2018年04月11日
やって駄目ならやり直す
◇春や昔
まことに小さな国が、開花期をむかえようとしている。小さな、といえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかなかった。明治維新によって、日本人ははじめて近代的な「国家」というものをもった。だれもが「国民」になった。不馴れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者としてその新鮮さに昂揚した。この痛々しいばかりの昂揚がわからなければ、この段階の歴史はわからない。社会のどういう階層のどういう家の子でも、ある一定の資格を取る為に必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも官吏にも軍人にも教師にもなりえた。この時代のあかるさは、こういう楽天主義から来ている。
四国は伊予の松山に三人の男がいた。このふるい城下町にうまれた秋山真之は、日露戦争が起こるにあたって勝利は不可能に近いといわれたバルチック艦隊をほろぼすにいたる作戦をたて、それを実施した。その兄の秋山好古は、日本の騎兵を育成し、史上最強の騎兵といわれるコサック師団をやぶるという奇蹟を遂げた。もう一人は、俳人になった。俳句、短歌といった日本のふるい短詩型に新風を入れてその中興の祖になった正岡子規である。彼らは、明治という時代人の体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみを見つめて坂をのぼってゆくであろう。
いきなり私ふまんだらけが大好きな司馬遼太郎作品「坂の上の雲」の冒頭部分から始まりました。時代の幕開け、この先にいったいどんな時代が広がっているのかという高揚感に包まれる瞬間がたまらなく好きでした。
それから百年余りーーー私達は正岡子規の生きた戦後を越えた時代を生きている。退屈な日常に、終わりのないいつもの日常にうんざりしてしまう瞬間がある。テレビをつけると、今日もまた「ニッポン褒め」の番組が放送されている。科学技術、食文化、暮らしのマナー、伝統芸能などに外国人が驚き、褒めそやす。能天気な平和ボケな現代人からすると想像もできないような、ちょっと息をのんでしまうほどのありありとした「時代の高揚感」が当時の時代背景にはあった。新しいことを「知る」ということに、命を賭して時代の波に翻弄されながらも果敢に挑戦する姿は、今でも私達の胸を熱くするーーーことはもうないのかもしれませんが。
現代人は大切な「何か」を忘れてしまっている気がする。無駄なことはやらない、というのが今の時代の流れなんでしょうか?すべてが合理的で効率化に傾倒する思想は、非常に危険だと私ふまんだらけは思います。それはつまり世の中やってみなきゃわからないこともあって、大事なことは「始めからすべてを決めつける」のではなく「終わるまでやってみる」姿勢を大切にしたい。これが私ふまんだらけの「投資の心構え」の根底にある考え方。初志貫徹を貫きとおすこともいいのかもしれませんが、思い込みという自らの枠に囚われた状態から抜け出すことが、この閉塞した時代を生きるヒントかな、と私ふまんだらけは思います。
秀でた才能もなく、成すべき使命もなく、これと言って伝えるべき感情もない現代人。物質的なニュアンスではなく、私達は実はなにも手にしてはいない。それでもなお、私達は次世代へと語り継がねばならいない。その背中を見守る人達のために。そして「何か」を残すことができるのだろうか。「思い」を語り「想い」を繋ぐその先が「重い」ものであったとしても、それはきっと私達が勝手に抱いていた「思い違い」かもしれない。やって駄目ならやり直す位の気概で突き進む。それは日常の暮らしやソーシャルレンディングなどの投資にも生かせると私ふまんだらけは思います。
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まことに小さな国が、開花期をむかえようとしている。小さな、といえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかなかった。明治維新によって、日本人ははじめて近代的な「国家」というものをもった。だれもが「国民」になった。不馴れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者としてその新鮮さに昂揚した。この痛々しいばかりの昂揚がわからなければ、この段階の歴史はわからない。社会のどういう階層のどういう家の子でも、ある一定の資格を取る為に必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも官吏にも軍人にも教師にもなりえた。この時代のあかるさは、こういう楽天主義から来ている。
四国は伊予の松山に三人の男がいた。このふるい城下町にうまれた秋山真之は、日露戦争が起こるにあたって勝利は不可能に近いといわれたバルチック艦隊をほろぼすにいたる作戦をたて、それを実施した。その兄の秋山好古は、日本の騎兵を育成し、史上最強の騎兵といわれるコサック師団をやぶるという奇蹟を遂げた。もう一人は、俳人になった。俳句、短歌といった日本のふるい短詩型に新風を入れてその中興の祖になった正岡子規である。彼らは、明治という時代人の体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみを見つめて坂をのぼってゆくであろう。
いきなり私ふまんだらけが大好きな司馬遼太郎作品「坂の上の雲」の冒頭部分から始まりました。時代の幕開け、この先にいったいどんな時代が広がっているのかという高揚感に包まれる瞬間がたまらなく好きでした。
それから百年余りーーー私達は正岡子規の生きた戦後を越えた時代を生きている。退屈な日常に、終わりのないいつもの日常にうんざりしてしまう瞬間がある。テレビをつけると、今日もまた「ニッポン褒め」の番組が放送されている。科学技術、食文化、暮らしのマナー、伝統芸能などに外国人が驚き、褒めそやす。能天気な平和ボケな現代人からすると想像もできないような、ちょっと息をのんでしまうほどのありありとした「時代の高揚感」が当時の時代背景にはあった。新しいことを「知る」ということに、命を賭して時代の波に翻弄されながらも果敢に挑戦する姿は、今でも私達の胸を熱くするーーーことはもうないのかもしれませんが。
現代人は大切な「何か」を忘れてしまっている気がする。無駄なことはやらない、というのが今の時代の流れなんでしょうか?すべてが合理的で効率化に傾倒する思想は、非常に危険だと私ふまんだらけは思います。それはつまり世の中やってみなきゃわからないこともあって、大事なことは「始めからすべてを決めつける」のではなく「終わるまでやってみる」姿勢を大切にしたい。これが私ふまんだらけの「投資の心構え」の根底にある考え方。初志貫徹を貫きとおすこともいいのかもしれませんが、思い込みという自らの枠に囚われた状態から抜け出すことが、この閉塞した時代を生きるヒントかな、と私ふまんだらけは思います。
秀でた才能もなく、成すべき使命もなく、これと言って伝えるべき感情もない現代人。物質的なニュアンスではなく、私達は実はなにも手にしてはいない。それでもなお、私達は次世代へと語り継がねばならいない。その背中を見守る人達のために。そして「何か」を残すことができるのだろうか。「思い」を語り「想い」を繋ぐその先が「重い」ものであったとしても、それはきっと私達が勝手に抱いていた「思い違い」かもしれない。やって駄目ならやり直す位の気概で突き進む。それは日常の暮らしやソーシャルレンディングなどの投資にも生かせると私ふまんだらけは思います。
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