くり子です。
寮時代のお話をもう少し。
くり子が2回生の後期、くり子は初めての親様になりました。
同室者は1回生2人。3人部屋です。
そして年明け。
冬休みが終わり、お部屋に皆が戻ってきたものの、お子様2人は成人式で里帰り。
くり子も成人式だったのだけど、帰省しませんでした。
交通費や振袖代の節約です。
そしてお部屋に一人だったその晩、阪神大震災。
ひどく揺れて、なかなか揺れが収まりません。収まったと思えばまた揺れる。
壁にくっついている2段ベッドは揺れで部屋の中ほどまで移動し、天井の蛍光灯はぶら下がった状態になり
落ちて来て割れたようです。
マグカップやお皿などが、ガシャンガシャン落ちて割れる音、部屋がギシギシ軋む音。恐怖が膨れ上がります。
揺れが収まった時に逃げることにします。
とりあえず、何も見えないので、枕元のメガネを探し、無事見つけたので、スリッパを履いて(これもすぐ見つかった)、クローゼットからコートを取り出し、歪んだドアをこじ開けて廊下に出ると、皆非常階段から出るところでした。
ここで、コートを取り出したときのハンガーを手に持ったままだという事に気が付きましたが、暗くて足元が見えないから、誰かが躓いてもいけないと思い、ハンガーは持ったまま避難。
班長さんが、大学のグラウンドに集合するよう声掛けをしていました。
そのままグラウンドに集合して点呼。
数分程度でその時寮にいた155人全員の無事が確認できました。
その後、体育館に避難しましたが、とにかく広くて寒かったので、同窓会館に入れてもらいました。
Tシャツと短パンで寝ていた子もいて、そのまま逃げてきており、寒さに震えていました。
くり子たちの寮は鉄筋コンクリート造りだったので、それでもなんとか無事でしたが、築60年とも言われていた木造の北寮は大打撃。
壁などは15度くらいは内側に傾いているのではないかと思う位。
中に入るのは危険だから・・・という理由で、重要な荷物だけを1度取りに入れたくらいだったと思います。
くり子も友人を手伝って、一度北寮に入りましたが、壁が迫ってきていてとても怖かったです。
因みに、北寮の子などは、火事も起きたんじゃないかと思っていたらしい。
後から考えると土壁が崩れていたのでしょう、土埃がまるで白煙のようだったと。
この後、寮生は同窓会館に1泊して、翌朝、チームに分かれて(姫路以西チーム・大阪以東チーム・京都北陸チーム・・・など)帰宅の途に就きました。
くり子たち姫路以西チームは、電車の動いている駅まで歩き(最寄り駅は閉鎖)、そこから大阪まで出て、山陰線に乗り換え、播但線で姫路に南下、そこから新幹線で実家まで。
朝8時半に出発して、自宅に帰りついたのは夜9時。
半日かかりました。普段なら帰省に2時間もかからないのに・・・。
山陰線は物凄い人で、足が床につかず、変な姿勢で固定されてしまったのでとてもしんどかったのを覚えています。
その後、授業や試験はレポート提出での代替措置がおこなわれ、寮に帰ったのは新学期になってからでした。
因みに、寮生は、あちこちひび割れたり傷ついたりしながらもなんとか無事だった新寮と南寮に詰め込まれました。
卒業生が居たり、退寮者が居たりで、何とかなったんだと思います。
地震後、片づけに入った自室のしっちゃかめっちゃかの状態を目の当たりにして、とてつもない無力感を味わいました。
割れ物を片付け、水浸しの床から教科書等を拾い上げ、倒れた本棚を起こして収納し・・・。
後日、地震後二度と会うことの無かった同室のお子様たちが「お片付けをしていただき、ありがとうございました。」と置手紙を残してくれていましたが、満足に片づけも出来ませんでした。
色々な地域で頻発する地震や豪雨災害などのニュースを聞くにつけ、あの時の無力感がよみがえって何とかしたいという焦燥感が沸き上がります。
くり子の場合、借り物の一時的な部屋で、少しばかりの荷物だったのにも関わらず、あの虚無感。
自宅が被災した方々の心労はいかほどかと心が痛みます。
さて、長らくお付き合いいただきました寮のお話はこのくらいにします。
実は・・・その後の記憶があまり無いのです。
ブログを書いていて思い出したことなどもありましたが、地震後の記憶がすっぽりと抜け落ちています。
また思い出すことがあれば書くかも知れませんケド
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