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2015年10月31日

『浮浪児の栄光』の「栄光」を考える

佐野美津男『浮浪児の栄光』をずっと見てきたが、今日は表題通り、『浮浪児の栄光』というタイトルの「栄光」が意味するものは何なのか? を考えてみたいと思う。どこかで、タイトルとちがってこの作品には「栄光」がでてこない、という読者の感想を読んだことがあるからでもある。なるほど、とわたしも思ったものだ。

佐野は、<あとがき>で、「吉原エレジー」という歌を上げながら、この歌のポエジーも、赤線がなくなったいまとなってはたいして実感がない、人間の生きた記録にもいまとなっては実感のともなわない事柄が多々ある。ぼくの書いた「浮浪児の栄光」もその例外ではないだろう、と言っている。

たしかに「浮浪児」という現実が消えてしまったいまでは、必死になって「調べ」ないと、なかなか「実感がともなわない」とは言えるかもしれない。社会が崩壊した中で、子供が自分の力を頼りに生きぬくことの困難さは、たぶん、現代のわれわれには想像でさえ追いつけない過酷なものだったろう。

その「浮浪児」たちも、いつのまにか何処かへ消えてしまい、数少ない「本」を通してしか知ることのできない存在となってしまった。なんと、「歴史」とは、たよりなく、はかないものだろうか! しっかりつかまえていないと、いつのまにか消えていってしまうのである。 

佐野がこの本の中で取り上げている歌をみると、浮浪児文化とはいかなるものであるかが、よくわかる。
「練鑑ブルース」
「とんがり帽子」
「吉原エレジー」
「やくざ小唄」

後半ふたつなどは、この本を読んで初めて知った歌だった。かなりディープな世界に足を踏み入れた感じ。「とんがり帽子」を除いては「放送禁止歌」だもんな。親も家族もいない子供だけが知った「別世界」がそこにはある。

  しかし、ぼくは死ぬことができなかったのです。いまでは、もっと死ぬことが難しくなっていますが、戦中から戦後のあの時期は、比較的死ぬことがやさしいはずでした。それでも死ぬことができなかったブザマな自分。これはなにごともなしえなかったというのと同義だと思います。
(中略)
 しかし、いまからでも見ることはできるし、死ぬこともできるのだと考えたとき、それはあの安保闘争のさなかだったのですが、ぼくはこの「浮浪児の栄光」を書きはじめる決意をしたのです。
  ところが途中で、つまり安保から一年を経て、また、ぼくは「死ねない」「見えない」自分を感じてしまいました。平和すぎるからです。


ここには佐野の世代特有の感じ方があるように思われる。「死ぬこと」が自己目的化してしまっている思考回路の混乱としか私には見えないのだが、「死ぬこと」が「生きる意味」であった時代を生きた者でないと、この絶えず急き立てられているような感覚にはなじめないのかもしれない。
「平和」の持つ腐食作用にやられっぱなしの人生を情けなく思う気持ちには、多少共感が持てるが。

 一億玉砕などといいながら戦(いくさ)に負け、死ぬこともできず、ただダラダラと生きてきたのは、おれひとりでは絶対にない。


これが1961年版の<あとがき>である。
この後に、20年後の1981年に再刊された際の<あとがき>が付いている。

  戦争に反対するために本を書いたりするのは、わたしのもっともきらいなことである。そういう目的で本を読むこともいやである。本を読んだくらいで戦争に反対する気持になるようなひとなら、本を読んで戦争に賛成するようにもなるだろう。
(中略)
戦争をすすめる政治もあれば反対にまわる政治もある。戦争に反対する政治が人間のこころを大切にするとはかぎらない。かんじんなことは、政治に利用されないような、ほんとうのこころをつくりあげることである。


 やたらに大きな声で戦争反対をいうひとたちよりも、ほんとうはもっと戦争をきらっているのに、声もたてずにいるひとがいるということを、わたしたちひとりひとりが、それぞれのこころでしるようにしなければならないとわたしは思っている。やたらに大きな声がだせるというのは、政治に利用されているからできることで、それはこころの声ではないだろう。こころの声をききとるためには、こころに耳がなければならない。


アメリカ海軍特殊部隊の名称をパクってデモなんかしてる、あんちゃんネエチャンたちに聞かせてやりたいな。

つまり、佐野が『浮浪児の栄光』を書くにあたって考えたことはこうである。

『浮浪児の栄光』は、佐野の少年時代の体験を主な材料として作り上げたものだ。
書きようによっては、もっと「売れる」ように書くことは可能だったが、佐野はあえて「売れない」ような書き方をしたといっている。
戦争反対のためとか、政治に利用されるのが嫌だったからだ。

 わたしは空襲で親きょうだいをなくした。
 親せきにひきとられたが、いじめられた。
 浮浪児になった。
 戦争はもういやだ。
 みなさん、戦争に反対しましょう。
 というようなぐあいに書けば、おそらく本は売れるだろう。事実、そういう本はベストセラーにもなっている。それはすなわち、その本が政治に利用されたからなのである。


たしかに。本だけではない。テレビ番組などはほとんど、そのたぐいの作りのものばかりではないか! 戦争反対さえしていれば、無罪放免されると考えているとしたら、あまりに甘すぎるな。だから、つまらない番組ばかりになり、だんだん見たい番組がなくなってしまう。

『浮浪児の栄光』に佐野は「被害者意識」を持ち込まなかった。
「被害者意識」は戦争に対する責任を曖昧にするからである。あの戦争は仕掛けたものであり、自分自身も戦争で死んだ親兄弟も、戦争には賛成だった。日本人はすべて戦争の「加害者」だった。戦災孤児だったからといって、自分自身を戦争の犠牲者と考えるのは、戦争で殺された人たちに対して失礼である、と佐野は言っている。
「被害者意識」のあるところに「栄光」はないということだろう。

なかなか "りっぱな" 覚悟だと思う。こんな覚悟のできる日本人は、極めて少ない。

 戦争で死んでしまったひとというのは、自分がもっともみじめな戦争犠牲者なのに、戦争反対の声をあげることさえできないのだから、二重三重の意味であわれである。
  わたしの家族も四人が戦争で死んだが、その死者のかわりに、わたしが大きな声をだすことはできない。おそらくは黒こげで死んだであろうひとの苦しみ悲しみを、生きているわたしが背負い込めるわけはないのだ。生きているというだけのことで、いい気になってうぬぼれたのでは、それこそ罰があたるのではないか。死者へのいのりは、わたしもひっそりとすることがあるが、それは、生きているわたしが死者の無念をどうしてあげるわけにもいかないことに対するわびでしかない。


戦争の死者についての想いが、水木しげるとほとんど同じなことに感銘を受けた。戦争を経験した人たちの「想い」というのは、こういうことなんだ。

 復員くずれもパンパンガールも浮浪児も、それぞれに戦争の犠牲者で、生きるためにはそうならざるをえなかったというところがあるのだが、どうしてもということではなかった。そうならずにいたひとも多いので、そこではやはり精神的弱さが問題になるだろう。
(中略)
弱いということは、負けたということで、その相手は自分だと思ったり、あいまいに社会だの世間だのといったりするのはごまかしだろう。
 わたしの場合は、もうはっきりと具体的に、松戸のババアに負けてしまった。松戸のババアは強かった。
(中略)
 もともとは松戸のババアも、それほど悪いひとではなかったのだけれど、戦争と敗戦のために食べものも不足したので、ついつい孫にいじわるをするようになったのではないかといういいかたは、松戸のババアさえも戦争の犠牲者にまつりあげてしまうやりかたで、問題のごまかしでしかない。松戸のババアは戦争にも平和にも関係なく、根っからの悪人であった。


「松戸のババア」がほんとうに佐野のいうように「根っからの悪人」であったかそうでなかったか、会ったことのない私には断言できない。
ただ佐野のように、自分が負けた相手をはっきりさせておくことが、その後の生き方を活性化できるということはあるかもしれないな。

 松戸のババアに負けたために、わたしは浮浪児になったのだが、そのまま負け続けたわけではなかった。松戸のババアを戦争の犠牲者とは考えないわたしは、松戸のババアをみかえすことができるような人間になろうと、どこかで決意したはずなのである。浮浪児のまま、さらに落ちこぼれてしまったまま、というのでは、松戸のババアの思い通りではないか。それほどくやしいことはない。
  浮浪児だったからと割引いてもらうのではなくて、ふつうにあつかってもらって、それでも平均よりはすぐれたところのある人間をめざして、わたしの逆襲ははじまったのだ。まだまだ勝利したとはいいきれないが、負けの状態ではないと思う。これからさきでゆだんしなければ、なんとかなるのではないか、と考えているこのごろである。


初出から20年目にして『浮浪児の栄光』が再刊されたのも、佐野のそんな想いからであり、「さらには、この本の続きも書くことになるだろう。」ともいっている。
もともと、この物語はさらに先まで、たぶん、「現在」まで続くはずだったのが、「死ねない」「見えない」自分を感じてしまって、仕方なく「第一部おわり」としたものだった。
その後を書き継ぐだけの情熱を見失っていたのが、「逆襲」という目的がはっきりすることによって、ついに書き継ぐ決意をしたものと思われるのだ。

佐野は『錆色の軌跡』という題名で、「第一部 浮浪児の栄光」「第二部 戦後無宿」と、六〇年安保までをえがく全四部の構成を考えていたようだ。

佐野の遺稿集として『浮浪児の栄光/戦後無宿』(辺境社、1990年)という本が出版されているが、その中の一篇『戦後無宿』は、『浮浪児の栄光』の続編の冒頭部分にあたるようだ。「ようだ」というのは、残念ながらその本をまだ読むことができないでいるためである。他の人の紹介記事で、断片的に読んでいるに過ぎない。

この『浮浪児の栄光/戦後無宿』の販売ページに、本の説明として掲げられているものに、「俊少年はその境遇を栄光として生きた。佐野美津男遺稿。」とある。

なぜ「浮浪児」であることが「栄光」なのか? 

佐野が浮浪児になったのは、松戸のババアに負けたからだが、同時に、いまの自分の境遇よりも「浮浪児」の境遇のほうがまだしも「夢がある」と思い、みずから選びとった運命でもあった。

まだ「第一部」では明確になっていないが、その後、佐野少年はみずからの能力を社会的に証明することで、松戸のババアへの「逆襲」を試みていくことになる。

浮浪児にも「逆襲」ができたのだ。そのためには長い時間が必要だった。この『浮浪児の栄光』では、まだ「逆襲」の入口しか書かれていない。これから書かれるはずの、これは長い物語のはじまりにすぎないのだ。

  まもなくわたしは五〇歳になる。わたしを浮浪児へとおいやったひとに「ざまあみやがれ」のひとことを、ようやくいえるようになったら、もう五〇歳になっていたというわけだが、人間のたたかいにはこれくらいの時間が必要だということかもしれない。そしてようやくこのごろになって、こころの問題としての文学というふうなこともわかるように思えてきた。その意味では、これからが文学者としてのわたしの勝負どころなのだろう。


しかし佐野美津男は、この本が再刊された五年後、ついに続編を書きあげることなく、昭和52年(1987)5月9日、自宅書斎にて脳内出血で急死する。



浮浪児の世界


いったん『浮浪児の栄光』からはなれて、当時の浮浪児をとりまく状況を見てみよう。

昭和二十年三月十日、東京大空襲の日、真っ赤に燃え上がる東京の空を、三百機をこえるB29の大編隊が真っ黒におおっていた。焼夷弾が雨のように降りそそぎ、ひとびとを炎の壁にとじこめ、まっくろな炭になるまで焼きつくした。その中には、田舎へ子供たちを集団疎開させていた親たちや兄弟姉妹たちがいた。

「集団疎開」という国策は、米軍が日本本土に侵攻してきた場合に備えて、本土防衛のための戦力温存策として、学童を都会から地方へと避難させたものだったが、そのために、アメリカによる日本の都市への無差別爆撃によって親兄弟すべてを殺され、ひとりだけ生き残ってしまった児童、つまり「戦災孤児」を多数生んでしまうこととなった。

親戚がいるものは親戚に引き取られていったが、当時はすさまじい食糧難であり、戦災孤児を歓迎するものはほとんどいなかった。親戚の冷たい仕打ちに嫌気が差し、街へと飛び出す児童も多かった。かれらが「浮浪児」になったのである。

引き取り手もなくおのずと街ぐらしを始めた子や、国家が用意した権力的な保護施設にがまんできずにとびだした子どもたちもまた「浮浪児」になった。

戦後になると、大陸からの「引揚孤児」というのもあった。中国や朝鮮で親をなくした彼らを、見ず知らずのひとが日本にまで連れ帰って来てはくれたが、祖国に着くや捨てられて「浮浪児」になるケースも多かった。

 戦災孤児になった子らの数、約12万3千人。(厚生省「全国孤児一斉調査結果」 昭和23年)
 そのうち、「浮浪児」の数は、推定3万5千人。(『朝日年鑑』 昭和23年)


多くが14歳以下の小・中学生だったという。
佐野少年は、そのなかのひとりだったというわけだ。

一般の人々は、浮浪児というだけでかれらを蔑んだ。救いの手を差しのべるものもなく、浮浪児は盗みや恐喝を働く「犯罪者」としか見られなかったのである。

浮浪児に救いの手をさしのべたのは、テキ屋、ヤクザ、愚連隊の連中だった。飢えた子供を見ると、かれらは食べ物を与えて可愛がった。また戦後は、パンパンたちもおなじ境遇の浮浪児たちを可愛がり、浮浪児たちも「きれいなお姉さん」であるパンパンたちになついていたという。いっしょに暮らし始めるものもいた。

地域の行政は「狩り込み」を行って、浮浪児たちを保護施設に押し込みはしたが、食糧もとぼしく、愛もなく、暴力的に制圧するだけの施設をとびだして、かれらは路上へともどっていったのだった。

そんな浮浪児たちの多くが、上野に集まるようになっていった。上野には駅が焼け残っており、北海道・東北からの旅客が持ってきた「食べもの」をくれることが多かったのと、「寝場所」になる屋根のある「地下道」があったからだ。

上野地下道.JPG
上野・地下道

この地下道では、毎日、5〜6人の餓死者がでていたそうだ。それでも、夜になると大勢の浮浪者や浮浪児が集まり、人恋しさを紛らわせてくれる場所だった。小金を稼いで一晩ここで寝ると、朝目を覚ましたら、お金だけでなく身ぐるみはがされて裸になっていたというような、「危険」と隣り合わせの場所でもあったが。

浮浪児たちは「何を」食べて生き抜いていたのだろう?


むろん、食べられるものはなんでも食った。人間も犬も猫も、みんなゴミをあさっていた。だから、ほとんど獲物は残っていなかった。
「昆虫のように」雑草も食べたし、ザリガニ、鯉などをとって食べることもあった。これは、マッチで火をおこし、焼いて食ったそうだ。猫を捕まえて食べることはあまりなかったようだが、野良犬はけっこう殺して食べていたようだ。大人が犬を料理するのを手伝って、浮浪児たちは分け前にあずかっていたということである。

自殺してこの世から去っていく浮浪児もいた。死んであの世では、先に空襲で炭のかたまりになって死んでいった母や父に会えることを信じて。『浮浪児の栄光』の主人公も、何度か自殺の誘惑に駆られ、手首を切っている。

日本国の行政は、戦災孤児保護対策を立ててはいたが、戦災孤児や浮浪児を研究することなく、予算措置も付けずに「希望的計画」をぶちあげるだけで、実効性はほとんど無いにひとしかった。

ここまでが、東京大空襲から敗戦までの状況である。
敗戦後、上野駅前に「闇市」が誕生したことにより、浮浪児たちの生活も一変することになった。


東京闇市興亡史【中古】


日本最大級の青空市場が誕生したのは、現在の「アメ横」のある場所である。当時はここは空き地だった。戦前まで「しょうべん横丁」と呼ばれた小さな店や民家が立ち並ぶ場所だったが、戦争中に強制立ち退きされ、空き地にされたものである。

ここで最初に、みかん箱のうえに食べ物や生活用品を並べて売り始めたのは朝鮮人だった。食糧や生活必需品は国家の統制を受けていたので、一般の日本人は自由な売り買いができなかったが、「第三国人」である在日朝鮮人を、敗戦国日本の行政も警察も取り締まることができなかったのだ。

やがて朝鮮人だけでなく、焼け残った物を持ち寄って日本人たちも集まり始め、「闇市」と呼ばれる巨大なブラック・マーケットが形成されていった。商品を贖う金のないものは、着物や腕時計と物々交換で手に入れていた。
復員兵たちが軍隊から離れる時に支給された缶詰を売ったり、軍上層部には本土決戦のために貯蔵していた物資を大量に闇市に横流しして巨利を得たものもあった。米軍のPXの物資を横流しするものもいた。

食べものを売る店にはいつも人だかりがしていた。だんご汁、スイトン、雑炊、蒸しパン、芋飴、焼き飯、イカ焼き、蒸し芋、などなど。
なかでも絶大な人気があったのが「残飯シチュー」だった。
アメリカのGIたちは浮浪児たちを可愛がり、チョコレートやビスケットや缶詰をくれたり、ジープに乗せて基地のPXへ連れて行って、お菓子や衣類や玩具まで、なんでも買い与えた。
GHQの基地には大きな食堂があって、裏にまわると残飯のはいったゴミ箱がいくつも並んでいた。肉がそのままの形で入っていたり、手付かずのまま果物が投げ込まれていた。兵士に頼んで持参の麻袋いっぱい残飯を詰め込んで、新宿の闇市に持ち込むとキロ単位で買ってくれた。
この麻袋の中身を、直径1メートルほどの大鍋にぶちまけて、ぐつぐつ煮たものが「残飯シチュー」だった。中身を確かめずにぶちまけるので、鍋には何が入っているかわからなかった。ゴキブリ、蛆、煙草、ペンなどはあたりまえで、鍋の底をすくってみたら、猫の死骸が出てきたという噂もあった。
あるときは米兵のでっかい使用済みコンドームがでてきたことがあったが、「これはカルシウムになる」と言って鍋に戻したということである。
しかし、肉や野菜がたっぷりはいった「残飯シチュー」の味は格別で、闇市の客の中には「残飯シチュー」めあてに遠くから来るものもいた。値段は5円ほどだったが、うまいので行列ができていたという。

「闇市」は、統制経済で締め付けられていた日本の社会に自然発生した「資本主義経済」だった。闇市が興隆していくなか、商売をおぼえて日銭を稼ぐ浮浪児もでてきた。

浮浪児の仕事として花形だったのは、「靴みがき」だった。日本製の靴墨は品質が悪く、光沢がでなかったため、米軍のPXでアメリカ製を仕入れてきた。磨き布は、これは「ただで」手に入った。汽車の座席がじょうぶなラシャ製だったから、無賃乗車をして四角く切り取ってくればよかった。

「新聞売り」も人気の仕事だった。毎朝、始発で新橋まで行って、銀座界隈に軒を連ねていた朝日新聞社や読売新聞社から新聞を一部十銭で仕入れ、すぐに上野まで戻って、通行人に一部二十銭で売るのである。50部から100部を売れば、じゅうぶん食っていけたという。

「シケモク売り」というのもあった。当時、煙草は配給制で、いまのようにどこでも手に入るものではなかったため、吸い差しで捨てられた煙草を拾ってきて、中の燃え残りの葉っぱを集めて巻き直して売るのである。けっこう、飛ぶように売れた。

『浮浪児の栄光』を読むだけでも、主人公が生活手段としたものは多種多様であった。
泥棒
チャリンコ(スリ)
ゲソ磨き(靴みがき)
ラムネ屋の手伝い
カツギ屋
ドル売り
偽化粧品工場
洋服屋の小僧
・・・・・・
合法なものから非合法なものまで、とにかく食うため、生きるために、なんでもやった。

終戦の年の秋が来る頃には、すきがないほど露天商がぎっしりと立ち並ぶようになっていた。
最初は、皿洗いや店の手伝いをして食べものをもらったり、金銭をもらっていた浮浪児たちだったが、商売が繁盛してくるとともに人手が必要になり、より深く商売にかかわるようになっていった。

たとえば、農村地帯から闇市で販売する物資を買い集めて闇市に運んでくる「かつぎ屋」を、浮浪児たちも受け持つようになった。
統制に違反する非合法な行為だったため、帰りの列車で官憲による摘発に合い、せっかく買い集めてきた物資を没収されることもあった。みすみす没収されるわけには行かないので、かつぎ屋の方も知恵を働かせ、検閲のある駅の手前で物資を列車から投げ下ろし、その回収に浮浪児たちを使ったりした。 

ある意味、浮浪児が底辺で「闇市」を支えていたということもできる。資本主義は発展のために、「安い賃金で働く労働者」をつねに必要とするのである。現代では、国内だけではまかないきれなくなって、それを海外にまで求めている。

上野の「闇市」のその後の歴史にふれておくと、終戦の年が終わり、昭和21年(1946)が明けると、朝鮮人が闇市に仲間を呼び集め始めた。朝鮮人ヤクザが闇市を仕切り始め、日本人露天商から力づくでショバを取り上げるという事件が頻繁に起こるようになった。
このままでは東京の中心部が朝鮮人に乗っ取られてしまうという危機感から、警察は戦前から続いているテキ屋の組織を呼び寄せ、闇市の利権と引き換えに、闇市の治安維持をまかせることになった。

昭和21年5月、警察と行政の肝いりで、合法の「近藤マーケット」が「闇市」の中心部の通称「三角地帯」に建設された。現在、アメ横センタービルが建っている場所である。
露天商たちは、代金さえ払えば正式な権利を得てマーケットの中で商売ができ、警察が守ってくれると知って、またたくまにスペースは埋まっていった。テキ屋や朝鮮人ヤクザたちはしだいに一掃され、闇市一帯は、合法的な商店街へと生まれ変わっていった。

戦後、砂糖が原料の飴は禁制品だったが、サッカリンなどをつかった飴の販売が、近藤マーケットに許可された。甘味に飢えていた庶民が押しかけ大繁盛となったため、マーケットは飴屋でうめつくされるようになった。そのため、元闇市一帯は「アメヤ横丁」と呼称されるようになった。
昭和24年の暮に、ある一店舗から出火して、近藤マーケットは焼け落ちた。一部の焼け残った店舗もあったが、すべての店舗を建て直し、あたらしく「アメヤ横丁」商店街が誕生した。このころには、上野に浮浪児の姿はほとんど見られなくなっていた。


浮浪児たちにはどれぐらいの「稼ぎ」があったのだろうか?

石井光太『浮浪児1945−戦争が生んだ子供たち』で引用されているデータを紹介する。
・公務員の収入
  初任給 日給十八円(月給五百四十円)
  ※国家公務員上級試験に合格した大卒者。
 ・浮浪児の収入
  靴みがき 日給四十円〜七十円
  新聞売り 日給十円〜三十円
  PX転売  一回五十円〜三百円(『戦後値段史年表』)
  

公務員よりも稼いでいる浮浪児たちがたくさんいた。
当時の物価は国が決めていたが、闇の物価はその何十倍の価格で取引されていた。米一升は五十三銭ときめられていたが、闇市価格は七十円だった。 公務員の給料は国の基準で決められていたため、浮浪児たちがやりとりする闇市価格とは大きな開きがあり、こういう結果となっていた。    


その後、消えた浮浪児たちどうなったのだろう?


親のある子たちが「とんがり帽子」を歌っている頃に、浮浪児たちは「練鑑ブルース」を歌っていた。

『焼け跡の子供たち』を開いてみると、家族全滅の経験、親戚をたらいまわしにされた体験や、戦災孤児というだけでいわれ無き差別を受けながら生きてきた足跡が語られている。だが、この本の中にさえ「浮浪児」の居場所はないようだ。

『浮浪児1945 戦争が生んだ子供たち』の最後に、浮浪児たちがたどり着いた「いま」が語られている。



上野で浮浪児として生きた は、暴力団の組長にまでのぼりつめた人物だった。上野の地下道に来ると、「母校や実家」に帰って来たみたいな気持ちになるという。


「上野にいた子どもの中では一番の成功者」といわれる は、東京大空襲で焼き出され、地下道に住んでいた時期があった。かれは保護施設「愛児の家」にひきとられたが、十六歳の時に母と兄妹を捜しあて、北杜市白州町(現在)へ会いに行った。しかし、あまりに貧しい生活を世間から馬鹿にされ、ここでの生活に耐え切れずに脱走して東京へ帰った。
パン屋に住み込みで働きながら、三輪自動車の免許をとった。二十五歳で結婚をし、コンクリートの運送業をやりながら、月賦で業務用の三輪自動車を購入したところ、依頼が殺到してまたたく間に月賦を返し終えた。家族全員を東京に呼び寄せいっしょに暮らしたが、妻の家族との間にいざこざが生じて離婚にいたってしまった。二人の息子は がひきとって育てた。
新たに土建屋を起こし、社員は兄妹ばかりでは社長に収まった。仕事の受注先の建設会社社長にいたく気に入られ、引きぬかれてモーテルやレストランの新規事業をまかせられることになったが、高度経済成長の波に乗って事業を軌道に載せた。
つぎには、社長の親戚が経営する鉄鋼会社の再建を頼まれ、数年で黒字に転換すると、世田谷に系列会社を設立してそこの社長に収まった。時代はバブルへと突き進む最中で、売上は年間数十億円とふくれあがった。このころ、二度目の結婚と離婚を経験している。
バブル時代は貧しかった少年時代の反動で、億単位の金を散財した。ロールスロイスを乗りまわし、十五歳も年下の女性歌手に数億円を貢いで三度目の結婚を果たし、義理の親にはベンツを買ってあたえた。当時、演歌界のスターだった三橋美智也の後援会長にも就任した。
しかし、夢のような生活は、バブルの崩壊とともに終わりを告げた。経営を人任せにしていた鉄鋼会社が倒産し、十三億もの借金を背負って職を失った。三度目の妻とは離婚した。
七十七歳になったは、住み込みでマンションの管理人をして生活していた。子供の頃に何年も上野の地下道で寝るというどん底の暮らしを味わっているので、どんな状況も苦にはならないという。そんなも、家族にはいっさいじぶんが浮浪児だったことは話したことがなかった。


もと浮浪児のは、終戦の年の十月に電車の中で保護されたが、そのときには戦争のショックで記憶喪失になっていた。生まれも育ちも、両親の有無も、自分の年令や名前さえも覚えていなかった。現在は推定七十四歳ということになっていた。
は、古いアパートの薄暗い6畳間に、生活保護をうけながらひとりで暮らしていた。
看板屋で働いたあとペンキ屋に移ったが、会社の人間とうまくつきあえずに、寂しさを紛らわすために酒を飲み、酔うと妻に手を上げたり蹴ったりという毎日だった。
自分で自分のことがわからない。自分のことを説明できない。だから、人とどう付き合っていいかわからない。
二十年ほど前に、息子が大学を出ると、の暴力が原因で妻と離婚し、それ以来ずっとひとりだった。
精一杯働いて息子を大学にまで上がらせた。子どもを無学にはしたくなかった。
十年ほど前に、妻が亡くなったということをあとから電話で息子が知らせてよこした。葬儀には呼ばれなかった。
じかに会ったことはないが、孫が一人いるという。何年か前に、娘が年賀状で知らせてよこした。は、年賀状に印刷された孫の写真を切り抜いて、クリアファイルに保管していた。孫がとても可愛いという。写真の孫は、ちょうどが親と生き別れたころの年齢だった。


浮浪児だった人たちの多くは、共通の体験を持っている。職場でモノがなくなると、浮浪児だったというだけで真っ先に疑われたり、犯人と決めつけられたりした屈辱的な体験があるのだ。
また、浮浪児であったことを理由に、見合いが断られることもしばしばだった。たとえ浮浪児だった過去を理解してくれて結婚した場合でも、世間には隠しとおそうとするのが一般的だった。
そんなことから、浮浪児体験を証言しようとするひとは、極めて少ないという現実がある。


『浮浪児の栄光』の作者である佐野美津男が、みずからの浮浪児体験から現在に至るまでの歩みを描き尽くそうという試みは、得難い実験であった。こころざしなかばに、死によって挫折したのはかえすがえすも悔やまれることである。この「栄光」の物語を最後まで読んでみたかったと心から思う。


かれらも戦後の日本を建設したひとりであることはまちがいない。
特攻隊を顕彰するのとおなじくらい、もと浮浪児たちを顕彰すべきではないのかと思う。上野の駅前に、浮浪児の像が一つくらい立っていてもよいように思う。浮浪児記念館が建っていてもおかしくない。
生命がおびやかされるほどの困難に立ち向かい、まわりの差別をはねかえしながら、人生の開拓に挑戦したヒーローたちが、かつて此処にいた証しとして。


《参考文献》
『焼け跡の子どもたち』戦争孤児を記録する会/編(クリエイティブ21、1997年)
『浮浪児1945 戦争が生んだ子供たち』石井光太(新潮社、2014年)





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