2010年01月22日
介子推
介子推(カイシスイ)という男をご存知でしょうか?
本当の名前は介推(カイスイ)と言いますが、子という文字は中国においては尊敬を表す敬称であったり師匠を意味する文字になります。
(孫子/ソンシ や孔子/コウシ の子も同じ意味ですね。ちなみに孫子は孫武/ソンブ、孔子は孔丘/コウキュウ と言うのが本当の名前です。)
この人、史記や十八史略にも載ってはいますがあまり記載は多くありません。
その為、私の介子推の知識は宮城谷昌光氏が書かれた小説「重耳」及び、「介子推」による所が大なのですが…。
中国の春秋時代に2番目の覇者として君臨した重耳(チョウジ)に仕え、お家騒動により19年間の放浪を余儀なくされた重耳の為に、刺客の刃から守り続け、その飢えをしのぐ為に食糧を調達したり、全身全霊で主君に仕えた男です。
ただ、そういう活躍は陰でなされたもので、重耳に介推の名が届く事はありませんでした。
ようやく晋に帰れる時になって、晋からの内応者が重耳を迎えに来ます。
重耳の側近達は19年間辛苦を共にしてきたのに対し、ほんの数カ月働いただけの内応者が高い位につく事に不快感を持っていた為、重耳の右腕である狐偃/コエン(咎犯/キュウハン) がひと演技して「重耳の元を去りたい」と申し出ます。
重耳はそんな狐偃(咎犯) を泣いて止め、19年間の功績を改めて感じるのですが…。
そのやりとりを見ていた介推は「重耳がまだ公についた訳でもないのに早くも狐偃(咎犯) が賞をねだっている」と言い、「この19年間の放浪を助けたのは多くの人の力であったのに全て自分の功績にすり替えてしまった」と不快感をあらわにします。
その後、晋公の位についた重耳から論功行賞があり、側近達はみんな高い役職についたにも関わらず、介推は書類の整理係にとどまりました。
また、晋の国で前政権の重臣が反乱を起こした際、重耳を守って逃げたのが放浪時代の重耳をしつこく狙った刺客と知り愕然とします。
まあ、彼は晋の国に仕えているので、前政権では重耳の命を狙うというのが仕事だっただけで、今の政権では重耳の命を守るのが仕事と、ある意味プロだった訳ですが介推には納得できない所でした。
そんな状況や、狐偃(咎犯) の配下が特別に出世する現状をみて介推は官を捨てて野に下り、故郷の緜上(メンジョウ)に帰ります。
その際「龍は天に昇らんと欲し、五蛇は輔けをなす。龍は雲に昇り四蛇は各々のきに入るも一蛇は恨み、ついにおる所を見ず」と書いた札を軒先に掲げました。
この札の事を知った重耳が色々と調べた結果、介推の功績が絶大である事を知り、大々的に介推を探したのですが、介推は現れる事がありませんでした。
重耳は介推の隠遁が自分の過失であると公言して、緜上を「介推の領地である」と布れました。
人々は緜上の山を介子推の山という事で「介山」と呼ぶようになったそうです。
この人の話を最初に読んだ際、介子推の言う事や取った行動は理解できるし、尊敬もできるけど「ややこしい男やな」と思いました。
(もちろん、そのややこしい男というのは、介子推を惜しむ気持ちから出てるんですよ。)
また、「清流魚住まず」という言葉がありますが、この言葉を介子推に送ってやりたいとも思いました。
しかしながら最近、あるきっかけからまた久しぶりに宮城谷氏の書かれた「介子推」を読み返す事がありました。
今の私には介子推の考え方、心の重心という所が嫌という程わかり、ちょっと泣きそうになりました。
(もちろん、ややこしい男なんて思わなくなっていました。)
最初にこの本を読んだのは恐らく10年くらい前ですが、年をとるといろんな経験が付加されるからか、こうまで感じる事が違うのかと驚いています。
どこか、今の自分に通じる所があるような…。
そんな気がしてます。
本当の名前は介推(カイスイ)と言いますが、子という文字は中国においては尊敬を表す敬称であったり師匠を意味する文字になります。
(孫子/ソンシ や孔子/コウシ の子も同じ意味ですね。ちなみに孫子は孫武/ソンブ、孔子は孔丘/コウキュウ と言うのが本当の名前です。)
この人、史記や十八史略にも載ってはいますがあまり記載は多くありません。
その為、私の介子推の知識は宮城谷昌光氏が書かれた小説「重耳」及び、「介子推」による所が大なのですが…。
中国の春秋時代に2番目の覇者として君臨した重耳(チョウジ)に仕え、お家騒動により19年間の放浪を余儀なくされた重耳の為に、刺客の刃から守り続け、その飢えをしのぐ為に食糧を調達したり、全身全霊で主君に仕えた男です。
ただ、そういう活躍は陰でなされたもので、重耳に介推の名が届く事はありませんでした。
ようやく晋に帰れる時になって、晋からの内応者が重耳を迎えに来ます。
重耳の側近達は19年間辛苦を共にしてきたのに対し、ほんの数カ月働いただけの内応者が高い位につく事に不快感を持っていた為、重耳の右腕である狐偃/コエン(咎犯/キュウハン) がひと演技して「重耳の元を去りたい」と申し出ます。
重耳はそんな狐偃(咎犯) を泣いて止め、19年間の功績を改めて感じるのですが…。
そのやりとりを見ていた介推は「重耳がまだ公についた訳でもないのに早くも狐偃(咎犯) が賞をねだっている」と言い、「この19年間の放浪を助けたのは多くの人の力であったのに全て自分の功績にすり替えてしまった」と不快感をあらわにします。
その後、晋公の位についた重耳から論功行賞があり、側近達はみんな高い役職についたにも関わらず、介推は書類の整理係にとどまりました。
また、晋の国で前政権の重臣が反乱を起こした際、重耳を守って逃げたのが放浪時代の重耳をしつこく狙った刺客と知り愕然とします。
まあ、彼は晋の国に仕えているので、前政権では重耳の命を狙うというのが仕事だっただけで、今の政権では重耳の命を守るのが仕事と、ある意味プロだった訳ですが介推には納得できない所でした。
そんな状況や、狐偃(咎犯) の配下が特別に出世する現状をみて介推は官を捨てて野に下り、故郷の緜上(メンジョウ)に帰ります。
その際「龍は天に昇らんと欲し、五蛇は輔けをなす。龍は雲に昇り四蛇は各々のきに入るも一蛇は恨み、ついにおる所を見ず」と書いた札を軒先に掲げました。
この札の事を知った重耳が色々と調べた結果、介推の功績が絶大である事を知り、大々的に介推を探したのですが、介推は現れる事がありませんでした。
重耳は介推の隠遁が自分の過失であると公言して、緜上を「介推の領地である」と布れました。
人々は緜上の山を介子推の山という事で「介山」と呼ぶようになったそうです。
この人の話を最初に読んだ際、介子推の言う事や取った行動は理解できるし、尊敬もできるけど「ややこしい男やな」と思いました。
(もちろん、そのややこしい男というのは、介子推を惜しむ気持ちから出てるんですよ。)
また、「清流魚住まず」という言葉がありますが、この言葉を介子推に送ってやりたいとも思いました。
しかしながら最近、あるきっかけからまた久しぶりに宮城谷氏の書かれた「介子推」を読み返す事がありました。
今の私には介子推の考え方、心の重心という所が嫌という程わかり、ちょっと泣きそうになりました。
(もちろん、ややこしい男なんて思わなくなっていました。)
最初にこの本を読んだのは恐らく10年くらい前ですが、年をとるといろんな経験が付加されるからか、こうまで感じる事が違うのかと驚いています。
どこか、今の自分に通じる所があるような…。
そんな気がしてます。