2018年05月10日
休職日記:【うつ病】父への手紙 〜下書き〜 ※重い内容なので注意
こんにちは。
メン子です。
離別している父と会おうと思ったのは2月のこと。
でもその時は心身絶不調で、結局ドタキャン。
手紙なら・・・と思って住所を聞きましたが、
まずは自分の心身の回復をと思い後回しに、
というか考えないようにしていました。
おかげで4月は比較的回復傾向になって、現在はリワークが始まったり一人暮らしを再開したりで
やや落ちていますが、手術後でお散歩もできないので、
今日メールを書いてみようと思います。
以下手紙下書き
長くて暗いので、見たくない方はここで閉じてください。
===============================================
お父さんへ。
元気ですか?
私は、大量の薬を飲んでいますが、なんとか生活できるレベルに回復してきました。
(会社は休職中ですが)
2月に連絡したときは、まだ心身が安定しておらず、
会うことや手紙を書けませんでした。
多分そのころに会ったり手紙を書いていたら、
辛辣なことばかりで傷をつけていたと思います。
やっと、文章を書く決意と気持ちの余裕ができました。
本当は、子供がどんな気持ちで人生を歩んできて、辛い思いをしたか、
そして何に悩んでいて返事がほしいのかを形に残る手紙にしたかったのですが、
まだ、長文を直筆で書けるまでにはなっていません。
もう私も●●歳になり、お母さんも●●歳になりました。
最後にあったのは成人になったぐらいだと思うので、
お父さんも体の不調などあるのではないでしょうか?
私の中でのお父さんの記憶は、小学校高学年くらいで止まっています。
たしか中学生の時は、同居していなかったはずです。
小学校の時も低学年までは家に居た記憶がありますが、
高学年になると家に帰ってくる頻度がどんどん減っていったように記憶しています。
それはどんな事情があったのですか?
私が忘れているだけかもしれないですが、
どうして別居を始めて、
なんで帰ってこなくなったのかが、今でもわからず、
心のしこりになっています。
母に聞いたところ私が中学生になって勉強する一人部屋が欲しいといったからだと言われています。
それは本当でしょうか?
何度聞いてもその答えなので、
わたしのせいで、家族がバラバラになってしまったのだとずっと自分を責めていましたし
悔やんでいました。
お父さんがその後帰ってくることがないって理解できていたら、
一人部屋は諦めたと思います。
中学校に入ってから・・・というかお父さんが居なくなってから
母のヒステリーは更年期なのかお金がないストレスなのか知りませんが悪化しました。
私が思春期に入り、反抗的だったということもあるかもしれませんが。
私にとって、お父さんの存在は、ヒステリックでクレイジーは母親の仲裁に入ってくれて、
いつも優しく味方をしてくれる大事な存在でした。
だから、いなくなったことは、私にとって大きなダメージでした。
見捨てられたという気持ちでいっぱいでした。
連絡手段はあったのに、
どうして連絡をくれたり会いに来てくれたりしなかったのですか?
私や母に愛情はあったのでしょうか?
貧乏な家庭で育ったことは今でもコンプレックスですし、
そのコンプレックス故、今まで頑張りすぎてしまいました。
だけど、貧乏なだけなら、ここまで私は追い詰められていなかったと思います。
お金がなくても、お父さんは通信手段をもっていましたよね?
交通費が出せなくても、メール1通くらい遅れたはずです。
私の誕生日なんて覚えてないでしょう?
時代が違うんだと母もよく言い訳しますが、
この時代に子供を産んだということは「この時代の一般家庭の常識」に合わせる責任が
親にはあるのではないかと考えています。
私は一人っ子で、兄弟もいないし、
親族は遠方で他人のようなもので、
母方の親族からは、「大変なお母さんを支えてあげて」とプレッシャーをかけられていました。
他の大人たちもみんな私の心配より、お母さんのことを心配し、
支えてあげなくちゃと言われていました。
本当につらかったです。
お母さんが大変で辛いことなんて重々承知で私なりの努力をしていたのに。
そのたび、私の味方は誰もいないのかとつらくなり、
そのころから情緒が不安定で、男に走るようになっていました。
周りの貧乏な子たちは、どんどん脱落して不良になったりしましたが、
私は貧困の連鎖を起こしたくないと子供のことからずっと思っていました。
だから、お金がない中でも、進学をあきらめず
高校も大学もストレートで奨学金で行きました。
大学の奨学金には今も苦しめられていますが。。。
高校では、部活をしながらバイトもして、塾にもいかず受験しました。
(今の時代、都会の公立高校は受験対策をしないので、塾に行くのは当たり前です)
合格して卒業して就職しても、心が満たされることはずっとなく、
虚無感や絶望感、孤独感が消えませんでした。
これだけ苦労しても、その苦労をわかってくれる人がいなかったから。
母は、資金繰りや日々のストレスに追われて、私の話を聞くどころではなかったです。
むしろ母の会社の愚痴を永遠と繰り返し聞かされ、あの狭いアパートで逃げ場もなく
こんな時にどうして父がいないのかと絶望しました。
母も多分ノイローゼになっていたか、私の中では何かの精神病だと思って居ました。
そんな中、お父さんが趣味?の踊りをしている等の話を聞き、
絶句しました。お父さんの人生ですから楽しく過ごすのは勝手ですが、
こちらは火の車で母は、何年も自分の物を買っていない状況、
私は修学旅行のお金の見積もりも申し訳なくてお母さんに渡すのが遅れる状態だったのに。
大学卒業後は一部上場の●●会社に就職し、
花方部署で成果を上げ、それなりの評価ももらっていました。
だけど、ずっと貧乏だったからお金への執着が強すぎて
もっと頑張らなくちゃ、誰よりも上に行きたいと思い
人並以上に頑張ってしまい東日本大震災の後、うつ病を発症し(元々そのけはあったけど)
現在に至るまで、ずっと心療内科で治療を受けています。
その間も、
離婚や父方の祖父母の死など、私には一切連絡が来ませんでした。
私はお母さんとお父さんの子供であり、離婚を知る権利はあったのではないでしょうか?
お父さんにとって、私は家族ではないのですか?
離婚や出来婚だったことは、母も黙っていて、
パスポートを取る際の戸籍謄本で知り、母と喧嘩になりました。
なぜあのタイミングで離婚したのですか?
そもそもずっと別居していたのに、なぜ早く離婚しなかったのですか?
私は母に離婚をずっと進めていたのに頑なに離婚しなかったのに。
母子家庭になれば、補助金など支援も受けられ、少しは楽だったはず。
また、
祖父母の死も孫である私に知らせるべきではないのですか?
数少ない親族で、なくなる前に会いたかったし、せめて葬儀には出席したかったです。
変えることのできない過去の出来事を蒸し返したり、
うつ病の原因を両親や育った環境のせいにしても
根本的な解決には意味のないことなのはわかっています。
だけどこれから先も、いろいろな場面で自分の子供のころのことを思い出すと思います。
私の中での家族像は、お父さんとお母さんです。
悲惨な家族像です。
借金のことでお母さんとお父さんが電話で話していて
お父さんがお母さんに「借金取りのようだ」と言ってそのあとお母さんが泣いていた光景が
今でも目に焼き付いてはなれません。
そんな家族を見続けて、自分に普通の家庭が築けるとは思えず、
どうしても彼氏ができても結婚に踏み込めません。
だから、真実を知りたいなと思います。
私はうつ病ということもあって、
ネガティブな出来事しか思い出せないですが、
もしかしたら、家族の楽しい出来事もあったのかなと
わずかな希望を抱いています。
お父さんが覚えている家族のあったかい話がもしあるのであれば、それも聞かせてほしいです。
あと、せめてメール内の「?」で聞いている部分については、答えてほしいです。
追伸
現在は、母の精神状態も安定し、私も大人になったので仲良くやっています。
母とは今回のうつ病での休職を機にとことん、今までの想いをぶつけ、
話し合い、とりあえずは納得した形です。
金銭的支援は私が母へしていますが、
母には私が出来ない生活面の面倒を見てもらっていて感謝しています。
ずっとお父さんを憎んできましたが、
休職して自分を見つめなおす中で、
本当はずっとお父さんの愛情を受けたかったんだと気が付きました。
色々キツイことも書きましたが、元気で残りの人生を楽しんでいてくれればよいなと
今は思っています。
返事待っています。
メン子です。
離別している父と会おうと思ったのは2月のこと。
でもその時は心身絶不調で、結局ドタキャン。
手紙なら・・・と思って住所を聞きましたが、
まずは自分の心身の回復をと思い後回しに、
というか考えないようにしていました。
おかげで4月は比較的回復傾向になって、現在はリワークが始まったり一人暮らしを再開したりで
やや落ちていますが、手術後でお散歩もできないので、
今日メールを書いてみようと思います。
以下手紙下書き
長くて暗いので、見たくない方はここで閉じてください。
===============================================
お父さんへ。
元気ですか?
私は、大量の薬を飲んでいますが、なんとか生活できるレベルに回復してきました。
(会社は休職中ですが)
2月に連絡したときは、まだ心身が安定しておらず、
会うことや手紙を書けませんでした。
多分そのころに会ったり手紙を書いていたら、
辛辣なことばかりで傷をつけていたと思います。
やっと、文章を書く決意と気持ちの余裕ができました。
本当は、子供がどんな気持ちで人生を歩んできて、辛い思いをしたか、
そして何に悩んでいて返事がほしいのかを形に残る手紙にしたかったのですが、
まだ、長文を直筆で書けるまでにはなっていません。
もう私も●●歳になり、お母さんも●●歳になりました。
最後にあったのは成人になったぐらいだと思うので、
お父さんも体の不調などあるのではないでしょうか?
私の中でのお父さんの記憶は、小学校高学年くらいで止まっています。
たしか中学生の時は、同居していなかったはずです。
小学校の時も低学年までは家に居た記憶がありますが、
高学年になると家に帰ってくる頻度がどんどん減っていったように記憶しています。
それはどんな事情があったのですか?
私が忘れているだけかもしれないですが、
どうして別居を始めて、
なんで帰ってこなくなったのかが、今でもわからず、
心のしこりになっています。
母に聞いたところ私が中学生になって勉強する一人部屋が欲しいといったからだと言われています。
それは本当でしょうか?
何度聞いてもその答えなので、
わたしのせいで、家族がバラバラになってしまったのだとずっと自分を責めていましたし
悔やんでいました。
お父さんがその後帰ってくることがないって理解できていたら、
一人部屋は諦めたと思います。
中学校に入ってから・・・というかお父さんが居なくなってから
母のヒステリーは更年期なのかお金がないストレスなのか知りませんが悪化しました。
私が思春期に入り、反抗的だったということもあるかもしれませんが。
私にとって、お父さんの存在は、ヒステリックでクレイジーは母親の仲裁に入ってくれて、
いつも優しく味方をしてくれる大事な存在でした。
だから、いなくなったことは、私にとって大きなダメージでした。
見捨てられたという気持ちでいっぱいでした。
連絡手段はあったのに、
どうして連絡をくれたり会いに来てくれたりしなかったのですか?
私や母に愛情はあったのでしょうか?
貧乏な家庭で育ったことは今でもコンプレックスですし、
そのコンプレックス故、今まで頑張りすぎてしまいました。
だけど、貧乏なだけなら、ここまで私は追い詰められていなかったと思います。
お金がなくても、お父さんは通信手段をもっていましたよね?
交通費が出せなくても、メール1通くらい遅れたはずです。
私の誕生日なんて覚えてないでしょう?
時代が違うんだと母もよく言い訳しますが、
この時代に子供を産んだということは「この時代の一般家庭の常識」に合わせる責任が
親にはあるのではないかと考えています。
私は一人っ子で、兄弟もいないし、
親族は遠方で他人のようなもので、
母方の親族からは、「大変なお母さんを支えてあげて」とプレッシャーをかけられていました。
他の大人たちもみんな私の心配より、お母さんのことを心配し、
支えてあげなくちゃと言われていました。
本当につらかったです。
お母さんが大変で辛いことなんて重々承知で私なりの努力をしていたのに。
そのたび、私の味方は誰もいないのかとつらくなり、
そのころから情緒が不安定で、男に走るようになっていました。
周りの貧乏な子たちは、どんどん脱落して不良になったりしましたが、
私は貧困の連鎖を起こしたくないと子供のことからずっと思っていました。
だから、お金がない中でも、進学をあきらめず
高校も大学もストレートで奨学金で行きました。
大学の奨学金には今も苦しめられていますが。。。
高校では、部活をしながらバイトもして、塾にもいかず受験しました。
(今の時代、都会の公立高校は受験対策をしないので、塾に行くのは当たり前です)
合格して卒業して就職しても、心が満たされることはずっとなく、
虚無感や絶望感、孤独感が消えませんでした。
これだけ苦労しても、その苦労をわかってくれる人がいなかったから。
母は、資金繰りや日々のストレスに追われて、私の話を聞くどころではなかったです。
むしろ母の会社の愚痴を永遠と繰り返し聞かされ、あの狭いアパートで逃げ場もなく
こんな時にどうして父がいないのかと絶望しました。
母も多分ノイローゼになっていたか、私の中では何かの精神病だと思って居ました。
そんな中、お父さんが趣味?の踊りをしている等の話を聞き、
絶句しました。お父さんの人生ですから楽しく過ごすのは勝手ですが、
こちらは火の車で母は、何年も自分の物を買っていない状況、
私は修学旅行のお金の見積もりも申し訳なくてお母さんに渡すのが遅れる状態だったのに。
大学卒業後は一部上場の●●会社に就職し、
花方部署で成果を上げ、それなりの評価ももらっていました。
だけど、ずっと貧乏だったからお金への執着が強すぎて
もっと頑張らなくちゃ、誰よりも上に行きたいと思い
人並以上に頑張ってしまい東日本大震災の後、うつ病を発症し(元々そのけはあったけど)
現在に至るまで、ずっと心療内科で治療を受けています。
その間も、
離婚や父方の祖父母の死など、私には一切連絡が来ませんでした。
私はお母さんとお父さんの子供であり、離婚を知る権利はあったのではないでしょうか?
お父さんにとって、私は家族ではないのですか?
離婚や出来婚だったことは、母も黙っていて、
パスポートを取る際の戸籍謄本で知り、母と喧嘩になりました。
なぜあのタイミングで離婚したのですか?
そもそもずっと別居していたのに、なぜ早く離婚しなかったのですか?
私は母に離婚をずっと進めていたのに頑なに離婚しなかったのに。
母子家庭になれば、補助金など支援も受けられ、少しは楽だったはず。
また、
祖父母の死も孫である私に知らせるべきではないのですか?
数少ない親族で、なくなる前に会いたかったし、せめて葬儀には出席したかったです。
変えることのできない過去の出来事を蒸し返したり、
うつ病の原因を両親や育った環境のせいにしても
根本的な解決には意味のないことなのはわかっています。
だけどこれから先も、いろいろな場面で自分の子供のころのことを思い出すと思います。
私の中での家族像は、お父さんとお母さんです。
悲惨な家族像です。
借金のことでお母さんとお父さんが電話で話していて
お父さんがお母さんに「借金取りのようだ」と言ってそのあとお母さんが泣いていた光景が
今でも目に焼き付いてはなれません。
そんな家族を見続けて、自分に普通の家庭が築けるとは思えず、
どうしても彼氏ができても結婚に踏み込めません。
だから、真実を知りたいなと思います。
私はうつ病ということもあって、
ネガティブな出来事しか思い出せないですが、
もしかしたら、家族の楽しい出来事もあったのかなと
わずかな希望を抱いています。
お父さんが覚えている家族のあったかい話がもしあるのであれば、それも聞かせてほしいです。
あと、せめてメール内の「?」で聞いている部分については、答えてほしいです。
追伸
現在は、母の精神状態も安定し、私も大人になったので仲良くやっています。
母とは今回のうつ病での休職を機にとことん、今までの想いをぶつけ、
話し合い、とりあえずは納得した形です。
金銭的支援は私が母へしていますが、
母には私が出来ない生活面の面倒を見てもらっていて感謝しています。
ずっとお父さんを憎んできましたが、
休職して自分を見つめなおす中で、
本当はずっとお父さんの愛情を受けたかったんだと気が付きました。
色々キツイことも書きましたが、元気で残りの人生を楽しんでいてくれればよいなと
今は思っています。
返事待っています。
ブログランキングに参加し始めました♪
読んでいただいたら「ポチ」っと押してくれると嬉しいです(^_-)-☆
読者登録も大歓迎です♡
読んでいただいたら「ポチ」っと押してくれると嬉しいです(^_-)-☆
読者登録も大歓迎です♡
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/7640007
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック