2015年12月13日
読書感想文『悔いなき人生を生きる』 おすすめの文章と自分なりの感情
こんにちわ、小谷中広之です
今回のブログでは私「小谷中広之」が読んだ本の中で気に入った文章を紹介するとともに私「小谷中広之」がその文章に対して感じたこと(感情)を書き、少しでも皆様の何かのきっかけになれればこのうえない喜びです(定期的に読書感想文は更新していきます)
決して細かくは書くことはありませんのでご了承ください
私「小谷中広之」が感じた文章を書きたいと思っております
今回のご紹介する本は、小池龍之介様の「いま、死んでもいいように」です
小池龍之介様。1978年山口県生まれ。僧名は、龍照。東京大学教養学部卒業。月読寺の住職、正現寺の住職
気になる文章
●楠木正成が劣勢な決戦を前にして恐れる心の内を禅僧に打ち明けたエピソード
出陣を前に「生きるか、死ぬかと、自分の心は動揺している」と。それに対して僧が答えた言葉が「両頭ともに截断して、一剣天に依りて寒じ」でした。すなわち「両方の首を切り落として心が自由になったなら、心は迷いなき剣となり天にあって大威力なのだ」と。両方の首を切り落とすという比喩は穏やかではありませんが「生きていたい」「死にたくない」という二つの思いのことでしょう。それらの迷いをこそ言わばズバリと切り殺すことによって「お前はブレない剣となり最大限の力を発揮できるだろう」というのです
「生きたい」「死にたくない」というのは、自分の好きなことをもっとしたいという欲望のための、土台にあるモノです。その生存欲望にすら制約をかけて捨て去るところに、心はシャキッとし、普段の自分をずっと超えた捨て身の働きができる
○小谷中広之の感情・・・いつでも死ねる覚悟で生きるこことはできないが、常に目の前の事柄を一生懸命に取り組むことはできる
例えば朝目が覚めて顔を洗った後の鏡に映っている自分に向かって「もし今日が人生最後の日だったら今日一日をどんな風に過ごしたいか?」という質問を問い掛けてみよう
その時の答え通りに一日をいや、毎日を過ごせたのなら画期的に人生は自分の思い通りになるだろう
●たとえ、毒蛇の口の中に男性性器を挿入することがあっても女性性器に挿入してはならない
「律蔵」に残る、ブッダの言葉とされるものです
出家僧は男女ともに決して性行為をしてはならない、という戒律がありました。その戒を破った場合、教団を追放されるという点では、殺人と同じレベルの重罪として扱われていたのです
○小谷中広之の感情・・・自分には理解が全くできないが、このような教えすら忠実に守っていた人ももちろん存在し、またその逆も存在していたんだろうな
戒律とは、それを破る者が存在するという想定で出来ているのだろう、もちろん法律もきっとそうなのではないだろうか
つまり、それを破った者が存在していたという証拠になるのではないだろうか
●しわくちゃの老人であろうと絶世の美女であろうと、その皮に覆われた中身は、血と肉が詰まっていて、骨でできた骨組みがあるだけで、どちらも似たようなもの
どんな外見の良い人間を見て「かっこいい」「かわいい」と感じたとしても、その人の血管や内臓を見せられて「かっこいい」「かわいい」と感じることはなく、平均的にはおぞましいものと感じるもの
○小谷中広之の感情・・・まぁこの言葉通りの考え方で人を見ている人は、まず自分の近くには存在していないが自分がこの言葉と出会ったことによって、自分は先日行きかう人々をこのような考え方で見ていた自分に気づいてしまいました
やはり、本の影響は計り知れない
●若い者も老いた者も、一時間経てば、死に向かって一時間ほど、近づく。そのようなすべての生き物に共通するレベルで、私たちは刻一刻と死に向かって走っていっています
死を覚悟することで人間の意識は覚醒します。例えば「あ、いま一回呼吸をした間にも、一呼吸分寿命が尽きたのであることよなぁ」
皆様がこれを読んでいる最中にも寿命が刻一刻と朽ち果てている
そのことを意識しながら読んでいただけるなら、読んでいる最中にきっと心がさえてきて、読み進める読解力も強化されてきているではないでしょうか
目の前のよしなしごとにとらわれて視野が狭くなった時は「ああ、この一瞬にも腐敗して寿命が尽きてゆく」と思いだし、自らに喝を入れて一回、リセット
○小谷中広之の感情・・・今、自分は家に帰るべく歩いている
しかし家に向かっているのは、表面上の事柄で、もっと根本的に考えてみると実際は死に一歩一歩近づいている
そう考えながら、一瞬一瞬を生きてみよう
●昔でしたら、ガンや結核や疫病を患った時点で「ああ死ぬんだな」と諦めざるを得なかった事態に対して、現代医療を用いれば人為によって克服できるようになっていて、いわば諦めさせてくれなくなっている。結果として誰もが90歳くらいまで生きるようになりますから、異様な高齢化社会が実現しているという側面があることでしょう
○小谷中広之の感情・・・今後も、医療技術が進めば進むほど、平均寿命が延び、諦めさせてくれなくなる世の中になるだろう
そして平均寿命が延びて長寿者が増えれば増えるほど介護問題や年金問題、病院問題、雇用問題などが倍増して増えていくことだろう
●自分と雲や水や風や石や犬や猫や他人などを、宇宙的な大きな視点で見渡すなら、それらの問題に大した差など、有りはしません。「あーどれもこれも、自然現象であることよ」
自分が特別でない自然現象にすぎないのなら、あとどれだけ生きるのも、いつ死ぬのかも、操作せずに自然に任せてやればいい
○小谷中広之の感情・・・人間はほかの動植物と違って、脳が発達していているとはいえ、結局は自然現象の中で生きている、そしてそんな人間さえも自然現象なのだろうか
●何らかの問題を解決するためには、まずは何はともあれ「この自分が苦しんでいる」という事実に、目覚めることが大前提になります
○小谷中広之の感情・・・まずは認めてしまおう。「俺は辛い、苦しい」と。そしてその対策を深くしっかりと考え、楽天的に行動に移していこう
●「私はこれをやった。次はこれをしよう。その次は将来にあれをしなくては」こうして先のことばかり考えていて「いま」に心がない人を老いと死があっさりと殺してしまう
なぜ誰もが「自分はボケたり不随になって、介護を必要とする老年期を送るだろう」という将来予想図を、いつの間にか描いてしまっているのでしょうか。ある意味では、社会的に誰もがそのようにマインドコントロールされているせいで「将来ちゃんとした介護が受けられるだろうか」と、心配するハメになっているように思われるのです
それを確言すれば「将来、何歳になってもボケないで明晰な意識を保っていられるようにしよう」「介護など必要としないほど、健全なまま死んでゆけるよう、身体をメンテナンスしておこう」という、概念や信念が欠けているということではないでしょうか
心をボケへと向かわせるのは、過去をダラダラと思い煩ってみたり、もしくは過去の栄光を思い出して、自分がどれほど立派だったのかをつらつら考えたり、他人に自慢して聞かせることでしょう。それを繰り返すほど、頭の中では過去の情報が「より重要なもの」として位置づけられ、反復してそのことばかりを考えるようになります
「いま」を生きるという感覚からしますと、仮に倒れて助けてもらえないまま息絶えたとしても、何か問題があるでしょうか。世間では孤独死を、非常に恐ろしい、あってはならないもののようにあげつらう傾向がありますけれども、それを一種の社会的マインドコントロールを受けてのことのように思えるところがあります。多額のお金を支払わなければ介護してもらえないような社会に対して、自分の生活の基盤をゆだねてしまい、生きることの誇りを失うというのは決して、惨めでもなんでもないと思うのです
私は、人の一生とは要するに、死の間際に「自分の人生、これで悔い無しっ」と笑えるならよし、と考えます。ですから、世間のマインドコントロールを説いて、孤独死するにしても自分はその直前まで「いま」を生き抜く以上は、どう死んでも笑えるからOK
○小谷中広之の感情・・・「将来、介護が必要になったらどうしよう」と悩んでいる暇があるなら、「将来、介護なんか必要としない健康な身体を保つために今、何をするのか」を考える
●生まれるのも老いるのも病むのも、そして究極的には死ぬのも、自分の思い通りには、決してならないもの
○小谷中広之の感情・・・諦め、受け入れるしかない。しかし、今の一瞬一瞬に全力で生きることを決して忘れてはいけない
●はじめに掲げた「老経」の言葉の、前におかれた言葉を引いてみましょう。「ああ、人の命は何と短いもの。百歳にもならず死ぬのか、それより長生きしたとしても老いぼれて死ぬ。人は「自分のものだ」と執着したモノのせいで、苦しむ羽目になる。所有しているものは、永遠ではないのだから。この世のあらゆるものは、存在したかと思えば次には滅び去ってゆくものなのだと観じ、仏道を歩むように」
○小谷中広之の感情・・・所有物は少ないに限る
●死者を泣き悲しむ者が嘆くことによって、自分の身心を害し、やつれ顔色が悪くなるが、それによって死者に良いことは何も起きない
死を嘆き悲しむのは、無意味なこと
それゆえ、嘆き悲しみを捨てるように
命の尽きた亡者に対して「この人にはもう、私は何もできない」と知れ
○小谷中広之の感情・・・ストレートすぎて、面と向かって人にはこんなことは伝えられない
しかし、自分の心の中には残しておこう
●「死後も人々の中で生きる」というバーチャル延命の幻想によって「死」の圧倒的脅威をごまかすという戦略。その戦略のインチキさを見破れば、死の脅威が露出します
そうして死の持つ本来の脅威に向かい合ってこそ、死の問題を本気で乗り越えようとする、仏道の方法論が生きてこようというものなのです
○小谷中広之の感情・・・死は必ず訪れるイベント。その自分のイベントにしっかりと向き合えるようにしよう
●墓に入るのは、あなたなのですか?骨という物体なのですか?
死んだからには、もう墓に入る私なるものは、ここには存在しないのです
そうか、明後日も、半年後も、一年後も、十年後も、その後もずーっとこの意識が永続するかのように錯覚しているからこそ、争いたくもなるのです
この私が死に、いなくなることを、体感するまでイメージする。いなくなるのなら、墓もどうでもいいし、他人の失礼さもどうでもいいし、意見の違いもどうでもよくなるのです。己が去りゆくものであることを知れば、平和
○小谷中広之の感情・・・奪い合うことがなくなること間違いなし
ここまで読んでいただきありがとうございます。読んでいただいた方の人生での何かのお役に立てればとても嬉しいです
この本の他の文章が気になった方下記のサイトで購入可能です。
今回のブログでは私「小谷中広之」が読んだ本の中で気に入った文章を紹介するとともに私「小谷中広之」がその文章に対して感じたこと(感情)を書き、少しでも皆様の何かのきっかけになれればこのうえない喜びです(定期的に読書感想文は更新していきます)
決して細かくは書くことはありませんのでご了承ください
私「小谷中広之」が感じた文章を書きたいと思っております
今回のご紹介する本は、小池龍之介様の「いま、死んでもいいように」です
小池龍之介様。1978年山口県生まれ。僧名は、龍照。東京大学教養学部卒業。月読寺の住職、正現寺の住職
気になる文章
●楠木正成が劣勢な決戦を前にして恐れる心の内を禅僧に打ち明けたエピソード
出陣を前に「生きるか、死ぬかと、自分の心は動揺している」と。それに対して僧が答えた言葉が「両頭ともに截断して、一剣天に依りて寒じ」でした。すなわち「両方の首を切り落として心が自由になったなら、心は迷いなき剣となり天にあって大威力なのだ」と。両方の首を切り落とすという比喩は穏やかではありませんが「生きていたい」「死にたくない」という二つの思いのことでしょう。それらの迷いをこそ言わばズバリと切り殺すことによって「お前はブレない剣となり最大限の力を発揮できるだろう」というのです
「生きたい」「死にたくない」というのは、自分の好きなことをもっとしたいという欲望のための、土台にあるモノです。その生存欲望にすら制約をかけて捨て去るところに、心はシャキッとし、普段の自分をずっと超えた捨て身の働きができる
○小谷中広之の感情・・・いつでも死ねる覚悟で生きるこことはできないが、常に目の前の事柄を一生懸命に取り組むことはできる
例えば朝目が覚めて顔を洗った後の鏡に映っている自分に向かって「もし今日が人生最後の日だったら今日一日をどんな風に過ごしたいか?」という質問を問い掛けてみよう
その時の答え通りに一日をいや、毎日を過ごせたのなら画期的に人生は自分の思い通りになるだろう
●たとえ、毒蛇の口の中に男性性器を挿入することがあっても女性性器に挿入してはならない
「律蔵」に残る、ブッダの言葉とされるものです
出家僧は男女ともに決して性行為をしてはならない、という戒律がありました。その戒を破った場合、教団を追放されるという点では、殺人と同じレベルの重罪として扱われていたのです
○小谷中広之の感情・・・自分には理解が全くできないが、このような教えすら忠実に守っていた人ももちろん存在し、またその逆も存在していたんだろうな
戒律とは、それを破る者が存在するという想定で出来ているのだろう、もちろん法律もきっとそうなのではないだろうか
つまり、それを破った者が存在していたという証拠になるのではないだろうか
●しわくちゃの老人であろうと絶世の美女であろうと、その皮に覆われた中身は、血と肉が詰まっていて、骨でできた骨組みがあるだけで、どちらも似たようなもの
どんな外見の良い人間を見て「かっこいい」「かわいい」と感じたとしても、その人の血管や内臓を見せられて「かっこいい」「かわいい」と感じることはなく、平均的にはおぞましいものと感じるもの
○小谷中広之の感情・・・まぁこの言葉通りの考え方で人を見ている人は、まず自分の近くには存在していないが自分がこの言葉と出会ったことによって、自分は先日行きかう人々をこのような考え方で見ていた自分に気づいてしまいました
やはり、本の影響は計り知れない
●若い者も老いた者も、一時間経てば、死に向かって一時間ほど、近づく。そのようなすべての生き物に共通するレベルで、私たちは刻一刻と死に向かって走っていっています
死を覚悟することで人間の意識は覚醒します。例えば「あ、いま一回呼吸をした間にも、一呼吸分寿命が尽きたのであることよなぁ」
皆様がこれを読んでいる最中にも寿命が刻一刻と朽ち果てている
そのことを意識しながら読んでいただけるなら、読んでいる最中にきっと心がさえてきて、読み進める読解力も強化されてきているではないでしょうか
目の前のよしなしごとにとらわれて視野が狭くなった時は「ああ、この一瞬にも腐敗して寿命が尽きてゆく」と思いだし、自らに喝を入れて一回、リセット
○小谷中広之の感情・・・今、自分は家に帰るべく歩いている
しかし家に向かっているのは、表面上の事柄で、もっと根本的に考えてみると実際は死に一歩一歩近づいている
そう考えながら、一瞬一瞬を生きてみよう
●昔でしたら、ガンや結核や疫病を患った時点で「ああ死ぬんだな」と諦めざるを得なかった事態に対して、現代医療を用いれば人為によって克服できるようになっていて、いわば諦めさせてくれなくなっている。結果として誰もが90歳くらいまで生きるようになりますから、異様な高齢化社会が実現しているという側面があることでしょう
○小谷中広之の感情・・・今後も、医療技術が進めば進むほど、平均寿命が延び、諦めさせてくれなくなる世の中になるだろう
そして平均寿命が延びて長寿者が増えれば増えるほど介護問題や年金問題、病院問題、雇用問題などが倍増して増えていくことだろう
●自分と雲や水や風や石や犬や猫や他人などを、宇宙的な大きな視点で見渡すなら、それらの問題に大した差など、有りはしません。「あーどれもこれも、自然現象であることよ」
自分が特別でない自然現象にすぎないのなら、あとどれだけ生きるのも、いつ死ぬのかも、操作せずに自然に任せてやればいい
○小谷中広之の感情・・・人間はほかの動植物と違って、脳が発達していているとはいえ、結局は自然現象の中で生きている、そしてそんな人間さえも自然現象なのだろうか
●何らかの問題を解決するためには、まずは何はともあれ「この自分が苦しんでいる」という事実に、目覚めることが大前提になります
○小谷中広之の感情・・・まずは認めてしまおう。「俺は辛い、苦しい」と。そしてその対策を深くしっかりと考え、楽天的に行動に移していこう
●「私はこれをやった。次はこれをしよう。その次は将来にあれをしなくては」こうして先のことばかり考えていて「いま」に心がない人を老いと死があっさりと殺してしまう
なぜ誰もが「自分はボケたり不随になって、介護を必要とする老年期を送るだろう」という将来予想図を、いつの間にか描いてしまっているのでしょうか。ある意味では、社会的に誰もがそのようにマインドコントロールされているせいで「将来ちゃんとした介護が受けられるだろうか」と、心配するハメになっているように思われるのです
それを確言すれば「将来、何歳になってもボケないで明晰な意識を保っていられるようにしよう」「介護など必要としないほど、健全なまま死んでゆけるよう、身体をメンテナンスしておこう」という、概念や信念が欠けているということではないでしょうか
心をボケへと向かわせるのは、過去をダラダラと思い煩ってみたり、もしくは過去の栄光を思い出して、自分がどれほど立派だったのかをつらつら考えたり、他人に自慢して聞かせることでしょう。それを繰り返すほど、頭の中では過去の情報が「より重要なもの」として位置づけられ、反復してそのことばかりを考えるようになります
「いま」を生きるという感覚からしますと、仮に倒れて助けてもらえないまま息絶えたとしても、何か問題があるでしょうか。世間では孤独死を、非常に恐ろしい、あってはならないもののようにあげつらう傾向がありますけれども、それを一種の社会的マインドコントロールを受けてのことのように思えるところがあります。多額のお金を支払わなければ介護してもらえないような社会に対して、自分の生活の基盤をゆだねてしまい、生きることの誇りを失うというのは決して、惨めでもなんでもないと思うのです
私は、人の一生とは要するに、死の間際に「自分の人生、これで悔い無しっ」と笑えるならよし、と考えます。ですから、世間のマインドコントロールを説いて、孤独死するにしても自分はその直前まで「いま」を生き抜く以上は、どう死んでも笑えるからOK
○小谷中広之の感情・・・「将来、介護が必要になったらどうしよう」と悩んでいる暇があるなら、「将来、介護なんか必要としない健康な身体を保つために今、何をするのか」を考える
●生まれるのも老いるのも病むのも、そして究極的には死ぬのも、自分の思い通りには、決してならないもの
○小谷中広之の感情・・・諦め、受け入れるしかない。しかし、今の一瞬一瞬に全力で生きることを決して忘れてはいけない
●はじめに掲げた「老経」の言葉の、前におかれた言葉を引いてみましょう。「ああ、人の命は何と短いもの。百歳にもならず死ぬのか、それより長生きしたとしても老いぼれて死ぬ。人は「自分のものだ」と執着したモノのせいで、苦しむ羽目になる。所有しているものは、永遠ではないのだから。この世のあらゆるものは、存在したかと思えば次には滅び去ってゆくものなのだと観じ、仏道を歩むように」
○小谷中広之の感情・・・所有物は少ないに限る
●死者を泣き悲しむ者が嘆くことによって、自分の身心を害し、やつれ顔色が悪くなるが、それによって死者に良いことは何も起きない
死を嘆き悲しむのは、無意味なこと
それゆえ、嘆き悲しみを捨てるように
命の尽きた亡者に対して「この人にはもう、私は何もできない」と知れ
○小谷中広之の感情・・・ストレートすぎて、面と向かって人にはこんなことは伝えられない
しかし、自分の心の中には残しておこう
●「死後も人々の中で生きる」というバーチャル延命の幻想によって「死」の圧倒的脅威をごまかすという戦略。その戦略のインチキさを見破れば、死の脅威が露出します
そうして死の持つ本来の脅威に向かい合ってこそ、死の問題を本気で乗り越えようとする、仏道の方法論が生きてこようというものなのです
○小谷中広之の感情・・・死は必ず訪れるイベント。その自分のイベントにしっかりと向き合えるようにしよう
●墓に入るのは、あなたなのですか?骨という物体なのですか?
死んだからには、もう墓に入る私なるものは、ここには存在しないのです
そうか、明後日も、半年後も、一年後も、十年後も、その後もずーっとこの意識が永続するかのように錯覚しているからこそ、争いたくもなるのです
この私が死に、いなくなることを、体感するまでイメージする。いなくなるのなら、墓もどうでもいいし、他人の失礼さもどうでもいいし、意見の違いもどうでもよくなるのです。己が去りゆくものであることを知れば、平和
○小谷中広之の感情・・・奪い合うことがなくなること間違いなし
ここまで読んでいただきありがとうございます。読んでいただいた方の人生での何かのお役に立てればとても嬉しいです
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タグ:小池龍之介 様
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