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2019年08月29日

映画『ひろしま』──あらすじと感想[資料映像付]


目次

二冊の本

大庭みち子一家の物語

遠藤幸夫一家の物語

軍部はどう動いたのか?

映画『ひろしま』と映画『原爆の子』

歴史と記録映画


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二冊の本



映画『ひろしま』(17日、NHK Eテレ)を見ました。

広島の被爆者たちが体験した地獄がどういうものであったか、
その片鱗を感じとることができた、といったところでしょうか。

映画は、受け止めきれない不条理への深く静かな思いを秘めた音楽とともに始まります。

ラジオから流れる原爆の物語。
「1945年8月6日朝、3機のB29は、テニヤンの基地を出発した。
 指揮官ティベッツ大佐搭乗のエノラ・ゲイ号の爆弾槽には、人類の頭上に初めて炸裂する原子爆弾が重々しく吊るされ、それには日本の天皇に対するあらゆる種類のののしりの言葉が書き記されてあった。
 基地をあとにして、全員はそれぞれの行動を開始した。ティベッツ大佐は、操縦者としてのいつもの仕事を熱心にやっていた。航空士のヴァンカーク大尉とレーダー操縦者のスチボリック軍曹は、伝声管でたえず話しながら、航空図に位置を入れたり、レーダーを操作したりしていた。
 4時20分、ヴァンカーク大尉から、5時20分硫黄島到着の予定を言って来た。
 やがて東の空が赤く燃え、太陽が昇り始めた。暗い海は、いきいきときらめき、その壮大にしてしかも崇高な光景は、彼の魂を打った。彼は戦争の中にいることさえ忘れて、しばし人間らしい感激にひたった。だが彼はふと、数時間後の広島市民の運命を思い浮かべ、愕然となった。いまの彼の使命は、広島市民の運命につながっていた。飛行機の胴体がしっかりと抱いているものは、世界の人が想像もできない爆弾、原子爆弾なのである。
 この世紀の爆弾の威力は、爆心より1q以内では、ひとりの人間の生存も許されないであろう。さらに強力な放射能による生物の損傷は、計り知れないものがある。おそらく広島市街は、一瞬にして屍(しかばね)の街と化すであろう。彼はこう考えた時、極度の虚無感に呑み尽くされてしまった。彼はその中で何者かにすがりつきたいほどの悲哀を覚えた。彼はふと故郷の母の顔を思い浮かべた。
 彼の考えは、まもなく彼の行おうとしている使命に戻った。前方の白雲の向こうに、敵日本がある。いまから約4時間以内に、広島は地図の上から抹殺されるであろう。その広島の誰もが、この運命に気付かないであろう。まさに死のうとしているあわれな奴らに、誰が憐れみと同情を感じようか。いや、真珠湾とバターンの死の行進を考えるならば、なんの同情も起こるはずはない。
 7時40分、我々は最後の高度に昇り始めた。さあ、人々よ、もう長くはない。日本までわずか25マイル、刻々目標に迫っている。人々よ、もう間もない。我々が自分たちの目標にたどり着くのは、ほんの暫くのあいだなのだ。神よ、我々に勇気と力を。」(W・L・ローレンス『0の暁』1950年)



高校の北川先生のクラスでは、生徒たちがこの物語を聞いていましたが、
大庭おおばみち子は、追い詰められたように悲鳴を上げ、鼻血を出して倒れてしまいました。
広島に原爆が投下されて7年がたっていましたが、みち子は白血病を発症していました。
みち子とこのクラスの3分の1の生徒は、被爆者だったのでした。

みち子が入院した病室では、クラスメートがみち子の枕元に集まり、河野少年が一冊の本を読み聞かせていました。

「だいいちトルーマン自身が、サンフランシスコの講和会議の席上で、はっきりと、アメリカ国民は真珠湾とバターンのことは忘れていないと言っているではありませんか。そこで、僕は、ドイツ人として直言するのですが、僕は、そして大多数のドイツの知識人たちは、こう思っているのです。
 ヒロシマ、ナガサキでは、結局のところ、二十何万かの非武装の、しかも何らの罪もない日本人が、あっさりと新兵器の「モルモット実験」に使われてしまったのだと。そしてつまりそれは、日本人が有色人種だからということにほかならないのです。白色人種に属する僕がこんなことを言うと、君が不快な感情を抱くかもしれませんが、むしろ僕自身が白色人種に属しているからこそ、この問題のこういう点が君たちよりも、もっと本能的、直感的にはっきりと理解できるのです。
 いずれにしても、この問題は、とても真珠湾やバターンなどのような、簡単なものではないはずです。
 おまけに、終戦近くのころ、ナチスが連合軍に対して毒ガスを使おうとしたとかしなかったとかで、やれハーグの国際条約違反だとか、やれ神と人道への反逆だとか言って、ヒステリックに騒ぎ立てたその国が、毒ガスどころかその何倍も、何十倍も残虐な新兵器を、しかも、なんらの防衛力を持たない非戦闘員に対して使ったのですから、この問題に対しては、日本のみならず世界の良識と良心も、簡単に沈黙してしまうべきではないと思います。
 世界と人類から、神と正義とが抹殺されてしまう時が来ない限り。」(篠原正瑛『僕らはごめんだ──東西ドイツの青年からの手紙』1952年)



ラジオから流れていたゼロあかつき──原子爆弾の発明・製造・決戦の記録』は、ロス・アラモスでの原爆実験から、広島・長崎の原爆投下まで立ち会うことを許された、ただひとりの科学ジャーナリストによる、アメリカ側の原爆開発から実際の投下までの歩みを、誇らしげにレポートしたものです。

私が持っている創元社文庫版と読みくらべてみましたが、映画の方は原文そのままではなく、かなり簡潔にまとめられており、ある意味「挑発的」ともとれる編集がなされています。
これを被爆した生徒が聞かされたんではたまらないだろうな、という感じの仕上りです。

伊福部昭の音楽がまた、「君が代」を編曲したようなものになっています。原爆の災厄は、広島という一地方の不幸なのではなく、日本国の国家的事件であることを象徴させたかったのかもしれません。

河野が読んでいた『僕らはごめんだ──東西ドイツの青年からの手紙』は、編者がやり取りした東西ドイツの青年たちの手紙を集成したものですが、まさに『0の暁』に対する反論となるような部分をピンポイントで取り上げて、被爆者の原爆への思いを際立たせているところは見事です。
松竹が、この部分をカットしないと上映させないと迫っただけのことはあります。たしかに「反米的」とは言えますね。
反米の何が悪いの? と言いたいところですが、つい1年前までは、GHQから厳しく検閲を受けていたので、松竹側もいまだにクセが抜けず相当びびっていたんでしょう。日本は再独立したんだという気概が、まるで感じられません。

生徒たちがラジオを聞いている教室の黒板に、シェークスピアに関係する内容と思われる英語の文章がチョークで書かれています。「人間復興」という日本語が目に付きます。
北川先生はいったいどんな意図で、英語の時間に『0の暁』のラジオ放送を生徒たちに聞かせていたのでしょうか? 少々、不可解な感じが残ります。

河野は、被爆者たちの多くがみじめな境遇に置かれていることを訴えます。
じつはこのクラスにも、みじめな生活をしている奴がいると、河野は言います。彼は山の方に妹と疎開している間に、父と母をピカでやられ浮浪児になったが、復員してきたおじさんに引き取られ、いまはキャバレーで働いていると。
彼とは後半でメインキャラクターになる遠藤幸夫です。

広島の街は、教会が新しく建ったり、平和大橋が開通したり、平和記念館が建ったりと復興しているように見えるが、一方で、町には軍艦マーチが流れ、警察予備隊の募集ポスターが貼られたりして、みち子たち被爆者は、また戦争が近づいているような不安を感じるのでした。

大庭みち子が病床で、原爆が投下された当日のことを回想し始めるところから、大庭みち子一家と遠藤幸夫一家の被爆の物語が、からみ合いながら展開していきます。


大庭みち子一家の物語



8月6日の朝、みち子の姉の町子は、弟の明男を保育園まで連れて、女学校に出かけていきます。
みち子はそれを見送りますが、これが最後になるとは思ってもいなかったでしょう。

みち子の一家は母みねを加えた4人で、一家の父親は出征しているようです。

この朝、町子たち女学校の生徒は、米原先生(月岡夢路)に引率されて、日の丸の鉢巻姿もりりしく建物疎開に動員されていきます。
建物疎開というのは、空襲を受けた際に建物が延焼するのを防ぐために、建物を取り壊して空き地を作ることをいいます。

運命の8時15分、建物疎開の作業中の米原先生と女学生、そして二中の男子学生たちの頭上から、地球上にかつて存在したことのない巨大な閃光が襲いかかります。

町子たちは爆風で吹き飛ばされ、粉々に破壊された木材や瓦礫の下敷きになっていましたが、抜け出して、米原先生に率いられて、炎の街を逃げまどいます。みんな髪の毛は逆立ち、衣服はボロボロになって、顔は火傷を負っていました。

大きな石の階段を降りた先は大きな川で、被災者たちがあとからあとから入っていきます。女学生たちは川の中で、米原先生を囲んでみんなで「君が代」を歌って耐えていましたが、次第に流されていき、町子も米原先生も歌声とともに水中に消えていくのでした。

大庭みち子の母みね(山田五十鈴)は、つぶれた家の屋根を突き破って這い出し、みち子と明男を探しに歩き出します。明男は黒く焼かれて倒れていました。みち子は瓦礫の下からはい出して無事でした。

みねは明男を背負いみち子を連れて、比治山ひじやまの上の救護所になっている洞窟にたどり着きますが、頬に大きな水ぶくれのある男から、
「おばさん。そんなんなった子供、抱いていたってしょうがないよ。早く焼いてもらうんだ」と言われます。
明男はすでにいのち尽きていたのでした。

みねとみち子は、似島にのしまの救護所に向かう船の上にいました。
すると、目が見えなくなった女の子が、みねに話しかけてきました。
「おばさんの子ども、ここにいるの?」
「おりますよ」
「これあげる。学校へ行くとき、持って出たの」
それはお弁当でした。女の子の母が、女の子が昼に食べるようにと持たせてくれたものでした。
「あなた、自分で食べないの?」
 とみねが聞くと、
「私、もうだめ。おばさんの子どもにあげて…。おばさん、私の名前をいうから、お母さんにあったら言ってね」と言いながら、女の子は死んでいきました。
みねは女の子に「しっかりしなさい!」と何度も呼びかけますが、女の子が答えることはありませんでした。みち子はみねといっしょに号泣していました。

いかん! これを書いているだけで、涙がこみあげてしまう。
このシーンは、被爆当時小学三年生だった田中清子さんの手記に出てくる実話がもとになっています。
ほとんどそのままだな。

比治山の洞窟から似島の検疫所への被爆者の輸送は、洞窟が満杯でやけどの治療に限界がきてしまったため、被爆3日後に行われたそうなので、この時点ではそれだけの時間が経過していたことになります。
火傷の治療といっても、当時は白い軟膏のようなものを、べっとりと塗るだけだったそうです。

この時の似島への被爆者輸送を担ったのは、陸軍船舶司令部のあかつき部隊でした。大発だいはつ(大型上陸用舟艇)や小発しょうはつを使って、川や宇品埠頭から、被爆者を乗せて運びました。

広島_被災地図.JPG


遠藤幸夫一家の物語



幸夫の父である遠藤秀雄(加藤嘉)は、広島市警防団東白鳥分団の一員でした。

警防団というのは、いまの我々には耳慣れない言葉ですが、当時の行政組織のひとつだったようで、「その任務は、防毒、監視、海事、配給、救護、医療、防火などであり、救護部を設けることになっていた」(1)そうです。

原爆で壊滅した広島の街で、秀雄は家の下敷きになった妻よし子を助け出そうと、太く長いはりと格闘していました。
「私はもうだめですから、あなたは逃げて! 子供たちをお願いします」
すでに火の手が迫り、もはや妻のもとへは近づけない状態になっていました。燃え盛る炎の中から、「逃げてーっ」と叫ぶよし子の声が聞こえます。
秀雄は「許してくれ!」と、炎の中に呼びかけていました。

加藤嘉、名演です!

被爆者たちは、爆心地から約2q東南方にある標高70メートルの比治山ひじやまに、焼け焦がした身体を引きずり、よろめきながら、続々と登っていきました。
そこには、約50mほどくり抜いて広い洞窟が掘られてあり、救護所になっていました。その洞窟もたちまち人でいっぱいになり、入り口まで被爆者があふれていたそうです。

洞窟には、子供を連れて避難してきた大庭みねの姿があり、明男がすでに死亡していたことは、先に触れました。そこに遠藤秀雄がやって来て、「一中の遠藤一郎はいないか!」と叫びながら洞窟を見回し、いないと見るとすぐに出ていきました。

秀雄は、すれ違う汚れた姿の子供のひとりひとりを確認しながら、息子の一郎を探して街を歩き回ります。
カメラは秀雄を追いかけながら、その途上で出会う様々な被爆者の姿を映し出し、破壊され尽くして炎を上げ続ける「ひろしま」の街の内臓をこれでもかと描き出します。

「万歳! 大日本帝国、万歳!」と叫ぶボロボロの旗を持った男に、秀雄は「こらあ! 敬礼せんか!」とどなられ、敬礼しながら男を見送ると、男は瓦礫の向こう側へ走り去り、そのままばったりと倒れていました。

防火水槽には、4,5人の子供たちが頭を突っ込んだまま死んでいました。

被爆者は原爆の熱線を浴びて、顔や露出している体の部分を焼かれ、生き残った者は水を欲しがったそうですが、水を与えるとなぜか、みんなすぐに死んでいったということです。

その時、黒い雨が降り始め、街中のすべてを黒く塗りつぶしていきました。

黒い雨は、最近の研究では、午前9時ころから爆心地近くで降り始め、次第に県の西北部へと降雨範囲を広げていき、午後3時ころにやんだことがわかっています。
黒い雨の成分は、原爆の爆発でまき散らされたウランを含む、その後の火災により空高く巻き上げられた地上物の燃えカスでできていて、やや粘着性のものだったと言われています。

秀雄が黒い雨の中を歩いていくと、「おとうちゃん!」と叫びながらしがみついてきた、小さい子供がありました。でも父ではないと悟った子供は、どこかへ走り去って行ってしまいました。

これらの印象的なエピソードの数々は、原爆体験者でなければ知り得ないものだと思います。

広島県庁のビルの残骸に、「県庁本部移転先 市内下柳町 東警察署内」という張り紙が貼ってありました。
炊き出しに被爆者が行列を作っている近くで、広島県知事の「告諭」を読み上げている男がいました。

「広島県知事告諭」
今次の災害は残虐極まる空襲により、吾が国民戦意の破壊を図らんとする、敵の謀略に基くものなり。
広島県市民諸君よ、被害は大なりといえどもこれ戦争の常なり。断じてひるむことなく、救護復旧の措置は既に着々と講ぜられつつあり、軍もまた絶大の援助を提供せられつつあり、速やかに各職場に復帰せよ。戦争は一日も休止することなし。
一般県民諸君もまた暖かき戦友愛を以て罹災諸君をいたわり、これを鼓舞激励し其の速かなる戦列復帰を図られたし。
今次災害に際し、不幸にして相当数の戦災死者を出せり。衷心より哀悼の意を表し、その冥福を祈ると共に、其の仇敵に酬ゆるの道、断乎驕敵を撃破するにあるを銘記せよ。
吾等はあくまでも最後の勝利を信じ、あらゆる難苦を克服して大皇戦に挺身せむ。
八月七日 知事 高野源進



原爆は、広島の中心部で炸裂したため、県庁、市役所、病院、軍隊、警察署は全滅し、被爆者を救いに来るべき組織ごと、地上から消し去っていました。
たまたま広島県知事は出張中で難を逃れましたが、広島に戻るとすぐに、軍部に連絡して救援体制を整えるとともに、聖戦遂行の使命を市民に訴える「告諭」のビラを各所に掲示しました。
高野知事の奥さんは被災して、行方不明になったままお骨も帰ってこなかったそうです。

救護所となっている学校に秀雄が現れ、身動きできないほど被災者がひしめく中で一郎を見つけます。
「一郎。間に合わなかったな」
一郎と一緒にいた一中の生徒に、秀雄は丁重に礼を言い、「じゃ、さよなら。元気でいなさいよ」と言って、一郎の亡骸なきがらをおぶって立ち去ります。「これを、負ぶったのは、久しぶりだな」

地獄のような情景の中で交わされる二人の会話の、静かで落ち着いていて互いに思いやりにあふれたやりとりに、人間の品格とは何なのかを考えさせられます。

妹の洋子と疎開していた遠藤幸夫は、広島に帰ってきましたが、自宅は一面の瓦礫の中にコンクリートの門柱が残っているばかり。近所のおばさんに、母と兄一郎は死んで、父秀雄は病院にいることを知らされ、幸夫は病院に父を訪ねますが、変わり果てた父の姿を見てショックを受けた洋子は、「お父ちゃんじゃない!」と叫んで、どこかへ走り去ってしまいます。その後、いくら探しても洋子は見つからず、幸夫は浮浪児の仲間入りをすることになります。

終戦。広島は少しずつ復興していきました。
幸夫たち浮浪児は広島に訪れるハロー(アメリカ兵)に、原爆の記念品だと言って瓦礫を売りつけたり、チョコレートやパンを恵んでもらいながら生活していました。
「ユー ジェントルマン パパ ママ ピカドンで ハングリー!ハングリー!」が、殺し文句でした。

似島の収容所に入れられていた幸夫は、復員してきたおじに引き取られ、おじの工場を手伝うことになりました。幸夫は高校生になり、大庭みち子や河野のクラスメートになります。
やがて工場は砲弾を作るようになり、それがいやで幸夫はおじの家を飛び出してしまいます。

朝鮮戦争による軍需景気が背景になっていますね。
1950年6月25日に北朝鮮軍は38度線を越え、韓国に侵略を開始し朝鮮戦争が勃発して、1953年7月27日に休戦協定を結ぶまで戦いは続きました。

幸夫は浮浪児たちを集めて、似島に船で渡り、防空壕の中から被爆者の骸骨を掘り出して、アメリカ人に広島の訪問記念品として売らせていましたが、警察に捕まってしまいます。
骸骨の額には、幸夫によって次のような英文が書かれた紙が貼ってありました。

The first and greatest honor in the history of human shine on this head.6.Aug.1945
(人類の歴史上、最初にしてかつ最大の栄光、この頭上に輝く。1945年8月6日)

警察から通報を受けた北川先生が、河野たちクラスメートと一緒に幸夫を受け取りに来て、原爆ドームを背景にみんなが揃って歩んでいきます。大通りに群れをなして歩き続ける広島市民、人々は途切れることなく、原爆ドームに向かって進んでいきます。その映像にかぶって、むくむくと起き上がって、米原先生と女学校の生徒たち、大庭みねや川で死んだ一中の生徒たちなど、大勢の原爆で殺された死者たちが、広島市民とともに歩き出すのでした。

 1953年8月

声なき人々の大行進にどんな声を聞くか、それが映画『ひろしま』の究極のテーマだったのだと思います。


参考資料
(1)「1945 年 8 月 6 日広島原爆投下時の救護所」谷整二(広島大学文書館調査員)


軍部はどう動いたのか?



遠藤幸夫の現在パートの前に、端折ってしまったんですが、実は軍人や科学者や医者や看護婦たちのエピソードがあります。

護国神社跡で円陣を組んで軍人たちが会議をするシーン。
まず民心の安定を図り、逐次市民生活の復興をはかる。そのために、流言飛語の取り締まりを厳格にする。
…などが話し合われるのはまだいいとしても、
「新型爆弾に対しては、防空壕の価値の大なることを強調し」たり、「新型爆弾に対しても何らか手があるという信念を抱かしめ、この際いっそうの敵愾心を奮い起こさしめる」って、どうよ?
居並んだ軍人たちはみな、「同感!」「同感!」「賛成!」って、広島の街の惨状も市民の被害も、彼らの眼中には無きがごとくです!

もはや、被害のレベルを客観的に評価する理性を失ってしまっているようです。

大日本帝国臣民の命の値段は、安かったなあ!

でも、本当にこんな状態で会議をしてたのだろうか?
ネットで調べまくりましたが、こういう事実を記したものにはいまだ遭遇していません。
この場面は、フィクション?

たしかに大本営では戦争継続の意見が主流だったし、天皇も国体の護持が連合国に明確に保証されるまでは、戦争継続やむなしという考えでした。でも、原爆の直撃を受けた広島の軍部では実際のところ、どういう意見だったのだろう?
やはり、建前を口にするしかなかったというのが、一番考えられる線ではあるな。

場所を移して、今度は室内で、科学者たちと軍人たちの会議の場面。
この会議は、8月10日に比治山の東南にあった兵器補給しょうで大本営調査団主催で開かれた、陸海軍合同特殊爆弾研究会だと思われます。ここで理化学研究所の仁科芳雄博士は、広島に投下されたのは「原子爆弾」であると、公式に結論を出しました。

じつは仁科博士は、8月8日、大本営の依頼で現地調査団として広島に入ったその日に、鈴木貫太郎内閣の迫水さこみず書記官長に、「残念ながら原子爆弾に間違いありません」と伝えています。

また、放射線の影響についても、仁科博士は回りの人々に注意していますが、国家レベルで放射線対策が取られることはなかったようで、むしろ放射線のことは公にしないよう、きびしく検閲していました。

軍部や内閣には「原爆投下はアメリカの謀略だ」という意見が根強く支配していました。残虐極まりない原子爆弾が投下されたことや放射線に恐怖を抱けば、国民が戦意喪失することを恐れたのです。

科学者と軍部の状況認識のズレを表現している、映画的演出としては見事なシーンだと思います。ただ、これを歴史的事実として受け取られてしまうと、ちょっと待ってと言わざるを得ません。

映画というのはどんな映画でも、往々にして「神話化」がされやすいことは留意しておく必要があります。現実や事実を表現するよりも、英雄の賛美や伝説の強化が優先され、偏見や恣意的な善悪が強調されたりして、映画的な美とは別な部分で評価されがちになります。

こういう表現手法が極端化すれば、プロパガンダ映画と同じになってしまいます。

このほかに、広島では70年間、草も木も生えないと言われたことをめぐるエピソードについて触れておきます。事の真偽をはっきりしてくれと医師に詰め寄る被爆者たちもいて、医師は、それを確かめるために庭に大根の種をまいてみたので、その結果次第だという説明をします。

これはトルーマンの原爆投下を告げる声明がもとになって、広島市民の口から口へと伝わっていたものと思われます。

大根の種をまいた畑に、岡崎看護婦(岸旗江)が毎日水やりをしているのを、被災者たちは病院の窓から見ながら、いまかいまかと待っていましたが、ついに大根が芽を出したのを見てみんなで大喜びをしますが……
次のシーンでは、岡崎看護婦が医師(三島雅夫)に診察を受ける場面になり、彼女もまた、被爆者だったことがわかります。医師が彼女の髪を引っ張るとごそっと抜ける衝撃のシーンのあと、原爆症の症状が進んで血を吐く岡崎看護婦の無残な場面が続きます。

この場面転換も、よく計算されていると思います。


映画『ひろしま』と映画『原爆の子』



映画『ひろしま』(関川秀雄監督、1953年)と映画『原爆の子』(新藤兼人監督、1952年)は、同じ一つの原作から生まれた、二つの作品です。

1951年、広島文理科大学の教育学者、長田新長田新おさだあらた編纂による『原爆の子──広島の少年少女のうったえ』が出版されると、本への反響とあいまって、二つの団体から映画化の企画が持ち上がりました。新藤兼人(広島出身)率いる近代映画協会と日本教職員組合(日教組)です。

一時は共同製作が検討されたものの、新藤の脚本が原作を「ドラマ風に書き換えてしまっていたこと」により、日教組側が「原爆の真実の姿が広く知らされない」と不満を表明して決裂し、別々の作品を撮ることになったとのことです。(2)

そのため映画『原爆の子』と見くらべてみると、映画『ひろしま』が撮られなければならなかった理由が、よくわかります。
映画『ひろしま』では、原爆投下直後の広島と人々の描写が、30分以上にわたり延々と描き出されますが、まさにこれこそ制作者が表現したかった「原爆の真実の姿」だということでしょう。

これに反して、映画『原爆の子』では、原爆投下直後の描写はほんの数分で、なんか女性の乳房の映像だけが印象に残ってしまい、なんのこっちゃ感が強いです。

この映画が描き出すのは、瀬戸内海の小島で小学校教師をやっている石川孝子(乙羽信子)が、原爆から数年後、故郷の広島に帰って、かつて勤めていた幼稚園のもと園児たちを訪ね歩く、という話です。それぞれの園児たちの物語に、原作が使用されています。

ドラマとして秀逸だとは思いますが、たしかに、原爆そのものの描き方が弱いとは言えるかもしれません。『原爆の子』を原作にする必要がどこにあるのか、ただの人情ドラマの一つに終わってしまっている感があります。

映画『原爆の子』の音楽も映画『ひろしま』と同じく伊福部昭が担当しており、『ゴジラ』の音楽とも共通する「伊福部レクイエム」になっています。映画『ひろしま』は、そのまま『ゴジラ』の世界につなげても、あまり違和感がありません。


『原爆の子』新藤兼人/監督(1952年)



『ひろしま』関川秀雄/監督(1953年)前編

『ひろしま』後編



映画『ひろしま』が完成すると、英国の「デイリー・スケッチ」誌(1953年8月25日付け)が、『ひろしま』のスチール写真と一緒に、「8年たっても日本人は憎悪を奮い立たせている」と批判記事を載せました。
一時は文部省選定にも選定されながら、結局、非選定になってしまったということです。(3)

当時のイギリス人が見ると、『ひろしま』は「反連合国」映画に見えたんでしょうね。
現在の時点で私たちが見ると、もう「反米」という感覚すら薄れている気がしますが、
それは戦争の熱が完全に冷めてしまっているために、冷静に見ることができるからだと思います。

映画『ひろしま』では、高山良策が特殊技術で参加しています。原爆で破壊された街のセットの製作担当だったようですが、見ごたえのあるセットになっていたと思います。
『ウルトラセブン』等の怪獣造形で特撮ファンには定評のある方ですが、こういう仕事もしてたんですね。

月岡夢路(米原先生)は、当時映画の出演料が日本映画界トップクラスだったにもかかわらず、所属していた松竹の反対を説き伏せて、故郷広島のためにノーギャラで出演するという男気(?)を見せています。

山田五十鈴(大庭みね)の演技にも凄みを感じました。のちに、必殺仕事人の元締めをするだけの迫力がすでに十分でしたね。
山田五十鈴は、この映画のころは、実生活で加藤嘉かとう よしと結婚していました。夫婦で『ひろしま』に出演していたわけです。その経歴を見ると、俳優や監督と結婚・離婚を繰り返し、まさに「恋多き女」だったようです。

加藤嘉(遠藤秀雄)は、戦前からの社会主義者で、民藝の旗揚げに参加しています。
映画『砂の器』(1974年)での、幼い息子を連れて日本全国を流れ歩く、らい病の父親役は感動的でした。

岡田英二(北川先生)はこの映画の8年後、アラン・レネ監督の日仏合作映画『二十四時間の情事』に、日本側俳優として出演します。この映画では、広島の原爆の残酷さを伝えるために、映画『ひろしま』のフィルムが使用されています。

〈参考資料〉
(2)(3)「「無垢なる被害者」の構築──新藤兼人『原爆の子』、関川秀雄『ひろしま』にみる女教師の歌声と白血病の少女の沈黙」片岡佑介


歴史と記録映画



映画『ひろしま』はよくできた映画だと思いますが、しかし、実際の原爆は、映画以上であったろうことは誰でも容易に想像がつくと思います。
映画がどれほど写実的であっても、また、現実を再現したとしても、やはり伝えられることの限界はあります。

平和運動へも反核運動へも結び付けずに、ただ虚心に、人間として核攻撃をするのはどんなものか?と訴えかけるところまでが、もっともこの映画が威力を発揮するフィードだと思います。

映画『ひろしま』をどう活用するか?
まず、核保有国の国民と政権を担う人たち全員に見てもらうプロジェクトというのが必要ではないかと思う。
トランプにも習近平にもプーチンにも金正恩にも、それぞれの国の国民にも見てもらえたら、あるいは、核使用にブレーキをかけることができるかも知れない。戦争自体は防げないとしても。

その点、映画は「世界言語」に成り得ると思います。

映画『ひろしま』を製作した監督以下スタッフと参加した広島市民には、遅ればせながら敬意を表したいと思います。


じつは、原爆投下直後の広島と長崎を撮影した日本の記録映画があります。もちろん、ドラマではなく、日映(日本映画社)のカメラマンが8月8日から広島入りして現場を撮影したものです。最初は、「原爆の非人道性を、ジュネーブの赤十字を通して世界に訴えよう」というのが、撮影に臨んだ目的だったそうです。

しかし、そのうちに終戦になってしまい、国策法人だったため資金に窮して、あらためて陣容を立て直すことになりました。

理研の仁科芳雄博士ほかに協力を依頼して、文部省が「原子爆弾災害調査研究特別委員会」を設置すると、日映は記録映画班として参加が認められました。

「医学班」「生物班」「物理班」「土木建築班」「ニュース及遊撃班」の5班に分かれた撮影班が編成され、それぞれの専門家とともに本格的な撮影が始まりました。

1946年4月21日、映画『The Effect of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki』(英語版)が完成しました。しかし、出来上がったフィルムはすべてGHQに没収され、3万フィートのネガフィルムごとアメリカに持ち去られてしまいました。

大事なフィルムがむざむざと持ち去られるのを黙って見ていたかというと、実は日映の4人の男たちが、重要な部分だけを1万フィートを超えるほど2重に焼き増して、GHQを欺いてこっそりと保管していたのです。

それから21年後の1967年、この「 Effect」は日本に帰ることになりますが、文部省の意向で「人体への影響」の13分をカットして公開されたため、被爆者たちは「原爆の残虐な部分が描かれていない」として全面公開を求めました.
しかし、文部省は首をたてに振りませんでした。

その後、「10フィート映画運動」をやったりして、幻のフィルムをアメリカから買い戻し、長い紆余曲折を経ながら日本語完全版が完成され、ハイビジョン化も実現しました。

現在では『広島・長崎における原子爆弾の影響』(日本語完全版)(164分)として、DVDが市販されています。



被害状況を再現した映画と被害の科学的研究映画、この二つが揃うことで、広島・長崎の原爆被害は、世界の人々に将来に渡って訴え続けることができることでしょう。


いま必要なのは、天皇にも、アメリカにも、中国にも、ロシアにも気を遣うことなく、
冷徹厳正な眼で戦争の歴史を見つめ直すことかも知れないな。
そのためのツールとして、映像作品が占める位置は、これからますます重要になってくると思います。


没収された原爆フィルム (1990年)



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2019年08月15日

[速報]幻の映画『ひろしま』、8月17日 NHKにて放映! 見たら?



映画『ひろしま』が、8月17日 0時より(金曜日深夜)、NHK Eテレで放映される。

終戦から8年目、GHQの占領が終わったばかりの広島で、映画『ひろしま』は撮影された。
出演者数8万8000人、広島の被爆者も多数参加して、実際に被爆したときの衣服や生活用品や瓦礫を持ち寄り、
原爆が投下された直後の広島が再現された、空前絶後といっていい映画である。
こんな映画はもはや撮られることはないだろう。

1951年、被爆した児童たちの手記を集めた書籍『原爆の子』が出版され、
映画にして残してほしいという被爆児童の訴えから、映画『ひろしま』は生まれた。
撮影資金は「日本教職員組合」(日教組)が、50万人の会員からカンパを集めて準備した。

日教組と聞くと、「共産主義」とか「社会主義」とか「アカ」とかを連想する人もいるだろうと思う。
たしかに、日教組はその生まれからして、GHQがまだ日本国の弱体化を推し進めていた時期(1947年)に、
GHQの後押しで生まれている。

イデオロギー的に受け付けないという向きもあるかとは思うが、
しかし、映画作品としては、機会があればぜひ一度は見ておきたい作品だと思う。

うかつであったが、私はこの映画の存在を知らなかった。
どこかで主演の月岡夢路が写っているスチールを見たような記憶はあるが、
その時は大した興味も抱かないまま見過ごしたように思う。

それが、先日放送されたNHKの『ETV特集「忘れられた“ひろしま”〜8万8千人が演じた“あの日”〜」』という番組で、いくつかのシーンを実際に見ることができ、これは画面の訴える力がただ事ではない、と感じた。


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制作資金を日教組が集めたとはいえ、
実際に作ったのは監督であり、脚本家であり、出演者たちだ。
まずは、一度見てから、公正に判断を下すべきだと思う。
また、日本人なら一度は見ておくべき映画だと思ったので、ここでお知らせすることにした。

アマゾンでもこの映画のDVDは現在品切れ中なので、見たいと思っても見ることのできない映画になりかねない。


私は「反核」とか「平和」とかのイデオロギーを前面に出して作られた映画は好みではないが、
映画『ひろしま』が描き出す原爆のリアリズムは、イデオロギーを超えるだろうとも思っている。
なにしろ、上映時間104分のうち、30分以上を原爆描写に使っているという映画なのだ。

映画が完成当初、松竹系の映画館で公開予定だったが、
出来上がって試写を見たら、内容が反米的すぎるとして、松竹が手を引いてしまった。

その結果、映画『ひろしま』は自主上映してくれる映画館で細々と上映されただけで、
広島市民でさえろくに見ることもなく、忘却された幻の映画になってしまった。

GHQ占領中は、プレスコードやピクトリアルコードというのが設定されていて、
第二次世界大戦の戦勝国(米国・英国・ソ連・中華民国)を批判したり、
GHQの動向を詳細に報道することは、新聞・雑誌・ラジオ・映画等に対して発表が禁止されていた。
原爆を真正面から取り上げたりすることも、GHQは許さなかったので、
占領期間中の日本国民は、原爆被害の実態は知らなかったのだ。

占領が終わっても、日本人がGHQの洗脳から覚めるには、さらに長い年月が必要だった。


『ひろしま』制作スタッフ
【監督】関川秀雄
【出演】岡田英次,月丘夢路,神田隆,山田五十鈴,加藤嘉,利根はる恵
【原作】長田新・編『原爆の子』
【脚本】八木保太郎
【音楽】伊福部昭

おお! 音楽は『ゴジラ』(1954年)でおなじみの伊福部昭だ。
これも楽しみだ。


『ひろしま』 1953年(昭和28年)




じつは、映画『ひろしま』と同じように、
映画が完成しながら、日本国民が自由に見ることができなかった映画がまだある。

『樺太1945年夏 氷雪の門』(1974年)がそれだ。

1945年8月20日、
昭和天皇が「終戦の詔勅」においてポツダム宣言の受諾を発表してから5日後のこの日、
ソ連軍は日本領の樺太(からふと)・真岡に侵攻し、住民を虐殺した。

この映画は、樺太・真岡郵便局の女性電話交換手九名が自決するまでを描いたものだが、
当時、ソ連からクレームがついたと新聞報道され、公開ができなくなった。
真相はいまだにはっきりしないが、
その後上映はされるようになったものの、日本国民に知られているとは言い難い作品になってしまった。

NHKにはぜひ、次は『樺太1945年夏 氷雪の門』の放映をお願いしたい。
posted by ミロ at 21:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | わが映画

2019年06月17日

ゴジラが仙台を襲撃する日


ゴジラ001.jpg
『キングコング対ゴジラ』東宝 1962年 ゴジラ仙台通過シーン


思い返せば、昭和の時代のことになるが、
ゴジラ映画の原作(原案)を募集したことがあったんだよね。
そのとき私は、ゴジラが仙台駅を破壊して、立体駐車場から駐車していた自動車がガラガラとこぼれ落ちるというシーンを夢想した。

しかし、歴代ゴジラが破壊してきた建造物──国会議事堂、大阪城、名古屋城、有楽町マリオンなどと比べると、
クライマックスのシーンとしてはちょっと地味すぎるなと思った。
でも、ゴジラに一度、仙台の街をぶっこわしてほしいなあ!という希望はずっと持ち続けている。
こちらの記事の最後に掲載した写真「仙台駅夕景」などは、そんな思いから作ったものだ。

結局、そのときの原案募集からは『ゴジラVSビオランテ』が生まれた。

同じように「ご当地ゴジラ」を望む思いは、ゴジラファンなら多かれ少なかれ持っているものだろう。
それは若い世代でも同じなんだな、と思った出来事があった。

先日『OH!バンデス』(ミヤギテレビ)で、仙台電子専門学校の学生さんが作ったゴジラ映像が紹介されたのを見た。
技術的な達成度もさることながら、カメラアングルが素晴らしいし演出もうまいもんだなあと感心した。


ゴジラ仙台に出現!



ここでは自分の在学している専門学校ビルをゴジラに破壊させている。
仲間受けするたぐいの発想かもしれないが、このレベルでやられちゃうと、もう言葉もない。

次の作品も、とくにメーサー車を描くアングルが「これが見たかった!」というものになっているのは、脱帽ものだ。
あとは、「軍事用語」を勉強すると、もっとリアリティが出ると思うよ。


『ゴジラ −怪獣王上陸−』Blender



『シン・ゴジラ』からインスパイアされている部分が多いように感じるが、
自分が気に入った作品のテクニックを真似することでスキルアップを図るということは、
プロの製作者たちだってやっていることだ。

『猿の惑星』の新作が発表されるたび、進化した特殊メイクアップ術を日本の映画がマネをするのをたびたび目撃してきたし、
『スターウォーズ』のモーションコントロール撮影なども、日本映画はすぐに『惑星大戦争』でパクっている。

『パール・ハーバー』でハリウッドが巨大シンバルを使った戦艦の沈没シーンで観客の度肝を抜くと、
日本映画は『男たちの大和』で同様のシーンを撮るというふうに、ハリウッドの後にぴったりとついて、少なくとも「技術的」には差を開けられないような努力をして来ている。


この動画は「Blender」という3DCGアニメ作成ソフトを使用して作っているけれど、学生の水準を超えてしまっているね!
テレビでやってるCMアニメでも、これより低レベルなものは多い。

いまの時代、本当に好きだったらアマチュアでもこういう作品が作れてしまうんだな。


じつはゴジラは、すでに以前の作品で仙台上陸を果たしてしまっている。
冒頭に掲載した画像がそれで、『キングコング対ゴジラ』(1962年)のものだ。
「キングコング」の名前がゴジラより先に来ているのを見ても分かる通り、
キングコングの版権所有者に対して、かなり忖度がされている作品だ。

この作品でのゴジラは、セリフで松島湾から上陸したと語られるだけで、
仙台市も中心部を通過したわけではなく、22時15分頃「時速50キロで」かなり山の中を南下していっただけだった。
だから、なにひとつ仙台に傷跡は残していない。

…この時代の仙台市は、駅舎も木造の古いものだったし、
ランドマークとなるようなものもなかったとは言えるなあ。
ゴジラ様に襲っていただくにはまだ早かったね。

さらに後年、これはゴジラではないが、
『ゴジラVSメカゴジラ』で空の大怪獣ラドンが松島経由で仙台駅上空に飛来したことがあった。
ラドンは頭上を飛行しただけでソニックブーム(衝撃波)によって下にあるものが破壊されるから、
この映画では仙台市内のビルのいくつかが黒煙を上げる結果となった。

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『ゴジラVSメカゴジラ』東宝 1993年 ラドン仙台駅上空に飛来

ラドンもいいけど、やっぱゴジラが仙台の街を破壊しまくる勇姿が見たい!


1980年台くらいから、自主制作映画とか自主制作アニメといった言葉を聞くようになった覚えがあるが、
「オタク」などという言葉が流行りだすよりもう少し前だったと思う。

ゼネラルプロダクツというオタク趣味の商品を扱う会社があって、
ガレージキットやDAICON FILMのビデオソフトや『よい子の匪歌集』なんて替え歌の本なんかを売っていたものだ。

『快傑のーてんき』とか『愛國戦隊大日本』とか『八岐之大蛇の逆襲』という映画を作って販売していたが、
見てみたい興味はあったものの、値段が高すぎてあきらめた。

ゼネプロ102.jpg
『ウルトラセブン』地球防衛軍タイピン&『ウルトラマン』科特隊流星バッジタイピン


『海底軍艦』轟天号とかウルトラセブンのウルトラアイとか買ったりしたが、
今も残っているのはこれぐらいだな。
それと私のプロフィール写真に使っているアンヌ隊員とね!

Youtubeを探したらあったので、貼っておく。
ちなみに『愛國戦隊大日本』の特撮を担当しているのは、大阪芸術大学在学時代の庵野秀明です。
ビデオカメラが一般に普及するはるか前なので、8ミリフィルムで撮影されているのも時代ですね。
これから30年後に『シン・ゴジラ』の監督をするわけだからね、大器の片鱗がうかがえます。

『愛國戦隊大日本』DAICON FILM 1982年(昭和57年)


『 帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令』DAICON FILM 1983年(昭和58年)

庵野秀明 / 総監督

DAICON FILM『 帰ってきたウルトラマン』メイキング映像



★よい子のための特別付録★

『愛国戦隊大日本』

作詞:毛利文彦
作曲:渡辺宙明

もしも 日本が 弱ければ
ロシアが たちまち 攻めてくる
家は焼け 畑はコルホーズ
君は シベリア送りだろう
日本は オォ 僕らの国だ
赤い敵から 守りぬくんだ
カミカゼ スキヤキ ゲイシャ
ハラキリ テンプラ フジヤマ
俺達の 日の丸が 燃えている
GROW THE SUN
RISING SUN
愛國戦隊 大日本

この世に ロシアが ある限り
いつかは 日本に 攻めてくる
北の果て シベリアの 彼方から
アカの魔の手が 迫り来る
御国の四方を 守るために
兵役は オォ 国民(ぼくら)の義務だ
カミカゼ スキヤキ ゲイシャ
ハラキリ テンプラ フジヤマ
君達も 今すぐに 銃をとれ
GROW THE SUN
RISING SUN
愛國戦隊 大日本

凍らぬ 港が ある限り
ロシアは いつでも 狙ってる
尊い 犠牲を 払っても
北の土地から 追い返せ
樺太(からふと)も オォ 僕らのものだ
祖先の土地を 取り戻すんだ
カミカゼ スキヤキ ゲイシャ
ハラキリ テンプラ フジヤマ
今すぐに アカどもを ぶち殺せ
GROW THE SUN
RISING SUN
愛國戦隊 大日本

北に ロシアが いる限り
北洋漁業は できやせぬ
網はさけ 漁船は 拿捕されて
又もカズノコ 高値呼ぶ
サケ マス タラも 僕らのものだ
トロール船を 追い返すんだ
カミカゼ スキヤキ ゲイシャ
ハラキリ テンプラ フジヤマ
君達も 今すぐに 出漁だ
GROW THE SUN
RISING SUN
愛國戦隊 大日本


ジョージ・ルーカス監督『STAR WARS』とスティーブン・スピルバーグ監督『未知との遭遇』が日本で公開されて、
彼らがやはり自主制作映画出身だと知り、アメリカと日本との共通する時代の流れのようなものを感じたことを覚えている。
 
だいたいお金のあるやつは映画とか音楽の方に行くけど、
金のないやつは文学とかマンガに行くのが相場だよね。

一瀬隆重『ウルトラQ No.29「闇が来る!」』の存在や、
手塚治虫の息子・手塚真が自主制作映画で頭角を表して来ていることは、
実際に映像を見たことはなかったけれど、雑誌で取り上げられているのを見て知っていた。

世の中の玄人はだしの素人が、メディアを席巻し始めていた。
コミック・マーケットなどのファンダムの興隆を始めとして、
いかてん(「いかすバンド天国」)やダンス選手権など、この動きはいろいろな分野で見られるようになった。

大量の素人が参入することによって、表現の裾野が広がっていった。
そこから、メジャーの世界へデビューする者も出始めた。

これらの動きの集大成として「インターネット」時代がやって来る。
誰でも気負わずに自分の表現を発表できる場を、われわれは手に入れたわけだ。
その結果、表現内容の変質も起こっているが、そこから今までにない新しい表現を作り出せるかどうかは、
ひとえに若い世代の努力と才能にかかっているだろう。

人生は、長いようで短く、短いようで長い。
やりたいことをやりなはれ。



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2016年09月25日

『ゴジラ』(昭和29年版)の思い出

前回の続きです。

ゴジラ.JPG


あなたはゴジラ・ファンですか? って聞かれたら、私はなんと答えるべきだろう?
映画館で怪獣映画を見たのは、じつは大人になってからが初めてなのでした。

子供の頃は、新しいゴジラ映画が作られるとマンガ雑誌がよく紹介していたもので、
ゴジラ映画を見てえなあ! と、子供心に思った記憶があります。
でも、映画館は隣町にしかなかったし、
そもそも映画を見るようなゼイタクは、我が家の生活にはありませんでした。
親父に連れて行ってもらった記憶が一度、あるぐらいのもんです。

『三大怪獣地球最大の決戦』とか『ドゴラ』とかは、テレビで放送したのを見た記憶があります。
当時はけっこう、夏休み時期とかに、東宝特撮映画をテレビで放送することがあったんです。
しかし、ゴジラ映画や非ゴジラ特撮映画のほとんどをわたしが見たのは、
レーザーディスクが発売されるようになってから以降のことです。

それ以前にもビデオテープが発売されてはいましたが、当時の市販ビデオの値段というのは、いまからは考えられないほど高額でした。
第一作の『ゴジラ』の東宝正規版が、39800円だかだったと思う。
とてもおいそれと手の出せる値段ではありませんでした。


私がはじめて『ゴジラ』昭和29年版を見たのは、正規品をコピーしたビデオでした。(なんか、話がヤバくなってきたな(´ε`;))
むろん、それは当時でも違法でしたが、ビデオ・レンタルといっしょに「コピー・サービス」をしているような店が、昭和後期にはけっこうありました。
ようやくビデオ・デッキが一般家庭に普及し始めた頃のことです。
1000円ぐらいでコピーしてもらったような記憶があります。

画質はコピーのため荒れてたけれど、ようやく初めて見ることの出来た『ゴジラ』は、
わたしがそれまでいだいていた「怪獣映画」のイメージを完全にくつがえすものでした。
この違法コピー版のビデオを、わたしはその後十何年か、
レーザー・ディスク版を手に入れるまで、大事に持ち続けていました。
そんなふうにしてしか、当時は昭和29年版『ゴジラ』を見ることが叶わなかった。

いまは、BSで時々放送するし、DVDもネットで手軽に購入することができるので、
『ゴジラ』を見るのはぜんぜん難しいことではなくなりました。
いい時代になったものです!

いまの若い人たちが「ゴジラ」と聞いてすぐに思い浮かべるのは、
たぶん平成ゴジラシリーズだろうと思うのですが、
まだ、昭和29年版『ゴジラ』を見たことがない人がいたら、ぜひ一度、見ることをおすすめします。


『ゴジラ』 1954年(昭和29年)予告編



じつはわたしは、昭和29年版『ゴジラ』を除いては、ゴジラ映画が特別好きというわけではありません。
それよりもゴジラ・シリーズではない東宝特撮映画の方に、より深い思い入れがあります!

『海底軍艦』
『空の大怪獣ラドン』
『地球防衛軍』
『サンダ対ガイラ』
ここらへんがマイ・フェバリット・特撮映画です!

理由のひとつは、魅力的なSFメカが登場すること。
海底軍艦・轟天号、マーカライト・ファープ、メーサー殺獣光線砲車などなど。
小松崎茂デザインのSFメカが、円谷特撮で3D化されて見られるというのは、
それだけで文字通りの「見もの」でした。

もう一つの理由は、勇壮にして骨太な伊福部マーチが聞けること!
特に、『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』で流された、メーサー殺獣光線砲車出撃マーチ(メーサー・マーチ)は最高です!

『シン・ゴジラ』でも、ゴジラのメイン・テーマをはじめとして、
フリゲート・マーチや宇宙大戦争マーチなどの伊福部マーチが自衛隊の活躍場面で流れ、
海上自衛隊や航空自衛隊にはぴったりだと思いますが、
陸上自衛隊にふさわしいのはなんといっても「メーサー・マーチ」だと私は思います。
アレンジの仕方にもよりますけどね。
残念ながら『シン・ゴジラ』では使われていませんでしたが。


「メーサーマーチ」伊福部昭/作曲   「自衛隊マーチ」小六禮次郎/作曲  「Gフォースマーチ」伊福部昭/作曲



『シン・ゴジラ』のエンド・クレジットに記されていた伊福部昭の音楽は、
『ゴジラ』『キングコング対ゴジラ』『メカゴジラの逆襲』『宇宙大戦争』『三大怪獣地球最大の決戦』『怪獣大戦争』『ゴジラVSメカゴジラ』となっていました。

どれがどこで流れていたか、はっきり覚えていないけれど、もちろん伊福部昭の音楽だということはすぐにわかりました。
それ以外の音楽はすべて、鷺巣詩郎作曲です。

『シン・ゴジラ』の音楽を代表して、『怪獣大戦争マーチ』を上げておきます。


『怪獣大戦争マーチ』





そして理由の3つ目は、「東宝自衛隊」の活躍!
違憲だとかなんだとか、自衛隊がボロクソに言われていた時代にも、
東宝映画のスクリーンの中では、自衛隊は怪獣たちを相手に日本を守って戦っていました。

ゴジラが子供だましに成り下がり、シェーしたりするのを「けッ!」と言って横目で見ながらも、
怪獣と戦う東宝自衛隊をぼくらは応援していました。

いったいこれまで、何千何百人の東宝自衛隊員たちが怪獣との戦いで殉職してきたことでしょう!
かれらを慰霊するために、「シン・ヤスクニ招魂社」を建ててやりたいくらいです!


ところで『シン・ゴジラ』の公式記録集『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ』、いったいいつ発売されるんでしょうね?
最初はたしか8月29日のはずが、9月下旬に延期され、さらにまた11月3日(ゴジラの日)に延期になったとか。
わたしはすでに予約済みですが、庵野監督がこだわりぬいて次々に資料を追加するものだから、
どんどん発売日が伸びてるらしい。

まだ、予約が間に合いそうです。


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カラー、東宝

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posted by ミロ at 07:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | わが映画

2016年09月24日

ゴジラはなぜ、東京を襲うのか?





前回の続きです。

ゴジラが登場して以来、「怪獣映画」というジャンルが確立され、たくさんの映画が作られましたが、
なぜかみな怪獣は「日本」を、それもかなりの確率で「東京」ばかり襲うことに、早くから疑問符が付けられてきました。

そもそもゴジラは、なぜ「東京」に来襲したのでしょうか?

製作者も、監督も、脚本家も、物語上のもっともらしい理由は用意していたと思います。
それらはいわば「表層の理由」と呼んでもいいでしょう。
それらをまったく知らずに『ゴジラ』という映画を見たときに、
当時の観客たちはどのように感じていたのだろうか?

水爆を象徴するような大怪物が、大都市・東京をぶっ潰して暴れまわる!(製作者・田中友幸のことば)
つまり、そういう映画であり、それだけの映画なのですが、
その破壊するものと破壊されるものの姿に「何を見るか」は、その時代特有の経験によって違って見えるはずです。

当時の観客たちは、東京大空襲や広島・長崎への原爆攻撃など、わずか十年足らず前に祖国の大都市が実際に滅びた姿を、重ねて見たのではないでしょうか?
映画の中に、それを思わせる描写はたくさんあります。

とすれば、この東京を破壊しまくるゴジラとはいったい何者なのか?


ゴジラは、作中では、志村喬演じる山根博士という動物学者によって、
ジュラ紀から生き延びている海棲爬虫類から陸棲獣類へと進化過程のものが、
度重なる水爆実験によって棲家から追い出されて来たものだろうと推測されています。

昭和29年3月、アメリカによるビキニ環礁での水爆実験によって、
日本の遠洋まぐろ漁船・第五福竜丸が被爆し、死者まで出すという事件に、日本中が騒然としました。
広島・長崎に続く放射能による犠牲者が、戦後十年足らずの日本に出たのでした。

グーグル・アースで「ビキニ」を検索すると、こんな映像を見ることが出来ます。

ビキニ002.JPG

まさに「環礁」ですね!

日本からははるか南方、地図で見ると、近くにウェーキ島があったりして、
まさに太平洋戦争で日本人が激戦を繰り広げた海域だということがわかります。
こんなところからゴジラは、日本の東京までやって来たというのです!

ビキニ001Z.jpg





民俗学者・赤坂憲雄は、次のようなことを書いています。

  映画『ゴジラ』が誕生したのは、敗戦から九年あまりのちの、一九五四年の秋のことである。その、はじめてのゴジラ映画について、三島由紀夫が好意的な評価を与えていたという話を、年若い友人から聞いたことがあった。とても気になっていた。あの三島由紀夫が、『ゴジラ』などという大衆映画に共感を示すなんてことが、一体あるものだろうか。半信半疑だった。
 ところが、最近になって、映画『ゴジラ』と三島の小説『英霊の声』が思いがけず、ある位相にあっては生き別れの双子の兄弟のようによく似ていることに気付いた。
(赤坂憲雄「『英霊の声』は天皇制への猛き獣(ゴジラ)の吼声だった。」STUDIO VOICE 1991年2月号)


『ゴジラ』と三島の小説『英霊の声』がよく似ているとは、どういうことなのでしょう?

いま一度、ゴジラの進撃コースを想い出していただきたい。

 ゴジラは東京に襲来し、廃墟となるまで踏み荒らす。銀座のデパート街を襲い、国会議事堂を破壊し、皇居の周囲をあてどなく巡ったすえに、不意に背を向けて、ゴジラはふたたび南の海へ還ってゆく。

第一作の『ゴジラ』から、通算で第二十九作に当たる『シン・ゴジラ』に至るまで、
「…ゴジラ映画は、たったひとつの例外もなしに、天皇の棲まう皇居を破壊するゴジラを産みだすことができずにきた。ゴジラはどれほど不条理な怪獣にみえようとも、恨めしげに皇居を眺めることしか許されない。」

赤坂は、「『ゴジラ』は第二次大戦で南の海に死んでいった兵士たちへの鎮魂歌ではないのか」という評論家・川本三郎の説を支持しつつ、次のように指摘しています。


 川本は『ゴジラ』のなかに、南太平洋に死んでいった兵士たちと天皇との対峙の構図を見た。たぶん、それは『ゴジラ』という映画の無意識に届いているにちがいない。『ゴジラ』はその全編が、鎮魂と祈りの声に満たされている。癒やしがたい戦争の傷を負った一人の化学者が、まるで人間魚雷か神風特攻隊のように、みずからの命を贖(あがな)いにすることで、ゴジラという災厄は祓われる。『ゴジラ』は鎮魂の映画だった。


赤坂は、ゴジラの姿に「戦争末期に南の海に散っていった若き兵士たちの、ゆき場もなく彷徨する数も知れぬ霊魂の群れ」を見ます。いまも皇居に棲まう彼らを死に赴かせた神である御方だけが、かれらの魂鎮(たましず)めをすることができる。
つまり、ゴジラが東京に襲来する理由は、そこに皇居があり、昭和天皇がいるからだというわけです。

しかし、すでに天皇はいわゆる「人間宣言」をしてしまっており、もはや、皇居におわするのは、魂鎮めの霊力さえも失ってしまったひとりの「人間」であるにすぎません。

それゆえに、ゴジラの、つまり南の海に散った若き兵士たちの霊を慰め、鎮めるのは、もはや天皇ではありえないということになります。
ゴジラは、ふたたび南海に去るよりほかになかったのです。

ちなみに、「癒やしがたい戦争の傷を負った一人の化学者」とは、芹沢博士のことです。
芹沢博士は山根博士の弟子なので、もともとは生物学者だったと思うのですが、なぜかオキシジェン・デストロイヤー(水中酸素破壊剤)なる水爆に匹敵するような破壊兵器を作り出してしまっています。
彼は先の戦争で顔面に傷を負い、右目に黒い眼帯をし、右頬にはケロイドが見えます。水爆を浴びたとされるゴジラと、対をなす存在として設定されています。

芹沢は、オキシジェン・デストロイヤーをゴジラ退治に使ってしまうと、核と同じように世界中に広まることを恐れ、いっさいの開発記録を燃やした上で、みずからオキシジェン・デストロイヤーを持ってゴジラが潜む東京湾にもぐり、ゴジラごと海中に溶解する運命を選びます。


戦争の傷をかかえて隠棲の途をえらんだ化学者が、みずからの命を贖いとしてささげることで、かろうじて一九五四年の浮遊せる死者たちは鎮められた。しかし、まったく鎮魂が果たされたわけでは、むろんない。


さらに、赤坂のつぎの指摘は、現在に至るゴジラ映画を取り巻く状況をも射抜いているという点で、特に重要だと思います。


 ゴジラは何度でも、繰り返し列島に襲来するだろう。そうして、いつしかゴジラが何のために襲来するのかなど、跡形もなく忘却されて、映画の『ゴジラ』だけがいたずらに反復される時代がやって来る。
 三島由紀夫の『英霊の声』は、だからこそ書かれねばならなかった。その、昭和天皇に突きつけられた刃はしかし、玉体には届かなかっただろう。三島は結局、みずからの肉体を生け贄として供犠の庭にささげるほかなかった。


赤坂は、三島由紀夫の自決の深層に、みずからの死とともにゴジラを葬ることを決意した芹沢博士に通底する心的構造を認めています。

さて、それでは、三島由紀夫の『英霊の声』とは、どんな小説なのでしょう?





ある嵐の夜に、帰神(かむがかり)の会が開かれます。
審神者(さにわ)をつとめる木村先生、霊媒の神主である盲目の川崎青年、そこに「私」とN氏が出席しています。
この小説は「私」による、この日に起きたことの「能うかぎり忠実な記録」という形をとっています。

木村先生の吹く石笛(いわぶえ)の音とともに、川崎青年に霊が降りて来て、

われらは裏切られた者たちの霊だ。

と川崎青年の口を借りて、神語り始めます。
降りて来たのは、二・二六事件で義軍を起こしながら、反乱軍という汚名を着せられて殺された青年将校の霊でした。


神集うのはわれらの同志のみではない。時には幾千幾万、何十万のつはものの霊が相見(まみ)え、今の世の汚れをそしる戯れの歌に声を合はせる。しかしその声さへ、人々の耳にもはや届かぬことをわれらは知ってゐる。この日本をめぐる海には、なほ血が経めぐってゐる。かつて無数の若者の流した血が海の潮の核心をなしてゐる。それを見たことがあるか。月夜の海上に、われらはありありと見る。徒(あだ)に流された血がそのとき黒潮を血の色に変へ、赤い潮は唸り、喚(おら)び、猛き獣のごとくこの小さい島国のまはりを彷徨し、悲しげに吼える姿を。

赤坂は、南太平洋に散っていった数も知れぬ若者たちの霊が「幽」の世界(目に見えない霊的世界)に属するとすれば、ゴジラは神語りのいう「猛き獣」を「顕」の世界(目に見える現実の世界)に表出したものではないか、と指摘します。
こういうパースペクティブで眺めたときに、『ゴジラ』と三島の『英霊の声』は、驚くほど似ているように見えるわけです。

二・二六の青年将校の霊は、天皇への至純の恋を神語りしたあと、呪詛の言葉を残して去っていきます。

 などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

天皇はどうして人間になってしまわれたのか!

 そのあとには、第二の霊があらわれる。われらは戦の敗れんとするときに、神州最後の神風を起こさんとして、命を君国にささげたものだ、と第二の神語りはいう。神風特攻隊の英霊であった。死はいつもわれらの眼前にあり、人々はわれらを生きながらの神と呼んだ、と霊はいう。われらは神なる天皇のために、身を弾丸となして敵機に命中させた、ところが、そのわずか一年後に、陛下は「実は朕は人間であった」と仰せいだされた、われらは裏切られた……

そして、繰り返される呪詛のことば!

 などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。


荒れ狂う神霊たちは、入れ替わり立ち代わり、川崎青年の口を借りて、あるいは怒鳴り、あるいは言葉として聞き取れぬ発声をなし、あるいは歌い、川崎青年の肉体を打ちのめします。ついに川崎君は、仰向けに倒れ、動かなくなってしまいます。

 木村先生が川崎君をゆすり起こそうとされて、その手に触れて、あわてて手を離された。何事かを予感した私どもはいそぎ川崎君の体を取り囲んだ。盲目の青年は死んでいた。
 死んでいたことだけが、私どもをおどろかせたのではない。その死に顔が、川崎君の顔ではない、何者とも知れぬと云おうか、何者かのあいまいな顔に変容しているのを見て、慄然としたのである。


こうして『英霊の声』は終わります。
川崎君の死に顔にあらわれた「何者かのあいまいな顔」とは、そう、神であらせられるべきときに「人間」にましました、あの方の顔なのでした。

川崎君を殺した荒ぶる霊魂たちが、目に見える形で解き放たれたのがゴジラなのではないか、というわけです。
昭和29年版『ゴジラ』を見た当時の観客たちの無意識には、それを感じとるだけの歴史的感性があったろうと思います。





三島は、昭和天皇は二・二六事件のときと戦後の「人間宣言」において、この二回だけはもっとも神であらねばならないときに、「人間」となる過ちを犯してしまったとして、鋭く切り込んでいます
天皇は二・二六において、義軍を義軍として認めず殺したことによって、日本の軍隊──「皇軍」そのものを殺してしまった。皇国の大義が崩れてしまった。軍の魂が失われてしまった。
また戦後、朕は神ではなく人間だと言うことによって、膨大な数の神のために死んでいった者たちの霊は、神界にありながら祀られるべき社もなく、いまも安らうことなく彷徨している。国の魂が失われてしまった。

三島の「道義的歴史観」とでも呼ぶべき歴史観によって語られる、戦前〜戦後の「国史」は、西洋のキリスト教の位置に日本の皇道を対置せんとする彼の激しい恋情の発露と、神学と呼びたいような論理の切れを見せて、あらためて読んでみてもきわめてスリリングです。
しかし、きょうは『ゴジラ』を語るときなので、『英霊の声』については他日を期して、これ以上踏み込まないでおきます。


赤坂が「遅れてきた芹沢博士」だとする三島は、
昭和45年11月25日、自衛隊の市ヶ谷駐屯地のバルコニーで、下に蝟集せる自衛隊員に向かって、自衛隊を否定する憲法改正のために蹶起するよう呼びかけました。
誰もともに立つ者がいないことを見届けると、三島は総監室に引き返し、短刀でみずからの腹をかっさばき、楯の会学生長・森田必勝(25歳)に託した日本刀・関の孫六の介錯によって、首を総監室の床に落としました。

この命を手玉に取ったパフォーマンスは、三島由紀夫が愛する日本に残した最後の芸術作品だったのだと思います。





その時撒いた「檄文」が残されています。


(前略)
 われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿であるといふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ党利党略に利用されることではない。
 この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩もうとする自衛隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへ行ったのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になってどこへ行かうとするのか。
(中略)
アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであらう。
 われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかし、あと三十分。最後の三十分待たう。共に起って義のために共に死ぬのだ。
 日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶっつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまりこの挙に出たのである。
        昭和四十五年十一月二十五日  楯の会会長 三島由紀夫



青年の心のまま死んだ人なんだな、自決時は45歳だったけれど。

中学生だった私は「ミシマ、ハラキリ」の報道に衝撃を受け、これを報じた日の新聞を切り抜き、スクラップ・ブックに貼り付けて保存しました。

三島がなんで死ななければならなかったのか、当時の私にはまるでわかりませんでした。ただ、これは残しておかねばならない大事なことだ、という直観だけがありました。

私が産まれて初めておこなった「スクラップ」でした。この青い表紙のスクラップ・ブックは、いまも大事に私の本棚に並んでいます。
                                         (つづく)

<参考文献>
『STUDIO VOICE』特集=再考三島由紀夫の檄(1991年2月号、株式会社インファス)
三島由紀夫『英霊の聲』(1990年、河出文庫)




posted by ミロ at 08:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | わが映画

2016年09月23日

『ゴジラ』と『シン・ゴジラ』進撃コースの比較

前回の続きです。

昭和29年版『ゴジラ』では、ゴジラは小笠原諸島のうちの何処かにある大戸島に現れ、民家を破壊して去ります。
その後ゴジラは、突如品川の海岸線から本土に上陸し、操車場を破壊し、品川駅構内に進入、品川駅に向かって走る急行列車がゴジラの足に衝突し、転覆する名シーンとなります。
ゴジラはそのあと、八ツ山鉄橋を持ち上げ、大地に叩きつけて破壊すると、再び海へと戻っていきました。

ゴジラ対策本部が立ち上げられ、東京湾全域の海岸線に、5万ボルトの電流が流れる高さ30m,幅50mの有刺鉄条網が首都防衛線として構築されます。防衛隊本部から出動する戦車や大砲、重機部隊や、避難する住民がドキュメンタリー・タッチで描かれ、作品のリアリティを支えています。

ゴジラが再び、芝浦海岸から上陸し、鉄条網へと接近します。ゴジラが鉄条網に触れてスパークし大きな火花が飛び散るや、防衛隊の戦車や重砲、機関銃が斉射を浴びせます。

鉄条網を突破したゴジラは、田町駅前〜三田方面〜新橋〜銀座尾張町と進み、松坂屋を放射能火炎で炎上させ、和光ビルの時計塔を破壊します。映画公開後、松坂屋から「縁起でもない」と猛抗議された話は有名です。

さらにゴジラは、晴海通りを有楽町へと進み、永田町では国会議事堂を踏みにじり、平河町のテレビ塔をそこで実況中継しているアナウンサーごとなぎ倒します。報道スタッフが自分たちの死に様を実況中継しながら地面に叩きつけられていく描写は、円谷特撮の見せ場でもあります。

地図を見ると、ゴジラが進むすぐ右手の奥には、お堀を隔てて皇居がありますが、
ゴジラは皇居の周りを時計回りにぐるっと廻るような進路を取り、上野〜浅草を経て、隅田川を南下し、東京湾へと去っていきました。


昭和29年版『ゴジラ』マップ
G-MAP001z.jpg
(画像はクリックすると大きく出来ます。大きくしてご覧ください。)


以上が、昭和29年版のゴジラの進路の概要ですが、つぎは『シン・ゴジラ』の進路を見てみましょう。

『シン・ゴジラ』においてゴジラは、最初に羽田沖に現れ、巨大な水蒸気の柱が目撃されます。さらに東京湾横断道路・アクアトンネルが原因不明の浸水し、ついに浮島沖で巨大な尻尾が現れます。東京湾の各所で起こった事故が、謎の巨大生物が原因だとわかると、首相官邸地下の危機管理センターでは、対処方法が話し合われます。 

この東京湾内にあった頃のゴジラは、「第一形態」と呼ばれます。全身がはっきりと映ることはないのでその形状は謎なのですが、どうやら、オタマジャクシに似た形状をしているようです。
今回のゴジラって、両生類? ‥‥通常の生物学的分類にはおさまらないところに、ゴジラのゴジラらしさがあるのでしょう。

ゴジラは橋梁や船舶を破壊しながら、呑川(のみがわ)を遡上していきます。
大河内首相が記者会見を開き、「巨大生物の上陸の心配はない」と語っているその時に、ゴジラは田に上陸します。上陸したゴジラはさらに、品川方面へと進行していきます。

この上陸したての頃のゴジラは「第二形態」とされます。尖った胸郭と後ろ足が発達した形状が特徴です。
ゴジラは、急速に変態を繰り返しながら進化してゆき、東京の市街地を突き進んでいきます。

品川湊に達したゴジラは船付場付近で突如停止し、体を立ち上がらせると、腕が形成され、陸上生活に適応した「第三形態」へと変貌を遂げます。
二足歩行で、八ツ山橋方面へとゴジラは歩き出し、京浜運河を経て、東京湾へと帰って行きました。


『シン・ゴジラ』初回上陸マップ
シン-G初回MAP.jpg


再びゴジラが相模湾に出現したとき、ゴジラはさらに巨大化した姿であらわれ、鎌倉市に上陸します。さらに進化した「第四形態」です。ゴジラはそのまま北上し、東京方面へと向かいます。
大河内首相は、多摩川をゴジラの東京侵入を防ぐための絶対防衛線とさだめ、F2戦闘機、戦闘ヘリAH-1Sコブラ、攻撃ヘリAH-64Dアパッチ・ロングボウ、機構科と特科大隊を丸子橋緑地に布陣して、ゴジラを迎え撃つ「タバ作戦」を開始します。


『シン・ゴジラ』予告



自衛隊の猛攻を受けるも、ゴジラはついに多摩川を越え、東京都内に入ります。絶対防衛線はあっさりと破られ、大田区、世田谷区、目黒区を横断し、ゴジラは新橋駅に至ります。
米軍の爆撃機B-2がゴジラ攻撃のために大挙して接近するも、ここでゴジラはさらに体を変形させ、背中の割れ目から破壊光線を放射し、全機を撃墜してしまいます!

この破壊ビームは、銀座の和光、松坂屋をも、真横に真っ二つにしてしまいます。
初代ゴジラが破壊した和光と松坂屋です! ついに『シン・ゴジラ』は、昭和29年版『ゴジラ』と舞台が重なってきました!

ゴジラは東京駅構内へと侵入し、最終決戦である「ヤシオリ作戦」が始動します。動きを止めたゴジラを新幹線爆弾で叩き起こし、大量の無人機(ドローン)を囮(おとり)に使って、ゴジラに破壊ビームを放射させ、エネルギーを枯渇させる作戦に出ます。つぎに無人在来線爆弾でゴジラを横倒しにし、さらにビルを倒壊させてゴジラの動きを封じ込めたところへ、多数のポンプ車が続々と集まり、ゴジラの口の中へ血液凝固剤と細胞膜の活動抑制剤を流し込みます。


『シン・ゴジラ』再上陸マップ
シンG再上陸MAP101.jpg


ちなみに「ヤシオリ」とは、日本神話で、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治するときに用意させた強い酒、「ヤシオリの酒」を意味しています。ゴジラをヤマタノオロチに見立て、ゴジラに注入する血液凝固剤を「ヤシオリの酒」に見立てたわけです。

そもそも『ゴジラ』とは、洋の東西を問わず古くから伝承されて来たドラゴン退治英雄伝説の一変種とも読めるわけで、ドラゴンを退治する英雄が、『ゴジラ』では芹沢博士という悲劇の科学者であったのに対し、『シン・ゴジラ』では、矢口蘭堂・内閣官房副長官という政治家になっています。

政治家が英雄ねえ、‥‥ 現在の日本では、正直言って有り得ないと思います。
私が盛り上がることのできない理由というのは、ここなんだよね!
『シン・ゴジラ』一番のファンタジーであり、最大の「虚構」ではないですか?


東日本大震災の経験により、科学者がもう全幅の信頼が置ける存在ではなくなってしまった、ということも指摘しておくべきでしょうね。
これまでのゴジラ映画のようには、『シン・ゴジラ』では科学者は中心となって活躍しておりません。
時はやはり流れたのです。 

本土決戦となったら、東日本大震災の時の政権党だった民主党のようなザマじゃあ、日本は滅びてしまいます。
どうも日本人が考えているシヴィリアン・コントロールっていうやつは、どこかが間違っているのではないか?
いまの日本の国家体制・防衛体制が映画のような状態だとしたら、これはどんな戦争にも勝ち目はないな。
ゴジラに勝てないのは、最初から目に見えている、とも言える。
‥‥ふと、そんな不安がよぎる映画でも有りました。

それはゴジラの東京襲撃が、中国や北朝鮮による攻撃のメタファーに見えてしまったからです。
現行の憲法のもとでは、「戦争」が始まるときはいつだって、ゴジラに襲われるのと同じように、
「本土決戦」から始まらざるを得ないからです。

太平洋戦争では「本土決戦」は、戦争の最終局面において行われるものでしたが、
先制攻撃を認めない現行憲法のもとでは、戦争の始まりがすなわち本土決戦とならざるを得ません。
こんな国民の生命を無視した憲法のもとで、本当に国民の生命や財産が守れるのか?
ゴジラに蹂躙され、破壊されまくる東京を見て、暗澹とした一瞬が確かにありました。


ゴジラ進化第4形態
シンゴジラz002.jpg

(つづく)

<参考文献>
『シン・ゴジラ』映画パンフレット(2016年)
『円谷英二の映像世界』(1983年、実業の日本社)




posted by ミロ at 12:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | わが映画

『シン・ゴジラ』を観て来た!(ネタバレあり)

『シン・ゴジラ』、8月2日に観て来ました!
感想を書きかけたまま、仕事に追われ、
またお盆は来るやら、リオ・オリンピックは始まるやらで、
更新できないまま、とうとうここまで来てしまいました。

まあ、「いつもどおり」といえば、それまでですが(笑)。


シン・ゴジラz001.jpg
(画像はすべて、クリックすると大きく出来ます。)


‥‥その間に、いろいろな人がいろいろな感想を述べているのに接しましたが、
『シン・ゴジラ』の「リアルさ」がやはり一番の話題になっていますね!


わたしもまた、この映画を見に行く決心がついたのが、
庵野監督が行政機関や自衛隊に、ゴジラを迎え撃つとしたら創作した作戦が理に適っているか? どういう装備をどこに配置してどういう攻撃をするか? 中央指揮所や前線指揮所の機能や内装、やり取りをする際の専門用語や言葉使いなど、
詳細に渡る質問状を出して、その回答からストーリーを組み立てていった、ということを聞いたためでした。
「よし! シン・ゴジラはイケる!」と判断し、ようやく重い腰を上げました。

結果は‥‥期待を裏切らない出来栄えでした!
ただ、その割には盛り上がることができない自分がいたりします。


いきなり昭和29年(1954年)版『ゴジラ』(第1作)の伊福部昭によるメイン・テーマが流れ、昭和29年版『ゴジラ』と同じように始まりました。
TVの予告編では、いっさい伊福部音楽は使われていなかったので、
「むふふ。そう来たか!」と、冒頭からこれから始まる映画への期待感がたかまりました。

『シン・ゴジラ』のストーリーって、「リ・メイク」と呼ぶのがふさわしいような、
昭和29年版『ゴジラ』のストーリー構成を忠実になぞっているのを感じました。

『シン・ゴジラ』は、第1作『ゴジラ』を、状況設定はそのままに現代日本に置き換えたらどうなるか? という実験だったのではないかと思いました。 

物語は「初期化」され、第28作までのゴジラシリーズの物語はいっさいなかったことになっており、昭和29年版『ゴジラ』と同じ位置からスタートしています。
ただ、そのあいだには、62年という時間の位相が存在しているわけですが。


『シン・ゴジラ』と『ゴジラ』(昭和29年版)の比較



ゴジラによって破壊された街の情景は、『ゴジラ』では空襲による焼け跡のイメージなのに対し、
『シン・ゴジラ』では東日本大震災時の津波に襲われた後のイメージになっていますね。

当然時代が違いますから、迎撃する自衛隊の兵器も、現代の最新装備になっています。
10式戦車、99式自走155ミリ榴弾砲、F2戦闘機、戦闘ヘリAH-1S、AH-64Dなど、日の丸空母「いずも」もちらっと顔を見せています。
そこらへんも『シン・ゴジラ』の見どころの一つです!

いっぽう昭和29年版『ゴジラ』ですが、ゴジラを迎撃するのは、
M24チャーフィー戦車やジェット戦闘機F86Fセイバーですが、
それらはみんな米軍からの供与品でした。

『ゴジラ』の封切り日は11月3日でしたが、自衛隊はその年の7月1日に発足したばかりでした。
映画では「防衛隊」という名で登場しますが、残念ながら戦闘能力が見劣りするのは否定できません。
それでも自衛隊(防衛隊)は勇敢に戦い、都民をゴジラから必死に守っています!


日本戦車変遷史



F86Fセイバー
今日もわれ大空にあり [東宝DVDシネマファンクラブ]
『今日もわれ大空にあり』 昭和38年(1964年) 東宝
航空自衛隊パイロットたちが、幾多の試練を経て成長していく姿を描いた航空映画。


昭和29年版『ゴジラ』に登場する発足ゼロ年の自衛隊が相手をするゴジラは、体長50mでしたが、
『シン・ゴジラ』ではシリーズ最大の118.5m、約60年間で倍以上の大きさになりました。
東京の建築物の高層化が進み、それに負けじとゴジラも巨大化しているようです。
                                          (つづく)



posted by ミロ at 01:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | わが映画

2011年05月31日

君のナイフは錆びていないか?

ども。ミロです。

裕次郎の魅力とは?

長い脚をカッと開いて立ってるだけで絵になる俳優なんて、
そうそういないよね。

決して従来型の「2枚目」のルックスではない。
だけど、映画の中で歌ってアクションできる新しいヒーローがそこにいた。


明日は明日の風が吹く




いま見ても「カッコいい」とはこういうことさ! と思います。

昔勤めていた会社の飲み会で、
裕次郎の『赤いハンカチ』をカラオケで歌ったところ、
こういう歌もあるぜといって先輩が歌って教えてくれた歌があります。

それ以来、裕次郎の『錆びたナイフ』がすっかり好きになりました。


錆びたナイフ


錆びたナイフ.JPG



一番の歌詞のそばに、寺山修司は、
「まだ早い、殺意が思い出にかわってしまうのはまだ早い」と書きこんでいたという。
そして、60年から70年にかけて、ナイフはゆっくりと錆びて行った。…(寺山修司『黄金時代』より)

寺山修司って、「同時代」を街中のサブ・カルチャーや風俗にまで探した人なんだよね。
歌謡曲の作詞家も、「言葉ではなく歌い手の肉体を媒介として表現する詩人」ととらえていました。

この萩原四郎の作詞は、
寺山の時空を超えたライバルであった石川啄木の短歌がもとになっています。


いたく錆びしピストル出でぬ
砂山の
砂を指もて掘りてありしに   (石川啄木『一握の砂』)



ピストルでは音が乗りにくいため、
ナイフに変えて作詞したということです。

石原裕次郎の歌をもう1曲紹介しようとして、
どれにしようかいま迷っています。

『赤いハンカチ』『風速四十米』がいいんだけど、
残念ながら『赤いハンカチ』はいい動画がない!

『風速四十米』と書いて、「風速40メートル」と読みます。


『風速四十米』




posted by ミロ at 18:25 | わが映画

2009年07月28日

山田辰夫逝く〜狂い咲きサンダーロード


山田辰夫を初めて見たのは、…はじめて知った瞬間でもありましたが、
石井聰亙監督『狂い咲きサンダーロード』でした。


サンダーロード.JPG



「なんだ、こいつは!」というのが、最初の感想。
よくいえば、めっちゃくちゃ個性的!
変なヤツがでてきたなあ、という感じでしたが、
感染力がある俳優だと思いました。


忘れた頃に、テレビドラマにチョイ役で出ている彼を見ました。
「ついに出てきたか!」

『狂い咲きサンダーロード』にかなり夢中だったもので、
その後の彼は追跡していませんでした。
山田辰夫という俳優は、
私の中で『狂い咲きサンダーロード』で完結していたからです。


仙台東映がまだあったころ、
深夜映画イベントとして、
「都会の闇を駆ける青春」というテーマで、
『ウォリアーズ』
『ワンダラーズ』
『グリニッジヴィレッジの青春』とともに、
『狂い咲きサンダーロード』が上映されました。

みんな、いい映画ばかりだったな。
『ウォリアーズ』は今でも時々、
ビデオで見直しています。


監督の石井聰亙が舞台挨拶にやって来て、
質疑応答などの時間も有りました。

石井聰亙は自主映画からメジャーの世界へ出てきたばかりで、
製作費がない中で作った映画だったけれど、
スタッフや出演者の「熱気」だけは当時の映画の中で随一でした。
その「熱」に感染したんだと思います。


いちおう主題歌は、
泉谷しげるの『電光石火に銀の靴』なんですが、
この映画のために作曲したわけではなく、(お金がなくて依頼できなかった)
既存の曲の中から使わせてもらったものでした。

イズミヤのほかにも、パンタ&ハルなど、
伝説的な日本のロックバンドのナンバーが随所に使われ、
日本のロック・ムービーになっています。


『狂い咲きサンダーロード』1980年


山田辰夫、『おくりびと』にも出てたんですね。
すげえ、演技派になっていました!

身体の奥底から湧いて来るような演技は、
『狂い咲きサンダーロード』のころから彼のものでした。
いっそう磨きがかかって、いい役者になったのに、
残念なことでした。

合掌。






posted by ミロ at 10:05 | Comment(0) | わが映画
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園芸愛好家で、庭作り・寄せ植え・ハンギングバスケット作りに精を出しています。茸狩り、山菜採り、鉱物採集が趣味で、その成果を追々紹介していきたいと思ってます。あなたのガーデニング・ライフの参考になれればいいな。
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