2011年03月02日
東恩納寛量と沖縄訛り
今日は、那覇手の祖・東恩納寛量(ひがおんなかんりょう)先生(右の写真)について書かせていただきます。
東恩納先生は、下級士族の家に生まれ、長じてからは父親の伝馬船の海運業を手伝っておられたそうですが、結果的には、船を自由自在に操ることができたことがその後の運命を大きく変えることになったようです。
こんな逸話が残されています。
新垣先生に師事した後、中国へ渡った際、トゥルーコウ(ルールーコウ)(右下の写真)の門人となられました。
ところが、いつまで経っても、薪割など師の雑用ばかりで、拳法の修行は全くさせてもらえなかったそうです。
そんなある日、大洪水の襲来に巻き込まれました。
そのとき、東恩納寛量先生は、身命を投げ打ってトゥルーコウ一家を救助されたそうです。
特にトゥルーコウの娘が濁流にのまれて流された時、必死の救助で九死に一生を得ることができたとのことです。
伝馬戦による海運業に従事していたおかげで、荒波や濁流の扱いには慣れておられたようです。
これに感動したトゥルーコウが、東恩納寛量先生を内弟子とし、拳技を伝授するようになったという伝説が残っています。
修行を終えて帰国後、数名の弟子を指導されたそうですが、その中には、後に「東恩流」を開かれた許田重発先生、「剛柔流」の祖・宮城長順先生(右の写真)、そして宮城先生の紹介で、その後糸東流の開祖となられた摩文仁賢和先生がおられました。
ここまでの流れを、糸東流に関係する部分だけをピックアップして大ざっぱに図にするとこんな感じになります。
(泊手については後日書かせていただきます)
但し、実際の系図はもっと複雑で、いろいろな人物名が入ってきますので、誤解のないようにお願いします。
もっと詳しい系図をご覧になりたい方はこちらをクリックして下さい
首里手の系図
那覇手の系図
ということで、現役部員の皆さんは、「トゥルーコウ(ルールーコウ)~東恩納完量」という流れを新たに覚えて下さい。
あと、できれば剛柔流の開祖・宮城長順先生の名前は覚えておいてほしいですね。
しかし、実を言うと、「トゥルーコウ」という人物が一体誰なのか明確にされていないのが本当のところなのです。
右上2つ目の写真も果たして本物なのかどうなのか。。。(笑)
何やそれ。。。!?
すいません。。。
実はトゥルーコウに限らず、空手の歴史は不明な点があまりにも多いので、様々な説が飛びかっています。
一体なぜなのでしょうか?
理由はいろいろありますが。。。
・中国語の発音の聞き取りにくさ(しかも地方によって方言が様々に変わってきます)
・沖縄訛り
・当時の沖縄の識字率の低さ(ほとんど文字の読み書きのできる人がいなかった)
特に沖縄訛りでは、「あ・い・う」の3つの母音しか使わないということが、名称の伝達を著しく妨げました。
「え」音は「い」音に、「お」音は「う」音に置き換えられてしまうため、例えば、「ソバ」は「スバ」、「タバコ」は「タバク」という発音になります。
その結果、形の名称もいろいろで、同じ形なのに、いくつも名前があったりします。
例えば、昨日ご紹介した「スーパーリンペイ」でも「ベッチューリン」「ソパーリンパイ」その他いくつかの形名が存在します。
しかも文字の読み書きが難しかったために、記録が残らず、様々な当て字が用いられています。
例えば、「バッサイ」は「抜塞」「抜砦」という表記、セイエンチンは「征遠鎮」「制引戦」「制引鎮」「清栄戦」「青鷹戦」という表記があるのはほんの一例です。
ですから、空手の歴史については数多くの文献がありますが、どれが真実であるかは、正直、小生のレベルでは何とも言えないところがあります。
では、最後に、剛柔流の「三戦(サンチン)」という形をご覧下さい。
演武者は全日本空手道剛柔会最高師範・山口剛史先生です。
実は「三戦」にもいろいろあるのですが、詳しくは次回ご紹介いたします。
今日はまずオーソドックスな剛柔流三戦から。。。
明日は三戦のルーツと変遷についてご紹介します。
東恩納先生は、下級士族の家に生まれ、長じてからは父親の伝馬船の海運業を手伝っておられたそうですが、結果的には、船を自由自在に操ることができたことがその後の運命を大きく変えることになったようです。
こんな逸話が残されています。
新垣先生に師事した後、中国へ渡った際、トゥルーコウ(ルールーコウ)(右下の写真)の門人となられました。
ところが、いつまで経っても、薪割など師の雑用ばかりで、拳法の修行は全くさせてもらえなかったそうです。
そんなある日、大洪水の襲来に巻き込まれました。
そのとき、東恩納寛量先生は、身命を投げ打ってトゥルーコウ一家を救助されたそうです。
特にトゥルーコウの娘が濁流にのまれて流された時、必死の救助で九死に一生を得ることができたとのことです。
伝馬戦による海運業に従事していたおかげで、荒波や濁流の扱いには慣れておられたようです。
これに感動したトゥルーコウが、東恩納寛量先生を内弟子とし、拳技を伝授するようになったという伝説が残っています。
修行を終えて帰国後、数名の弟子を指導されたそうですが、その中には、後に「東恩流」を開かれた許田重発先生、「剛柔流」の祖・宮城長順先生(右の写真)、そして宮城先生の紹介で、その後糸東流の開祖となられた摩文仁賢和先生がおられました。
ここまでの流れを、糸東流に関係する部分だけをピックアップして大ざっぱに図にするとこんな感じになります。
(泊手については後日書かせていただきます)
但し、実際の系図はもっと複雑で、いろいろな人物名が入ってきますので、誤解のないようにお願いします。
もっと詳しい系図をご覧になりたい方はこちらをクリックして下さい
首里手の系図
那覇手の系図
ということで、現役部員の皆さんは、「トゥルーコウ(ルールーコウ)~東恩納完量」という流れを新たに覚えて下さい。
あと、できれば剛柔流の開祖・宮城長順先生の名前は覚えておいてほしいですね。
しかし、実を言うと、「トゥルーコウ」という人物が一体誰なのか明確にされていないのが本当のところなのです。
右上2つ目の写真も果たして本物なのかどうなのか。。。(笑)
何やそれ。。。!?
すいません。。。
実はトゥルーコウに限らず、空手の歴史は不明な点があまりにも多いので、様々な説が飛びかっています。
一体なぜなのでしょうか?
理由はいろいろありますが。。。
・中国語の発音の聞き取りにくさ(しかも地方によって方言が様々に変わってきます)
・沖縄訛り
・当時の沖縄の識字率の低さ(ほとんど文字の読み書きのできる人がいなかった)
特に沖縄訛りでは、「あ・い・う」の3つの母音しか使わないということが、名称の伝達を著しく妨げました。
「え」音は「い」音に、「お」音は「う」音に置き換えられてしまうため、例えば、「ソバ」は「スバ」、「タバコ」は「タバク」という発音になります。
その結果、形の名称もいろいろで、同じ形なのに、いくつも名前があったりします。
例えば、昨日ご紹介した「スーパーリンペイ」でも「ベッチューリン」「ソパーリンパイ」その他いくつかの形名が存在します。
しかも文字の読み書きが難しかったために、記録が残らず、様々な当て字が用いられています。
例えば、「バッサイ」は「抜塞」「抜砦」という表記、セイエンチンは「征遠鎮」「制引戦」「制引鎮」「清栄戦」「青鷹戦」という表記があるのはほんの一例です。
ですから、空手の歴史については数多くの文献がありますが、どれが真実であるかは、正直、小生のレベルでは何とも言えないところがあります。
では、最後に、剛柔流の「三戦(サンチン)」という形をご覧下さい。
演武者は全日本空手道剛柔会最高師範・山口剛史先生です。
実は「三戦」にもいろいろあるのですが、詳しくは次回ご紹介いたします。
今日はまずオーソドックスな剛柔流三戦から。。。
明日は三戦のルーツと変遷についてご紹介します。
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