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2025年02月07日
四国の魅力をつなげる
2021年10月15日
高松空襲の概要
高松空襲の概要
〇空襲の流れ
・空襲の初期段階…大都市、軍港、日本軍隊
→空襲の中期段階…軍事施設や工場
→空襲の終盤段階…市街地(高松空襲)
空襲の特徴・焼夷弾(ナパーム弾)絨緞爆撃
〇人口と死者数
1945年の高松市人口約10万人以上・死者約1359人
全国の空襲の中でも、人口のわりに死者数が多いのが特徴。一晩の空襲で高松市内は焼け野原となった。
○日時
1945年7月4日に空襲される。
時間については諸説ある。午前一時過ぎから明方ぐらいまでの間に空襲される。
米軍の資料では午後2時56分が空襲の始まりと記されている。米軍資料と高松空襲の被災者との間で若干の時間の誤差がしょうじている。
また、前日の7月3日、23時過ぎから石油をまいていたとの証言もある。
○B29出撃数
出撃数128、爆撃を行った数116
86機が目視で低空飛行にて空襲を行う。
30機がレーダーにて上空から空襲を行う。
米軍の資料に記載されている。
○最初の空襲
最初の空爆は紫雲山のふもとから攻撃している。(諸説あり)そこから南に向かい、屋島に抜けていった。→市街地の周りから空襲を行っている。
他地域の米軍の空襲の特徴として、逃げ道をふさぐために町の周りから空襲をしている。人的な被害を増大させるための卑劣な攻撃方法だと言える。
○空襲の特徴
・人口のわりに死者が多い。
→疎開に消極的だから
・疎開に積極的な都市もある。
→松山死者251人
松山では、空襲の人的被害を少なくするための行動がとられていた。
松山では建物疎開をしていた。空襲の時に、逃げやすくするために、事前に建物を撤去して、逃げ道を確保していた。
この建物疎開のおかけで、空襲時の被害を抑えることができた。
○高松市が疎開をあまりできなかった理由
・バケツリレーにて被害を最小限に抑える役目を課せられていた。
→疎開はできにくい。
→周りの地方都市が空襲されていく中で、そろそろ、高松にも空襲が来る事はある程度予想されている。
・空襲を取り仕切っている人間が疎開に否定的
○空襲時の行動
・火消しを行わずに避難する場合が多い
米軍の空襲は雨のように爆弾が降り注ぐ。空襲中の火消は現実的ではない。
○避難場所
防空壕に避難→しかし、死んだケースが多い。煙や蒸し焼き、直撃など、防空壕が死因になるケースが多い
・西に逃げる。風上に避難、水に逃げる。
〇市街地への空襲は戦争犯罪
学校、病院、住宅など市街地を攻撃する事は国際法に違反している。
○主な参考資料
・高松の空襲―手記編 ・高松の空襲―手記、資料編
・高松空襲戦災誌 ・松山市史―第三巻 ・日本の空襲
・米軍資料日本空襲の全容マリアナ基地B29部隊
・高松空襲写真集 ・香川日々新聞 ・高松市史年表
2021年10月14日
松山のドイツ兵捕虜関連遺産観光ツアー
松山のドイツ兵捕虜関連遺産観光ツアー
1日コース、半日コースで案内できます。
〇松山市のドイツ兵捕虜関連遺産
ロシア兵墓地
松山城
公会堂跡地
大林寺
来迎寺
長健寺
浄福寺
不退寺
弘願寺
〇1日コースの車での案内
松山城→公会堂跡地→昼食(じゃこ天、鯛めしなど。デザートにミカン)→大林寺→来迎寺、長健寺、
浄福寺、不退寺、弘願寺→ロシア兵墓地
〇1日コースサイクリングでの案内
JR松山駅→松山城→公会堂跡地→昼食(じゃこ天、鯛めしなど。デザートにミカン)→大林寺→来迎寺、長健寺、浄福寺、不退寺、弘願寺→ロシア兵墓地
*1日コースでは夜は道後温泉に行くことも可能です。
〇半日コースの車とサイクリング(ドイツ兵捕虜と関連が深い資産のみ周ります)
松山城→来迎寺→ロシア兵墓地
*松山のドイツ兵捕虜関連遺産に関しては、当時の様子を残した史跡はほとんど存在してません。ドイツ兵捕虜に関してはほぼ話すら伝わっていません。松山と言えば、日露戦争時のロシア兵捕虜が有名です。ロシア兵捕虜に関する史跡は存在しています。基本的にロシア兵捕虜とドイツ兵捕虜は同じ場所に収容されていたようです。
2021年10月08日
徳島のドイツ兵捕虜関連遺産観光ツアー
徳島のドイツ兵捕虜関連遺産観光ツアー
2日コース、1日コース、半日コースで案内できます。
〇徳島のドイツ兵捕虜関連遺産
大坂峠
大須とロマンティック街道
ドイツ橋、眼鏡橋、大麻比古神社
ドイツ村公園
ドイツ館、道の駅第九の里
霊山寺
ドイツ軒
〇1日コースの車での案内
大須とロマンティック街道→大坂峠→ドイツ橋、眼鏡橋、大麻比古神社→霊山寺→ドイツ軒(昼食)→ドイツ館→道の駅「第九の里」(おやつ)→ドイツ村公園
〇1日コースサイクリングでの案内
JR讃岐相生駅→大須とロマンティック街道→大坂峠→ドイツ橋、眼鏡橋、大麻比古神社→霊山寺→道の駅「第九の里」(食事)→ドイツ村公園
*昼食は徳島ラーメンか海鮮バーベキューに変更も可能です。
2021年10月01日
高松空襲の関連遺産とは
高松空襲の関連遺産とは
1945年7月4日にアメリカ軍の無差別攻撃により高松の町は壊滅した。これが高松空襲である。地方都市の空襲としては被害が大きかった。現在でも高松市では高松空襲の足跡を見ることができる。
●現在でも戦争の傷跡を感じることが出来る貴重な場所
H六角堂
高松空襲の戦災犠牲者の慰霊碑。戦没者の名前が刻まれた石碑が設置されている。現在この付近にはJRの路線があり、住宅街となっている。
このあたりは最も空襲が激しかった地域で被害も多かった。そのために、慰霊碑が設置された。
G姥ヶ池墓地縁墓ピラミッド
戦後の都市計画によって、この付近には多くのお墓が集めらた。墓地と住宅街が広がるエリア。その中で親族から連絡のなかったお墓を積み上げた。
●宗教的資産
C中野天満宮
高松市の中心部に位置している。一階が駐車場となっている。戦前の敷地は現在よりも大きく、この付近は空襲が激しかった。空襲の中建物は全焼したが、鳥居が残った。当時大きな水槽があり多くに人が逃げ込んだ。
I稲荷神社
JR栗林公園北口の隣に位置している。この付近は空襲の被害が大きかった。焼夷弾で割れた石灯籠が現存している。現在針金で縛っている。
●有名な観光地も関連資産
@サンポート高松
高松市の玄関口。高層ビルが立ち並ぶ。空襲時に逃げ場を無くした人が海に逃げる。空襲を終えたB29が屋島の方角に飛ぶ。
A高松城跡
(玉藻公園)
高松所の跡地として、公園になっている。空襲中多くの人が逃げ込む。戦後は占領軍宿舎になった。
J栗林公園
高松藩の庭園として整備された。美しい松が有名で、人気の観光地になっている。
米軍は市内の周りから空襲。最初に空襲された付近(諸説あり)南方面に逃げる多くの人がこのあたりの猛火で断念した。
●学びの場所も
B香川大学
空襲によって校舎が破壊。移転を余儀なくされた。復興後もとの場所に戻る。空襲を生き抜いた桜が現在でも花を咲かす。現在も香川県の教育中枢機関として県を担う人材を育てている。
●日常のあの場所が
E八本松
高松市の中心地に八本松交差点がある。8本の松が植えられていたが空襲によって喪失。そのままでは不憫なので戦後8本松が植えられた。
●高松空襲のことを発信する場所
F中新町交差点
高松市の中心地に位置する。高松空襲に関する展示品が飾られる。
Dミライエ平和記念館
高松市中心部の東に位置している。このあたりまでが空襲の被害地域になる。高松空襲に関連した多くの資料を展示した博物館。高松空襲のことを伝える貴重な場所。無料で見学できる。
2021年09月24日
6史跡‐丸亀ドイツ兵捕虜関連遺産とは‐
6史跡‐丸亀ドイツ兵捕虜関連遺産とは‐
丸亀のドイツ兵捕虜関連資産は以下の6資産である。
多度津港
塩屋別院
中津万象園
教覚寺
丸亀城
陸軍墓地と駒ケ林
@ 多度津港(日本遺産)多度津湛甫 (たんぽ)
荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間(北前船寄港地・船主集落)
ドイツ捕虜が最初に降り立った所
住民たちは「大いに友好的に、同情を込めて歓迎します」と看板を掲げる。不安な気持ちであったドイツ人捕虜はこの看板を見て安心する。ここから約4キロ先の収容場所の塩屋別院に歩いて移動する。
A塩屋別院
浄土真宗本願寺派の歴史あるお寺。
324人のドイツ人がここに収容されていた。2年5ヵ月の間収容される。個人の人権を尊重した収容所の運営が行われた。ドイツ俘虜による音楽団が結成されオーケストラのコンサートが開催される。また、近くの教覚寺にて行われた特産品展覧会にドイツ捕虜の様々な作品を展示した。(日用品、模型、設計図、絵画、時計、椅子、机など。)
後に手狭になり、徳島県の坂東俘虜収容所に移った。紹介パネルを設置している。
毎年記念イベントをしている。
B中津万象園と中津海岸
中津万象園は丸亀藩の庭園。庭園としての完成度が高く、美しい景観は有名である。
このあたりの海岸でドイツ人が海水浴を楽しんだ。
しかし、他の捕虜収容所でドイツ捕虜の海水浴が問題となり、中止となった。この影響で丸亀でもドイツ捕虜の海水浴が中止となった。
C教覚寺
現在は廃寺となり、門のみが残っている。塩屋別院のすぐ近くの立地。同時、展覧会が開かれて、ドイツ兵捕虜が多くの作品を出品した。地元民とドイツ兵捕虜の交流の場所である。
D丸亀城
京極家の居城。天守閣は江戸時代から続き、現存12天守の1つに数えられている。石垣の高さは日本一である。またその美しさも日本一と言われている。山全体を要塞化した難攻不落のスケールの大きいお城として有名である。丸亀市民のシンボルとして、大切にされ憩いの場となっている。
ドイツ人捕虜の手記の中でこの丸亀城に関する記述がある。丸亀城の天守閣があらゆる方向から眺められる。ドイツ人捕虜はこの丸亀城を眺めてながら生活をしていたことが分かる。また、元捕虜が丸亀を再訪問した際に立ち寄っている。
E陸軍墓地と駒ヶ林
讃岐守護細川氏と関連がある史跡の駒ヶ林。付近には陸軍の墓地が広がる。その中で1つだけ、ドイツ語で書かれたお墓が発見された。この関連資産のみ、他の関連遺産との距離がある。
丸亀の捕虜収容所で1名の捕虜が病気で亡くなった。収容所で亡くなったドイツ人のお墓である。異国の地で何を思い亡くなっていったのか気になる。現在は地域住民の子供の遊び場になっている。
道が細く、穴場の場所。
タグ:関連遺産 丸亀ドイツ兵捕虜関連遺産
2021年09月21日
丸亀ドイツ兵捕虜関連遺産
2021年09月18日
極東にあった奇跡の捕虜収容所とは
極東にあった奇跡の捕虜収容所とは
〇ドイツ軍俘虜(捕虜)と歴史
第一次世界大戦時、日本はイギリスの同盟国としてドイツと交戦した。主にドイツ軍が支配する東アジア植民地を攻撃した。この時多くのドイツ人が捕虜となり日本に送られる。
四国では愛媛県の松山市、香川県の丸亀市、徳島県の鳴門市に捕虜収容所がある。
この中で、徳島県の捕虜収容所が最も本格的な収容所である。この収容所は手狭になった各地の収容所を一カ所に集めて、本格的な設備を整えた作りとなっている。
日本人はドイツ人捕虜を人道的に扱った。この様子は映画化もされた。(バルトの楽園)
香川県の丸亀市の捕虜収容所の場所は塩屋別院である。丸亀市民は「同情を込めて、心から歓迎します。」と示し、ドイツ人と交流した。ドイツ人捕虜はオーケストラの演奏会を開き地元住民と触れ合った。
一般的には、戦争時には捕虜の人権が守られないことが多くある。そんな中、日本は国際法を厳守してドイツの捕虜を人道的に扱った 。
〇捕虜の虐待
捕虜は犯罪者ではないので、その人権は守らないといけない。捕虜に対しての人権侵害は国際法で禁止されている。しかし、歴史的に捕虜の人権は守られないことが多い。
捕虜は敵国の兵士、自国の兵士を殺している憎き存在として扱われる。捕虜の虐殺や強制労働など捕虜虐待の事例は多い。
〇国際法とハーグ陸戦条約
各国が守るべきルールを定める、これが国際法である。戦争時でも守るべきルールがある。
ハーグ陸戦条約は捕虜の虐待を禁止した条約である。日本はこの条約を批准した。この条約の原則をきちんと守ったことになる。
2021年09月17日
捕虜の生活とはかけ離れた丸亀のドイツ捕虜の収容所での生活とは
捕虜の生活とはかけ離れた丸亀のドイツ捕虜の収容所での生活とは
ドイツ捕虜が家族に出した手紙によって読み取れる。
ドイツでは家に入るときは靴をはく。しかし、日本では家に入るときはくつを脱ぐ。この文化の違いにもす
ぐに適応して、わらじ調達して快適に暮らした。
コーヒーや紅茶を飲み、音楽家たちはバイオリン演奏や歌を歌った。
〇日程
6時半…起床
7時半…整列後、朝食、慰問品の到着、自由時間
9時…教練
10時…各自の仕事、勉強、自由時間など
12時…朝食
3時…商人による販売、散歩
4時…午後のコーヒー
6時…夕食
9時…就寝
・週2回は風呂
〇ドイツ人捕虜の生活とは
以上のように、ドイツ人捕虜は一般的な捕虜の生活とは縁が遠い暮らしをしていた。自由時間が多く、強制
された時間が少ない。また、3時から4時までの間は、約1キロの道路を行き来することが許されていた。
地域の住民と接触することも可能と言える。
地域の住民と一緒に写っている写真も多くある。
〇イベントや行事など
・クリスマスには行事が開かれた。丸亀では、捕虜はお寺に収容されていたが、クリスマスを敷地内で祝うことを許されている。寛大な処置だと言える。
・音楽隊が組織されて、演奏会が開かれた。
・展覧会が開催されて、ドイツ捕虜の作品が展示された。
・捕虜達が作成した新聞が発行されていた。
・捕虜達が海水浴をしていた。
〇捕虜の給与など
・階級の高い捕虜将校には給料が現金で支払われた。
・一般兵には、食事、衣服、寝具などが現物支給された。
・親からの仕送りや勤務先からの給与など、現金収入のある者が、収入が無い者に対して、仕事を与えて、給与を与えていた。お互いが助け合う仕組みが収容所内であった。
以上のように、捕虜たちにある一定の自由認められた板。一般的な捕虜のイメージとはかけ離れた、人権が守られた生活を送っていた。
2021年09月16日
丸亀のドイツ捕虜収容所‐ドイツ人捕虜がおどろいたその言葉とは‐
丸亀のドイツ捕虜収容所‐ドイツ人捕虜がおどろいたその言葉とは‐
〇ドイツ人捕虜の入港
1914年11月16日、ドイツ兵捕虜が香川県の多度津港に入港した。
ドイツ捕虜が降り立った時に驚きの光景があった。
「大いに友好的に、同情を込めて歓迎します」と書かれた看板。
戦争に負け、遠い異国の地で、これからの生活が想像もできない。不安に満ちた捕虜生活。この看板で見てドイツ兵捕虜は勇気づけられた。
大いに友好的に、同情を込めて歓迎しますの言葉が香川県の到着の最初であった。
〇収容所長の石井弥四郎中佐の訓示
ドイツ捕虜の上陸後すぐに、収容所長からの訓示があった。
ドイツ兵の名誉を傷つけるつもりはないことを最初に伝えた。その後、秩序を守った生活をドイツ兵に求め、違反者には罰則を与えることを伝えた。また、戦後は帰国できること話した。
当時としては画期的な捕虜の人権を厳守したハーグ条約に基づいた収容所の運営を宣言した。
〇大歓迎の多度津港から塩屋別院までの道
ドイツ兵捕虜が収容された場所が塩屋別院である。
多度津港から塩屋別院までは歩いて1時間程度である。約6キロの街道には歓迎する住民でいっぱいになっていた。この道筋で、「大いに友好的に、同情を込めて歓迎します」の看板が掲げられた。
これら丸亀式挨拶はドイツ捕虜の記憶に良い思い出として刻まれた。