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【日本史の常識を覆せ!】巨大古墳造営の目的は墓ではなかった!!  

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★ 権力者が権力を誇るために巨大古墳を造ったのか?

古墳が造られ始めた目的は、本当に「墓にすることのみ」だったのか・・・

古墳と一言で言っても、数百年間に渡り造られましたし、平野部にある巨大古墳もあれば、山腹にある小規模な古墳群もあり、「古墳」というキーワードで全てを一括りに検討することはできません。

とりあえず、古墳時代初期の平野部に造られた巨大古墳について、考えてみましょう。

この巨大古墳が、時代と共に目的や姿を変えていったのでしょうから、まずこの「古墳時代初期の平野部に造られた巨大古墳」で考えるのが良いと思っています。


★ 現代風にコスト収益率で考える

現代風にコスト収益率で、巨大古墳を造営した目的が「墓にすることのみ」だったと考えると、権力者は自らの権力を誇示するためだけに、全く現実的な収益を全く生まない事業へ多くのコストを投入したことになります

極論すれば収益ゼロ(権力誇示を収益に換算せず)の事業に、多大なコストをかけたということです。

このようなことを、現在の会社経営や、中世から近世の戦国武将・藩の領国経営などで行っていると、即刻に破綻しています
誰もが簡単に想像できることでしょう。

まして、古代は農業の生産性が低く、何の現実的な生産物を生まない人々(古墳造りに専念している人々)を養うには、そのバックに多くの農業等生産従事者を抱えていなければならず、どう考えても巨大古墳は「墓にすることだけの目的」で作ったものではないと想像できます。

では、何かカラクリがあるのか・・・。


★ 巨大古墳の周りに目を向けるとカラクリが見える

平野部の巨大古墳を取り巻く風景を見ると、周りに宅地や田畑が一面に広がっており、耕作適地に接した場所に、古墳は造られたと言えます。

このように見ると、古代人は「耕地の開拓」と「古墳の造営」をセットで行ったのではないかと考えられます。

「耕作地開拓で余った残土を一か所に集め、その残土を活用して古墳を造った」ということで、このように考えると、古墳を造るコストはほとんど発生しなかった(耕地開拓のおまけの事業だった)と見れます

表現を変えると、耕作適地の開拓が主目的で、古墳は副次的な目的だった可能性が高いと言うことで、実際にこのような見方をする歴史家もいます。


★ では、なぜ残土の山が貴人の墓となったのか

古墳時代も中期以降は、古墳を最初から墓として造営したものと見られますが、初期は墓を目的としていなかった可能性が高いです。

「祭司場」や「市場(マーケット)」として、人々のランドマーク的な造営物として造られた可能性があります。

例えば、奈良県の三輪山近辺の古墳時代初期に造られた古墳において、発掘調査が行われたことがありますが、人骨など人が埋葬された形跡のものは何も出土せずに、「朱砂(辰砂)」という当時日本で盛んに採鉱された鉱物が大量に出土しました。
(この朱砂は、中国で薬や塗料に珍重されましたので、多くは中国に輸出されたものと思われています。)

このように、本来の古墳は交易の場であった可能性が高いです。

又、当時は、交易において、双方がインチキをせずに商取引をする為に、その場所を神聖な場所とし、高貴な神を祀る必要がありました。

現在と異なり、科学的な知識のない古代の人々は神の存在を強く信じていましたので、商取引を行うには神聖な場所で行う必要があったんです(神の前ではウソをつけませんから)。

したがって、「祭司場」や「市場(マーケット)」の運営を確実にするために、高貴な人物の霊を求めた結果、高貴な人物の墓としての一面も兼ね備えるようになっていったように思われます。

おそらく、仁徳天皇陵や応神天皇陵などは、「朱砂(辰砂)」輸出の為の巨大市場として造られたものかもしれません

古墳に埋められている埴輪についても、日本の埴輪には朱砂が塗られており、商品の見本であった可能性があるかもしれません。

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以上

【日本史の常識を覆せ!】 国歌「君が代」の真実を探る

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「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで♪」


★ 一般的な見方

賛否両論ありますが、少なくとも私には日本に適した良い国歌だと思います。
(否定的な考えの方を批判するものではありませんので。)

<君が代>が国歌となったのは、明治初期です。
幕末に開国し、諸外国との付き合いを始めた日本には国歌が必要で、江戸幕府を否定し天皇中心の国家建設を始めた日本には最適の歌詞として選ばれました

国歌になる前の<君が代>は、諸説あるのですが、一般的には「古今和歌集」に賀歌として取り上げられたのが最初となっています。
その後、室町・江戸時代には、めでたい席で歌う詞となり、庶民にも認識されるようになりました。(現代の、結婚式で歌われる乾杯みたいな感じでしょうか。)


★ 「古今和歌集」に取り上げられる前は?

よくわかりません、この歌は詠み人知らずなんですから・・・。
詠み人知らずの歌が国歌になっているケースって、他国にはないのではないかと思います。

しかし、この歌の出来た背景がかすかに推測できる材料があるんです。
この歌を構成する言葉と合致する地名や神社名などが揃っている地域が、実はあるんです。
この地域の特徴や言い伝えを繋ぐと、<君が代>がいかにして誕生したか、また、古代日本の風景が見えてきます


★ 千代が浜、細石(さざれいし)神社に、苔むす姫

福岡県の博多湾に、「千代が浜」という地名があります。
又、同じ博多湾近くに、「細石神社」「苔むす姫」が祀られた神社があるんです。
さらに、金印で有名な博多湾に浮かぶ志賀島の神社の祝詞が<君が代>とほとんど同じらしい・・・。
※これらは、下に紹介している本からの引用です。

どうも、博多湾近辺の支配者が、ある女性を殺し、体を細かくバラバラにした。

(古代においては、死者が現世に復活しないよう、死者の体をバラバラに切り刻むことがありました。特に、恨みを抱いて死んだ人の体は、切り刻まれたと言われます。)
その後、その支配者が不幸な死に方をしたため、その女性の怨霊ではないかと恐れて、「神社などを建て」、「祝詞を作った」のではないかとも言われています。


★ <君が代>の真の意味を現代語にすると・・・

この見方で<君が代>を現代語訳すると・・・、
「大王の治世が永遠に続くようにしてください、切り裂かれ細石のように細かくなったあなたの体は、その後一つに戻り巌のように固くなって二度と切られることなく、苔がむすまであなたは長生きしたんですから。だから、大王の世を永遠に見守りください・・・。」という感じかと思います。


★ 最後に

このような背景で生まれた<君が代>ですが、時代と共に、天皇賛歌(天皇をたたえる詞)となり、そして庶民にも愛されるめでたい詞となり、そして国家の象徴となる国歌へと変節していきました。
このような壮大な変化を経験してきた詞は、世界中でも<君が代>ぐらいでしょう。

また、この北九州で誕生したであろう<君が代>が、なぜ京都の天皇家に伝わり続けていたか・・・、やはり大和王権は九州北部で誕生した王朝が東征したためでしょう。
そう考えるのが自然です。
他にも、大和朝廷が東征して誕生したと言える根拠が色々とありますが、今回は話が逸れていきそうなので、その話は別の機会にしたいと思います。

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以上

【日本史の常識を覆せ!】 北方領土は日本のものか? 敢えて言う「日本人の事実誤認」と「解決の好機到来」

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★ 最初に

さて、「日本史の常識を覆せ!」という観点から、ブログでツラツラと私の思いを書いていきたいと思います。
このブログに辿りついてきて頂いた皆様、よろしくお願いします。

では、初回は、領土問題の一つである北方領土にスポットを当てたいと思います。
これは、以前にYahoo知恵ノートに記載したものをリニューアルしたものですが、ぜひぜひお読み下さい!


★ 我々の主張は完璧か?

私は、北方領土が日本に帰ってくれば良いと願っている日本人です。

しかし、歴史的事実として、「北方領土である4島は日本の物である!」という日本の主張にはやや詭弁と言える部分があり、この点をもう少し柔軟に、かつ現実的に考え直してこそ、北方領土問題解決の糸口が見えてくるものと考えています。

この私の考えと、現在の世界情勢から見た北方領土問題の解決について、記載させて頂きます。


★ 北方領土とは?

まず、北方領土と言うと、「択捉島」「国後島」「歯舞諸島」「色丹島」を一般的には指します。
これは、日本人には常識的なことであり、改めて確認する必要はないかと思います。

しかし、太平洋戦争の敗戦後、日本の主権回復となった1951年のサンフランシスコ平和条約の内容を見てみると、「あれ?」と思う記載につきあたります。

1951年のサンフランシスコ平和条約では、南樺太・千島列島の放棄がはっきりと謳われており、どうも現在の日本の主張と矛盾が生じているように思われます。

現在の日本の主張である「択捉島・国後島・歯舞諸島・色丹島は日本固有の領土」と、国際条約であるサンフランシスコ平和条約の条文「南樺太・千島列島の放棄」について、どちらも正しいという筋を通すには、「択捉島・国後島・歯舞諸島・色丹島は千島列島ではない」という整理が必要になってきます。

実際、現日本政府の主張は、「択捉島・国後島・歯舞諸島・色丹島は北方領土であり千島列島ではない」と言っていますが、よくよく考えて見て下さい・・・、これはちょっと変です。

ロシア側から見ると、詭弁としか見えないものと思います。

まさしく、竹島を不法に実効支配する韓国に対する日本からの見方と大差はないかもしれません。

地理的には、あきらかに千島列島の一部であり、サンプランシスコ平和条約にも北方領土を例外とする記載なんて一文字も存在しませんから。


★ 更におかしいのは・・・

更におかしいのは、1956年の日ソ共同宣言を行った際、「日ソ平和条約の締結で『歯舞諸島』『色丹島』を日本に返還する」という取り決めが行われましたが、これは逆説的に言うと、この時期まで日本は「北方領土の認識はなかった」もしくは「少なくとも北方領土とは『歯舞諸島』『色丹島』のことで、『択捉島』『国後島』は含まれていなかった」ということです。

1956年当時は、日本は明らかに『歯舞諸島』『色丹島』のみの返還で満足していたんですから。

では、なぜ、いつから、日本は「北方領土は『択捉島』『国後島』『歯舞諸島』『色丹島』のことであり、4島一括返還こそが絶対条件だ」という頑ななスタンスに変化したんでしょうか。


★ アメリカの影

このスタンスの変化の原因は、ただ一つ・・・。

アメリカの日本政府への強い圧力によるものです。

1956年当時、アメリカとソ連は東西両陣営のリーダーとして、冷戦の中で対峙していました。
この状況を想像頂くと、理解しやすいのではないでしょうか。

アメリカとしては、日本とソ連が日ソ平和条約を締結し、両国の距離が近くなると困るので、日本政府を焚き付けて「『択捉島』『国後島』も一括して返還要求しろ!」と言ってきたんです。

現代でもそうですが、アメリカに対して日本はNO!と言えませんから、アメリカの言う通りに北方領土へのスタンスを変更したということです。

当時のソ連はかなり当惑したでしょう。

ソ連から見れば、「おい日本、約束したじゃないか!」という心境だったことでしょう。

その証拠に、その後のソ連は北方領土のスタンスを「領国に領土問題は存在しない」というラインまで後退、いや、リセットしました。


★  北方領土問題の解決に向けて

このように解決の糸口を見失った北方領土問題ですが、少し前に話題となったプーチンの引き分け発言で、動き出そうという気配があります。

このプーチンの発言について、単に日本への疑似餌だという世間での見方もあり、半分は確かにその通りと思うのですが、残る半分は本気だと私は見ています。

上述のような歴史的背景のある北方領土について、ロシアから見れば、大統領であるプーチン氏がこのような発言をすること自体がサプライズに近いからです。

ロシアの立場に立つと、ヤルタ会談(ソ連の参戦について話し合われた米英ソの会談)で決まった通りに千島列島を占領し自国領に編入しただけであり、その後に条約締結の見返りに一部の返還まで日本に提示した。

これだけでも、ロシア(当時はソ連)は日本に大きな誠意を示したにも関わらず、その後に日本は約束を反故とし、要求をエスカレートさせて話を暗礁に乗せた。

今回、そんな日本の要求に、ロシア側から歩み寄るようなアプローチをしたということで、国のメンツ的な意味合いでも、ロシアは大きく譲歩したということなんです。

ロシアにとっては、中国の経済力・軍事力での急激な台頭で、極東を守り抜くためには、同じく中国に脅威を持つ日本と経済面を中心とした強い協力関係を構築することが不可欠と判断してのことでしょう、まちがいなく、ここまで大きく譲歩したのは。

日本と大幅な関係強化のためには、北方領土問題の解決は避けて通れませんので。

日本は、この中国台頭に伴うロシアからのアプローチを上手く捉え、なるべく早期に北方領土問題を解決させることが重要です。

頑なな姿勢で臨むと、またの好機を逃しかねないです。

「無条件の4島の一括返還」が実現できるとベストですが現実的にほぼ有り得ないでしょうから、場合によっては「2島先行返還+残る2島は10年間後までに解決」とか、「シベリアの経済開発協力に○○兆円の援助との見返りに4島一括返還」などと、とにかく前進させることが最も重要と考えます。

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