恵日寺(えにちじ)は、福島県耶麻郡磐梯町にある真言宗豊山派の仏教寺院。かつては慧日寺(えにちじ)と称し、明治の廃仏毀釈で一旦廃寺になったが、1904年(明治37年)に復興され、現在の寺号となった。平安時代初期からの寺院の遺構は、慧日寺跡(えにちじあと)として国の史跡に指定されている。
歴史
慧日寺は平安時代初め、807年(大同2年)に法相宗の僧・徳一によって開かれた。徳一はもともとは南都(奈良)の学僧で、布教活動のため会津へ下って勝常寺や円蔵寺(柳津虚空蔵尊)を建立し、会津地方に仏教文化を広めていた。また、徳一は会津の地から当時の新興仏教勢力であった天台宗の最澄と「三一権実諍論」と呼ばれる大論争を繰り広げたり、真言宗の空海に「真言宗未決文」を送ったりするなどをしていた。徳一は842年(承和9年)に死去し、今与(金耀)が跡を継いだ。この頃の慧日寺は寺僧300、僧兵数千、子院3,800を数えるほどの隆盛を誇っていたと言われる。「国王神社縁起」及び「元享釈書」によると、平将門の最後の合戦の時に、三女が恵日寺に逃れ、出家して如蔵尼と称して留まり、将門の死後33年目に郷里(茨城県坂東市)に帰ったと伝わる。 平安時代後期になると慧日寺は越後から会津にかけて勢力を張っていた城氏との関係が深くなり、1172年(承安2年)には城資永より越後国東蒲原郡小川庄75ヶ村を寄進されている。その影響で、源平合戦が始まると、平家方に付いた城助職が木曾義仲と信濃国横田河原で戦った際には、慧日寺衆徒頭の乗丹坊が会津四郡の兵を引き連れて助職への援軍として駆けつけている。しかし、この横田河原の戦いで助職は敗れ、乗丹坊も戦死し、慧日寺は一時的に衰退した。
その後、中世に入ると領主の庇護などもあり伽藍の復興が進み、『絹本著色恵日寺絵図』から室町時代には複数の伽藍とともに門前町が形成されていたことがわかる。しかし、1589年(天正17年)の摺上原の戦いに勝利した伊達政宗が会津へ侵入した際にその戦火に巻き込まれ、金堂を残して全て焼失してしまった。その金堂も江戸時代初期の1626年(寛永3年)に焼失し、その後は再建されたものの、かつての大伽藍にはほど遠く、1869年(明治2年)の廃仏毀釈によって廃寺となった。その後、多くの人の復興運動の成果が実を結び、1904年(明治37年)に寺号使用が許可され、「恵日寺」という寺号で復興された。なお、現在は真言宗に属している。
山岳信仰
慧日寺は北東に磐梯山、北に厩岳山、さらに磐梯山の北に吾妻山という山岳信仰の盛んな山を抱えており、その立地的な面から山岳信仰に大きな役割を果たしてきた。そもそも慧日寺の開基は806年(大同元年)に磐梯山が噴火した翌年のことであり、噴火と慧日寺開基との間に山岳信仰上の関連があるのではないかとする見方もある。吾妻山神社への参拝ルートは慧日寺門前町の本寺を始点としたいくつかのルートが開拓されている。
復元された薬師如来坐像
交通アクセス
JR磐越西線磐梯町駅より徒歩30分
磐越自動車道磐梯河東ICより車で5分
磐梯東都バスで磐梯町駅前より約8分、JR磐越西線猪苗代駅前よりバス35分
所在地 福島県耶麻郡磐梯町大字磐梯本寺上4950
位置 北緯37度34分2.7秒 東経139度59分12.7秒
宗旨 豊山派法相宗として創建、真言宗として再建
宗派 豊山派
創建年 807年(大同2年)
開山 徳一
中興年 1904年(明治37年)
別称 慧日寺
文化財 白銅三鈷杵(重要文化財)
慧日寺跡(史跡)
2023年07月05日
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