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2015年11月22日

読書感想文『死の壁』  おすすめの文章と自分なりの感情

DSC_1454.JPGこんにちわ小谷中広之です
今回のブログでは私「小谷中広之」が読んだ本の中で気に入った文章を紹介するとともに私「小谷中広之」がその文章に対して感じたこと(感情)を書き、少しでも皆様の何かのきっかけになれればこのうえない喜びです(定期的に読書感想文は更新していきます)
決して細かくは書くことはありませんのでご了承ください
私「小谷中広之」が感じた文章を書きたいと思っております

今回のご紹介する本は、養老孟司様の「死の壁」です

養老孟司様。1937年神奈川県生まれ。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。東京大学医学部教授を退官し、北里大学教授、東京大学名誉教授

気になる文章
●ここは人が死ぬことを考慮していない建物だ
「あそこは若い夫婦が郊外に一戸建てを買うまでに住むところという想定で作ったのです。ある程度そこに住んでお金がたまったら出ていくのです」
と言う。やはり、設計者はそこで人が死ぬということを想定していなかったのです。しかし、いくら若夫婦が住むといいても、何千人も住む団地で人が死なないはずはありません
にもかかわらず、死を想定していない。これはまさに都市化の象徴ではないでしょうか。ここでいう都市とは自然の対義語として使います。人間が死ぬということは自然の摂理です

○小谷中広之の感情・・・そこに住んでいる人が将来的に死ぬ、集合住宅内や部屋の中で亡くなったさいの遺体の搬送経路や亡くなってしまった方の生前の願い(個人的には聞いたことはないがもしかしたらこのようなことを願っている人が日本にいるかもしれない)の自宅で通夜を行うという方のためなどの考慮がされている集合住宅は日本に存在しているのだろうか
また、一刻を争うような生死を決めかねないトラブルやケガ、病気になってしまった住民の方のための準備が今の日本の集合住宅には完備されているのだろうか
このことは集合住宅に限らず一般住宅にも同じことが言えるのではないだろうか
今後、集合住宅や戸建の住いに引っ越す際にはこのこともしっかりと頭に入れ考えよう

●中世に描かれた「九相詩絵巻(クソウシエマキ)」という絵画。ここでは死体が少しずつ腐っていく様、朽ち果てていく様が、きわめてリアルに描かれています
○小谷中広之の感情・・・この本を読んで「九相詩絵巻」のことを知りさっそくネットで検索して見てみました
生きている女性の絵→死んだ直後→遺体を沐浴させる→生前身につけていた着物をかぶせる→死体が膨張、腐敗し鳥や犬などが食いあさり→白骨
人間、火葬などなくどこかの地で朽ち果て誰にも発見されずにいた場合はこのようになっていくのだ

●便を無くすことができないのと同様に、死体を消すことはできないのです
となると、「死だの死体だのは見たくもないし、考えたくもない」という姿勢は、当たり前のことを見ようとしていないということに他ならないのです
インドのガンジス河あたりに住んでいる人はますます違う
沐浴をしている横を死体がぷかぷか浮かんで流れていくのですから。おそらく彼らは死体を気持ち悪いとも思っていないのではないかと思います。どう思っているかと言えば、「俺もいずれああなる」というくらいではないでしょうか

○小谷中広之の感情・・・あらゆる生命はいずれは死体や死骸になる。致死率100%に向かって生まれてきたのだから

●「一人称の死体」。英語で言うと一人称はすなわちIです。つまり「俺の死体」です。これは「ない死体」です
もっとも身近なもののようにも思えますが、実はこれは存在しません。言葉としては存在していますが、それを見ることはできないのです
「二人称の死体」。英語で言えばYOU
親しい人の死体は死体に見えない。それが「死体ではない死体」ということです
例えば道を歩いていたら交通事故があったらしい。倒れている人がいる。どうも事故死者が出たらしい。遠くで見る分には、それはただの死体でしかない。「気の毒に」と思うか「気持ち悪い」と思うかはともかく。それは他人の死体でしかないのです
が、近くに寄ってみたら自分の身内だとわかった。その途端に、どんなに相手の反応がなかろうと、抱き上げたり声をかけたりするでしょう
「三人称の死体」とは何か。「三人称」とは英語で言うHeやShe、あるいはitのことです。ここで亡くなっているのは第三者、赤の他人のことです。これが「死体である死体」です
大災害や戦争の後には、そこらじゅうが死体だらけになります。それでもその辺を歩いている人間は、意外と平気だったりします。これはその周囲の死体が「三人称の死体」だからにほかなりません
無関心ならまだしも、下手をする「三人称の死体」というのは半分娯楽のようになっている。楽しんでいる人もいるように思えます

○小谷中広之の感情・・・一人称、二人称、三人称。この言葉は今後の自分の人生で必要な言葉になりそうだ

●中国には「墓を暴いて死者に鞭打つ」という考え方があります。これも。日本とは別のルールがあって、中国人は死んだ後も「そいつはそいつだ」と思っているからでしょう。死んだからといって別人になるわけではないのだ
○小谷中広之の感情・・・靖国問題に何か関係しているかもしれない

●福沢七郎に「みちのく人形たち」という小説があります。作家である「私」がひょんなことから知り合った東北の男性の家を訪ねていく。その男性は村人たちからは「旦那さま」と呼ばれていた
なぜそう呼ばれているのか。男性は、自分の家が代々罪深いことをしている、だから村人はそう呼ぶのだと言います
その家に、「嫁が産気づいた」と村人がやってきます。「私」はてっきり、その家の奥さんが産婆さんなのかと思います。が、村人はその家から屏風を借りただけで帰っていきます
どういうわけか村人たちは妊婦が産気づくと、その家に屏風を借りにくるようです
翌日、「私」は男性と一緒に、屏風を貸した家を訪ねます。家からは線香の匂いがただよってきます。尋ねた先の家の老婆は「母子ともに変わりありませんでした」と言いました
出産が終わった家には、例の屏風が立ててあります。その向こうには箱がいるのだろうと思った「私」はあることに気づきます。屏風が逆さに立っているのです。「逆さ屏風」は死者のそばに立てるものなのです
ではなぜ「母子ともに変わりありませんでした」なのか。「私」は男性に、あの家で何か不幸があったのではないかと尋ねます。そこでようやく男性は、自分の家の「罪」を語り始めます
彼の先祖はその村で代々産婆をしていました。産婆ですからもちろん出産を手伝うわけですが、同時に闇引きを手伝いうことも多かったようです。生まれたばかりの嬰児(エイジ)が産声を上げる前に産湯のタライの中に入れて呼吸を止めてしまうのです
屏風は生まれてくる子尾活かしたいか、闇引きしたいかを産婆に伝えるサインに使われていたのです。逆さならば闇取引したいという意味です
すでに男性の家は産婆はやっていないのですが、その村では彼の家から屏風を借りるのが習わしになっていたのです。「母ことも変わりない」というのは、予定通り、産婦は大丈夫で子供は亡くなった、という意味だだったのです
「渡す」と男性がこの話をしている部屋に仏壇があった。その中には彼の先祖のお婆さんをモデルにした仏像が飾ってあります。そしてその仏像には両腕がありませんでした
お婆さんは家業の産婆をやっていました。年をとってからお婆さんはそれまでの「罪を重ねたその手」を切り落としたというのです。自分ではできないから身内にやってもらったそうです
お婆さんはもちろんこと、その子孫である男性もいまだにその罪深さは背負っているということでした
重苦しい話を聞いた後、「私」はその地を去ります。その時土産物屋でコケシが目にとまります。その人形がお婆さんの仏像とオーバーラップしていきます
コケシはもともと「子消し」からきているという説もあります。庶民の間でも、こういう仕事について「業」というモノがついて回るという意識があったことが伝わってくる小説です

○小谷中広之の感情・・・この小説は読む、いつ出会えるかわからいけれども手帳に今後であったら購入する本のリストに入れておこう
こけしを見るたびにきっとこのストーリーが思い出されるだろう

●安楽死を安易に考える人は「死にたいっていうんなら死なせてあげればいいじゃないか」というかもしれません。「植物状態で生かしても、本人も家族も不幸なだけだ。早くけりをつけた方がいい」というのは簡単です。しかし、そういう人は、少なくとも「死なせる側」の医師の立場は全く考えていない
○小谷中広之の感情・・・この文章を読むまで「死なせる側」つまり、安楽死をさせるお医者さんのことを考えたことが恥ずかしながらなかった
安楽死をさせてあげる、ということも結局は殺人ということになってしまうのかもしれない
安楽死をさせてあげたお医者さんは決して誇らしくなることもなく、やり遂げた感を感じるのではなく、罪悪感のようなものを抱いてしまっているのかもしれない

●「人の命は地球より重い」という類の人命尊重論は、戦争の反動から発生しました。戦争中は、本当に人の命が軽かった。その反動が生じるのは当然のことでしょう
ただし、その理念がタテマエなのは言うまでもありません。いるかどうかわからない橋をかけるのに、工事関係者は何人も死んでいるのです。車社会になって年間一万人も死んでいるのに、車を無くそうという人は少数派です

○小谷中広之の感情・・・便利になればなるほど、比例して命が危険にさらされるリスクが上がるのではないだろうか、あらゆる交通手段や原子炉、蚊取り線香(火事)や薬物など

●人事にせよ、死にせよ、いずれも「なかったことにする」ことはできません。死は回復不能です。一度殺したハエを生き返らせることはできません
だから人を殺してはいけないし、安易に自殺してはいけない。安楽死を始め、死に関することを簡単に考えない方がよい
しかし、原則で言えば、人生のあらゆる行為に回復不能な面はあるのです。死が関わっていない場合には、そういう面が強く感じられないというだけのことです
普段、日常生活を送っているとあまり感じないだけで、実は毎日が取り返しがつかない日なのです。今日という日は明日にはなくなるのです
人生のあらゆる行為は取り返しがつかない
そのことを死くらい歴然と示しているものはないのです

○小谷中広之の感情・・・今日より良い明日はない
今目の前のことに常に一生懸命に生きよう



ここまで読んでいただきありがとうございます。読んでいただいた方の人生での何かのお役に立てればとても嬉しいです

この本の他の文章が気になった方下記のサイトで購入可能です。






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