお助けすれば、歴代天皇が祀るでしょう」という言葉が残されています。
これは宗像が日本における最初の国際港であったため、海外との外交、貿易、国防的な機能を果たせば、天皇が祀るとされ、それは沖ノ島から出土した約八万点の国宝からも国家祭祀の痕跡が裏付けています。
宗像は『古事記』では胸形という字が当てられ、また胸肩、宗形とも表記されるが、元は水潟であったとする説もある。
古くから海の神として信仰を集めてきたが、神功皇后が三韓征伐の際ここに航海の安全を祈り霊験があったといわれ、事あるごとに国に幣使を遣わす習いになったとされています。
宗像大社が「裏伊勢神宮」?
福岡県宗像市の「宗像大社」と三重県伊勢市の「伊勢神宮」は実は深い関わりがあり、宗像大社は「裏伊勢神宮」と呼ばれています。
なぜ「裏伊勢神宮」と呼ばれているかというと、御祭神の繋がりがあるからなんです。
上記で記載した由緒でもあるように、娘とされており、天照大神から宗像三女神へ勅命を奉じ皇孫を助けるため筑紫の宗像に降りこの地を治めることになっているからです。
また、宗像三女伸は、「道主貴(みちぬしのむち)」と別称を持っており、「貴」は高貴な神にのみ贈られる尊称で、伊勢神宮の大日孁貴(おおひるめのむち)と出雲大社の大己貴命(おおむなち)だけとなっています。
宗像氏と皇室との関係
胸形君徳善(むなかたきみとくぜん)の娘、尼子娘(あまこのいらつめ)は、第40代 天武天皇の后となり、朝廷より特別の待遇を受けてきました。
天皇家と深い関わりがるとは、かなりびっくりしました。
昔から、力の強く由緒ある家系だったことが伺えます。
家系図等や資料は、宗像大社の管理する神宝館にもありますし、宗像大社HPに記載されています。
散策
鳥居をくぐると池が出てきて、橋を渡ります。
子供たちが恋の餌を与えてて微笑ましい光景です。
渡り終え、ふと後ろを振り返ってみました。
目の前が拝殿への入り口です。
手水舎にて、身を清めます。
大きいので、沢山の方と清めることが出来ます。
参拝客が雨に濡れないように屋根が付いております。
この気心が嬉しいですね。
拝殿にて、お参りをします。
この本殿は、辺津宮(へつみや)なので末女神である市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)様がお祀りになられています。
摂社・末社です。
右側の末社の写真を撮影出来てませんでした。
本殿を撮影したのですが、上空の空が少し神秘的でした。
本殿の上空の雲が、渦を巻いていて、穴が開いてたので、思わず撮影。
動画を撮影してればよかった…
本当に不思議なものとなりました。
見た瞬間、鳥肌が立ちました。
宗像大社で写真を撮ると不思議な写真が撮れることがあります。
本殿を先程の写真の反対側から撮影したものです。
御神木は、楢の木(ならのき)で、宗像大社の御神紋にもなっています。
こちらの御神木も何となく不思議な気がします。
私にそういった類の不思議な力はないのですが、何か目を奪われます。
本殿がある境内から、高宮祭場に向かう高宮参道の木々たち。
二枚目の写真のところがいつも気になっている場所です。
絶対に足を停め、その場所にお参りをします。
それが私自身不思議でもあります。
何かあるんでしょうか?
分かる方いたら、教えてください。
こちらの御神木は「相生の樫」です。
二本の幹から伸びた枝が、仲睦まじく交差し合った連理の樹木は、男女の絆を深め恋愛が実り、末永く夫婦円満の福徳が有ると言い伝えられています。
伊勢神宮の古い社殿を頂戴したもので、第二宮には沖ノ島の沖津宮である田心姫神(たごりひめのかみ)、第三宮には大島の中津宮である湍津姫神(たぎつひめのかみ)が祀られています。
詳しい第二宮と第三宮の説明はこちらの説明板よりどうぞ。
高宮祭場に行く高宮参道です。
少し小高いとこにあるので、登っていきますが全然きつくありません。
参道の木々が日常を忘れさせてくれるような神秘さを醸し出しています。
宗像三女神が降臨した場所である神聖な場所である高宮祭場です。
神籬(ひもろぎ)磐座(いわくら)を見られる珍しい場所です。
高宮祭場がある場所は宗像山の中腹で、高宮祭祀遺跡という遺跡の一部です。
高宮祭祀遺跡からは沖ノ島の祭祀跡から出土した奉献品と共通する物が、数多く発見されているそうです。
ですが、ここは、下高宮祭場とのこと。
下だということは、上があるということ。
私が感じる気になる場所を行くと「立ち入り禁止」の立て札があるので、そこが上高宮祭場に行く入り口のとこなのかもしれません。
説明板がありましたので、貼っておきます。
御朱印を頂き終わって、ふと上を見ると龍雲が見れました。
私が見た時は雲が繋がっていて、もっと龍の形をしていたんですが、スマホを取り出してカメラの準備をしている途中で、切れていって写真のようになっていきました。
写真にちゃんとした形で残せなかったですけど、見られたことは凄く幸運です。
神宝館に見学に行きました。
神宝館とは、沖ノ島神宝(8万点の国宝)を中心に、宗像大社に伝承されてきた重要文化財などが収蔵展示されています。
〇拝観料 (施設維持協力金)
800 円 一般
500 円 高校生・大学生
400 円 小学生・中学生
〇開館時間 9:00〜16:30 (最終入館 16:00)
〇休館日 年中無休
勾玉や、鏡などたくさんの重要文化財を見学することが出来ました。
写真は、ほんの一部なので、是非見学に行ってみてください。
宗像大社の由緒書です。
最後に
御朱印を頂いたので、ご紹介しますね。
パワースポットとしても有名な神社ですが、本物のパワースポットだと感じます。
高宮祭場だけでなく、所々感じる不思議な感覚は境内至るところにあると思います。
何もない空間・土地が気になったり、木が気になったりと、不思議な場所です。
1人で参拝に訪れ、神域を肌で感じながら散策すると感じられるはずです。
私の周りにも不思議な写真が撮れることが多いようです。
人生の道に迷って、人生の交通安全を祈願しに参拝すれば、神様からのメッセージが受け取れるかもしれません。
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