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沖縄古来の「手(ティ)」 〜首里手〜

以前の投稿記事の中で、「首里手」「那覇手」「泊手」という言葉を紹介させていただきました。

なぜ「首里空手」と呼ばず「首里手」なのでしょうか?

現在の「四大流派」の区分とこれらの「手」の区分は無関係なのでしょうか?

まず、名称からお察しいただけるかと思いますが、「首里」も「那覇」も「泊」も地名です。
(右の写真は首里城跡の守礼門

そしてそれぞれの地で特色ある拳法が発達し、研究も盛んに行われました。

この、中国拳法を取り入れながら沖縄で発達した拳法のことを「手(ティ)」と呼び、中国伝来の拳法を「唐手(トゥディ)」と呼んで区別していたそうです。

そしてそれぞれの地名を冠して「首里手」「那覇手」「泊手」と呼ぶようになったということです。

では、これらはどういう特徴を持っているのでしょうか?

3つの「手」のうち、最も古いのは首里手で、沖縄本来の「手」が中国拳法を取り込んで独自に発達したと言われ、首里士族の間で極秘裡に伝えられたそうです。

不世出の拳聖・松村宗棍(まつむらそうこん)先生とその後継者・糸洲安恒(いとすあんこう)先生によって首里手は大成されました。

(左の写真 左:松村先生 右:糸洲先生)






そして松村先生が師事されたのが、佐久川寛賀先生(左の写真)で、中国から唐手(トゥディ)を学んで首里士族に教示したため「唐手(トゥディ)佐久川」という異名を持っておられます。

さらに、佐久川先生が学ばれたのは、北京の北派拳法で、これが首里手の原型になったと言われています。
また、首里手は、剣を相手にする遠距離戦を想定しています。



そして、この首里手からは後に船腰義珍(ふなこしぎちん/松涛館流創始者)先生、さらにその弟子に大塚博紀(和道流創始者)先生が出たため、後の四大流派のうちの二流派が、この首里手から発生したということになります。

(左の写真 左:船腰先生 右:大塚先生)




現役部員の皆さんへ。

ここまでの「首里手」のキーワードとして、「佐久川寛賀(唐手佐久川)」・「松村宗棍」・「糸洲安恒」の流れと「北派」・「遠距離戦」という言葉は、ぜひ教養として覚えておいて下さい。

簡単に言ってしまえば、形競技を見ていて、「ビシッ、バシッ」と素速い動きで軽快に技を極めていく形は北派の系統と思っていただいてよいのではないでしょうか。

今日はちょっとカラフルにいってみました。
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