@J・C・マクスウェル
Aカメリー・オネス
Bルートヴィッヒ・E・ボルツマン
Cアルベルト・アインシュタイン
D湯川秀樹
Eマックス・プランク
F寺田 寅彦
【@マクスウェルの原稿】
マクスウェルは電磁気学を確立しました。
そこでは場の理論の基礎を作りあげ、
電場と磁場の関係をマクスゥエル方程式
で関連付けてまとめ上げ定式化をしたのです。
更には、直行する電場と磁場からなる「電磁波」
の関係を数式として確かにして、その進行相度が
光速度となる事を理論的に導きました。
当時の物理学者は多面的に現象を論じていて
マクスウェルも光学・熱力学で業績を残します。
電磁波が光学的に縦波・横波で議論されています。
現代では高校レベルの知識ですが
当時、説明するのは大変だったと思います。
マクスウェルの業績で個人的にもっとも評価したいのは
場の考えの確立です。静的な意味での場と時系列で変化する
動的な意味での場は大きく違うと思えます。
マクスゥエルは後者の意味の場を
定式化して後の理論家達に道を示したパイオニアでした。
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nowkouji226@gmail.com
2020/09/04_初稿投稿
2020/12/02_改定投稿
【Aカメリーオネス原稿】
その名はより正確にはヘイケ・カマリン・オンネス
(Heike Kamerlingh Onnes)今日、 日本では
カーメルリング・オンネス、カマリン・オンネスや、
カマリン・オネスなど数パターンでカタカナ表記さ
れていますが、本稿ではカメリー・オネスとします。
「ライデン大学実験物理学教授」この称号が
カメリー・オネスの人生をよく表しています。
彼は生涯オランダのライデン大学で教鞭をとり、
実験によってかってない世界を切り開きました。
カメリー・オネスはドイツのハイデルベルク大学
に留学してキルヒホッフ等の師事を受けたと
言われていますが、特に帰国後にライデン大学で
「ファン・デル・ワールスと出会い、彼との議論を
通じ、低温における物理現象に興味を抱くように
なった」【Wikipedia】
と言われていて、ライデン大学での繋がりが
低温物理学に興味を抱く大きなきっかけ
だったようです。
特に温度を下げていく過程で電子の振る舞いが
どうなるか。それに対しての回答として
カメリー・オネスは超電導現象を示しました。
実験的に再現性のある現象として示す事で
さらなる理論の土台を築いたのです。
格子間を運動する電子が電気的性質、磁気的特性
を温度変化に応じてどう変えていくかに対して
異なる考えがあった時にカメリー・オネスは
事実を実験によって明確に示したのです。
絶対零度では抵抗はゼロになりました。
一つの予想を実験結果で証明したのです。
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2020/09/05_初回投稿
2020/12/03_改定投稿
【Bボルツマン原稿】
オーストリアにあるボルツマンの墓には
S=k LogWと書かれています。
ここでいうSとはエントロピーというパラメターで
事象の乱雑さを表します。
k(またはkBと記載します)というパラメター
を定めてボルツマンが定量化した概念です。
乱雑さは統計力学で温度T、容積V、圧力P等と関連して
ボルツマンの関係式として定式化されました。
ボルツマンの研究業績の中で特に私が関心をもつのは
原子論に関しての関わりです。当時、観測に直接かからない
原子は色々な見方をされていました。そんな原子に対して
ボルツマンは「乱雑さ」または「無秩序」の度合いという
新しい物理量を使い原子の実在に近づいていったのです。
結果として
対立する考えが学会で生じていて
原子モデルを使うボルツマンと、
実証主義で理論を進めるマッハの間で論争が続きます。
そして、残念なことに晩年は精神障害に悩み、
自ら命を絶つという悲しい最期を遂げています。
彼はピアノが好きでした。
花を手向ける場所がありますよね。
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2020/09/05_初回投稿
2020/12/04_改定投稿
【学術論文を書く時は英語必須です】
【Cアインシュタイン原稿】
現時点で最も有名な物理学者ではないでしょうか。アインシュタインは
パラダイムシフトを起こし近年、物理学に大きな変化をもたらしました。
特に、1905年に26歳のアインシュタインは3つの歴史的な論文を発します。
「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」です。
光量子化説は光の性質を突き詰め量子化しているもの、
ブラウン運動は花粉の動きから分子の乱雑な動きを解析、
特殊相対性理論は速度を増し光速度に近づく物体の考察。
こういった考察から空間・時間の概念を変え、
ミクロの物質の考察を進めています。色々な学者と討議を重ね
現実に対しての理解を深めていきます。
ユダヤ系であるので彼は大変苦労しています。
当時のドイツはナチスの時代ですから
ホロコーストが実際にあったのです。
また、アインシュタインはドイツの為に
原爆の製造をすることに貢献出来た筈です。
実際には崩壊していくドイツ帝国を去り
アメリカでマンハッタン計画に加わります。
個人の物理学者として
多少の無力感を感じていたのではないでしょうか。
苦労人のアインシュタインは数々の名言を残していますが、
私が好きな言葉を最後に残します。アインシュタインの意志の強さを感じます。
「think and think for months and years. Ninety-nine times, the conclusion is false.
The hundredth time I am right.」
私は、数ヶ月も何年も考え続けます。99回まで、その結論は正しくないですが、
100回目に正しい答えを出すことができるのです。
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2020/09/06_初稿投稿
2020/11/28_改定投稿
【D湯川秀樹】
湯川秀樹は朝永振一郎と同じ時代を生きています。
互いに刺激しあう関係を築き、共に時代のテーマに取り組んでいます。
伝記を読んでいくと彼が情熱を持って取り組んでいた様子が分かります。
色々な所で引用されているのですが「アイデアの秘訣は、執念である。」
と明言しています。一見、不可解な現象を紐解き、単純明快な原理を抽出
する仕事をしてきたのです。そもそも、湯川秀樹の関心は物質の相互作用
であって、その世界は全く目に見えません。彼は情熱で綿密に話を組み立
てます。重力・電磁力以外の微細粒子間の相互作用を引き起こす「強い力」
に着目して議論を進めました。
湯川秀樹の時代には場の考えが発展していて
原子の中での相互作用を湯川秀樹は中間子という概念で
更に広げていったのです。ボゾンの一つとして中間子を仮定して
強い力を説明してみせたのです。
湯川秀樹の業績は京都大学の原子力研究を初めとして
日本の物理学者たちに引き継がれています。
個人的なご縁としては私が幼少時代を過ごした東京板橋にあった理化学研究所
の分室で教鞭をとっていたようです。少し時代がずれますが、私の故郷で彼が
活動していたと思うと不思議な気持ちです。ノーベル賞受賞者の朝永振一郎も
そこに居ました。最近までは、理化学研究所は本駒込にも拠点があり、
今でもホンダ朝霞の近くに拠点があります。何故か、と調べを続けていったら
埼玉県にある平林寺に創始者の一人である大河内氏の墓所があります。そんな、
理化学研の霊的な側面を知って、私は何となく納得してしまいました。
また、湯川秀樹はラッセル=アインシュタイン宣言にも参加しています。
以前のブログでもこの関連の話は盛り込んでいますが
私は研究者が異議を唱えても社会が破滅的な兵器を作る現実を
大変、問題だとに思っています。アインシュタインであれ
湯川秀樹であれアシモフであれ社会が叡智を集結して対応することを夢見ています。
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nowkouji226@gmail.com
2020/09/07_初稿投稿
2020/11/29_改定投稿
【Eプランク原稿】
その名は正確には、マックス・カール・エルンスト・
ルートヴィヒ・プランク(Max Karl Ernst Ludwig Planck)
【現在の国で言えば】ドイツ生まれのプランクは
前期量子論の主要メンバーの一人です。
学問的方法論の違いとして、エルンスト・マッハの
実証主義に対しプランクは実在論を展開しました。
微視的な物理公式を特徴づける定数:プランク定数
を提唱して微視的な知見において不連続な物理量を
導入しなければいけないと結論付け体系化しています。
プランクの一連の考え方はとても大事な概念で、
量子力学の根幹をなしています。現代の我々が
後付けで考えてみると、取り得る状態が不連続故に
行列力学で時間発展が量子力学体系の中で記述出来、
微視的状態の遷移が定量的に表せるのです。
パラダイムシフトという言い方が出来ますが、
思想体系において大きな変換が起きました。
まず、ここでのハードルをクリア出来た事は
物理学にとって大きな一歩であったと言えます。
そしてプランクは戦争の時代を生きたので
幾多の悲劇を味わいました。人道的見地から、
アインシュタイン等のユダヤ人迫害に対して
ヒットラーに直接意見を述べたりしています。
長男は第一次世界大戦で戦死しています。
二男はヒットラーを暗殺に加担したので
処刑されてしまいました。プランク自身も
国賊の親として批難を受けています。
更には他に二人の娘が居ましたが、
共に孫娘を産んだ後に亡くなっています。
こうして色々とあったプランクの人生ですが、
プランクの残した業績は決して消えていません。
彼の残した研究所は21世紀になっても
最先端の研究を続けているのです。
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nowkouji226@gmail.com
2020/09/08_初回投稿
2020/12/14_改訂版投稿
【F寺田寅彦の原稿】
寺田寅彦は物理学者にして俳人です。
文筆家としては牛頓の名を名乗っていたり。
牛頓と書いてニュートンと読ませてました。
熊本の高校で英語教師として赴任していた
夏目漱石と出会います。後に文学に関わる
のはこの出会い大きかったといわれています。
贅沢な人生ですね。夏目漱石の作品
「吾輩は猫である」の中では寒月君として
登場する人物のモデルとなっていて
作品を通じて御人柄に触れた人も多いのでは
ないでしょうか。
研究の点でも今の枠にとらわれない視点を持ち
実績を残しています。その中でも評価が高い
研究業績はラウエの業績に刺激を受けた研究で
「X線の結晶透過」についての業績です。先進的な
結晶解析に関して考察をを進めています。そして、
1913年に「X線と結晶」をNatureに発表してます。
寺田寅彦の研究人生をふりかえると、
田中館愛橘に教えを受け、
長岡モデルを提唱した長岡半太郎に
教えを受け学生結婚をして、
その妻に早く先立たれ、
東京帝国大理科大学で教鞭をとった後に
ベルリン大学で地球物理学を研究し、
理化学研究所、 東京帝大地震研究所
で研究を続けました。
57歳で亡くなられています。
2020/8/13初稿
2020/11/10改定
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時間がかかるかもしれませんが必ず返信・改定をします。
nowkouji226@gmail.com
2020/09/09_初稿
2020/12/15_改定
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