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2024年09月24日

心理学統計の検定を用いて中島敦の「山月記」を考える4

2.3 「山月記」の登場人物に見る記憶範囲の違い

 「山月記」は、己を失くし妻子を苦しめた李徴が後悔しながらも最後は旧友袁參に素直な気持ちを伝えるというストーリーである。ここでは、この小論の研究テーマ、記憶範囲の違いについて、作成したデータベースを基に考察していく。

解答 記憶範囲の違い
表1 具体度

一年の後、公用で旅に出、汝水のほとりに宿った時、遂に発狂した。或る夜半、急に顔色を変えて寝床から起上ると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま下にとび下りて、闇の中へ駈出した。彼は二度と戻って来なかった。附近の山野を捜索しても、何の手掛りもない。その後李徴がどうなったかを知る者は、誰もなかった。李徴1 袁參0

翌年、監察御史、陳郡の袁參という者、勅命を奉じて嶺南に使いし、途に商於の地に宿った。次の朝未暗い中うちに出発しようとしたところ、駅吏が言うことに、これから先の道に人喰虎が出る故、旅人は白昼でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれた方が宜しいでしょうと。李徴0 袁參1

袁參は、しかし、供廻りの多勢なのを恃み、駅吏の言葉を斥けて、出発した。残月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、果して一匹の猛虎が叢の中から躍り出た。虎は、あわや袁參に躍りかかるかと見えたが、忽ち身を飜して、元の叢に隠れた。叢の中から人間の声で「あぶないところだった」と繰返し呟くのが聞えた。李徴2 袁參1

その声に袁參は聞き憶えがあった。驚懼の中にも、彼は咄嗟に思いあたって、叫んだ。「その声は、我が友、李徴子ではないか?」袁參は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少なかった李徴にとっては、最も親しい友であった。温和な袁參の性格が、峻峭な李徴の性情と衝突しなかったためであろう。李徴2 袁參2

叢の中からは、暫く返辞が無かった。しのび泣きかと思われる微な声が時々洩るばかりである。ややあって、低い声が答えた。「如何にも自分は隴西の李徴である」と。李徴2 袁參2

花村嘉英(2019)「心理学統計の検定を用いて中島敦の『山月記』を考える」より

心理学統計の検定を用いて中島敦の「山月記」を考える3

2.2 実験計画

【研究テーマ】
質問 登場人物の記憶範囲の違い。
帰無仮説 記憶範囲に差がない。
対立仮説 記憶範囲に差がある。
【実験計画】
独立変数 実験や調査をする人が仮説を検証するために使用する変数。原因と結果でいうと原因である。
従属変数 独立変数の操作に応じて変化すると考えられる変数。原因と結果でいうと結果である。
【要因と水準】
要因 実験者が使用する変数。独立変数そのもの。
水準 実験者が使用する種類。独立変数が実際にとる値。
【参加者間要因と参加者内要因】
参加者間要因 水準のデータが異なる標本から集められる場合。
参加者内要因 水準のデータが同じ標本から集められる場合。
【有意確率】
帰無仮説を前提としたときに、誤差から偶然ある程度の差が標本に生じる確率のこと。危険率とかP値という。また、誤差には、本当はないのに誤って誤差があるとする第一種と誤差があるのに誤ってないとする第二種とがある。実吉(2013)では、5%水準を基準にしている。

花村嘉英(2019)「心理学統計の検定を用いて中島敦の『山月記』を考える」より

心理学統計の検定を用いて中島敦の「山月記」を考える2

2 心理学統計

心理学統計では、心の働きを数値化しながら客観性を計り、集計や分析を試みる。心を測定する時は、様々な要因がデータに含まれるため、データには誤差が付き物である。そのため、統計学により誤差を取り除き真の値を求めていく必要がある。そうすると、限られた人数のデータから人間一般に共通する心の働きも推測可能になる。

2.1 有意性検定

 科学では全般的に仮説を立てて検証する方法が使われる。実吉(2013)によると、検定の際に仮説が成り立つかどうかは、作成したデータから決めていく。検定の対象は、そこに有意性の差があるかどうかである。例えば、男女で不安度に差があるのかどうか、または満足度に差があるのかどうか。こうした問題に対してデータを集めながら検定すると、解答が見えてくる。

【検定の流れ】
帰無仮説と対立仮説を立てる → 独立変数と従属変数を具体的に決め、実験計画を立てる → データを取る → 実験計画に応じた統計検定を行う → 得られた有意確率(p値)を有意水準と比較する → 帰無仮説の棄却、採択を決定する

 ここで、帰無仮説とは、比較する数値間に差がないという仮説である。対立仮説は比較する数値間に差があるとする仮説である。検定では、まず帰無仮説が正しいことを前提に検討され、帰無仮説が成り立たなければ、それを棄てて対立仮説に移り、差があるという結論にする。つまり背理法による命題の証明である。

花村嘉英(2019)「心理学統計の検定を用いて中島敦の『山月記』を考える」より

心理学統計の検定を用いて中島敦の「山月記」を考える1

1 先行研究との関係

データベースを作成ながら購読脳と執筆脳を分析するシナジーのメタファーの研究も次第に安定してきている。これまでバランスを意識して二個二個のルールに基づき多くの組み合わせを作ってきた。統計についても、バラツキ、相関関係、多変量分析と進み、今回の心理学統計を含めれば、バラツキと相関、多変量と心理という組み合わせができる。この小論では、実吉(2013)の心理学統計の検定の手法に従い、中島敦の「山月記」を題材にして登場人物の記憶範囲について考えていく。 

花村嘉英(2019)「心理学統計の検定を用いて中島敦の『山月記』を考える」より

中島敦の「山月記」の多変量解析−クラスタ分析と主成分10

6 まとめ 

 データベースの数字を用いてクラスタ解析から得られた特徴を場面ごとに平均、標準偏差、中央値、四分位範囲と考察し、それぞれ何が主成分なのか説明できている。そのため、この小論の分析方法は、既存の研究とも照合ができ、統計による文学分析がさらに研究を濃いものにしてくれている。

【参考文献】
片野善夫 ほすぴ162号 知っているようで知らない五感のしくみ−視覚 日本成人病予防協会 2018
加藤剛 多変量解析超入門 技術評論社 2013
中島敦 山月記 青空文庫 
花村嘉英 計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか? 新風舎 2005
花村嘉英 从认知语言学的角度浅析鲁迅作品−魯迅をシナジーで読む 華東理工大学出版社2015
花村嘉英 日语教育计划书−面向中国人的日语教学法与森鸥外小说的数据库应用 日本語教育のためのプログラム−中国語話者向けの教授法から 森鴎外のデータベースまで 南京東南大学出版社 2017
花村嘉英 シナジーのメタファーの作り方−トーマス・マン、魯迅、森鴎外、ナディン・ゴーディマ、井上靖 中国日語教学研究会上海分解論文集 華東理工大学出版社 2018
花村嘉英 从认知语言学的角度浅析纳丁・戈迪默 ナディン・ゴーディマと意欲 華東理工大学出版社 2018
花村嘉英 川端康成の「雪国」から見えてくるシナジーのメタファーとは−「無と創造」から「目的達成型の認知発達」へ 中国日語教学研究会上海分解論文集 華東理工大学出版社 2019
花村嘉英 「中島敦の「山月記」の多変量解析−クラスタ分析と主成分」より ファンブログ 2019 

中島敦の「山月記」の多変量解析−クラスタ分析と主成分9

【カラム】
A平均1.8 標準偏差0.45 中央値2.0 四分位範囲2.0
B平均1.0 標準偏差0 中央値1.0 四分位範囲1.0
C平均1.8 標準偏差0.45 中央値2.0 四分位範囲2.0
D平均1.6 標準偏差0.55 中央値1.0 四分位範囲1.0
【クラスタABとクラスタCD】
AB 平均1.4普通、標準偏差0.22普通、中央値1.5普通、四分位範囲1.5低い
CD 平均1.7高い、標準偏差0.5低い、中央値1.5普通、四分位範囲1.5低い
【クラスタからの特徴を手掛かりにし、どういう情報が主成分なのか全体的に掴む】
Bの標準偏差数字が0のため、両者の振舞いを描こうと思っている。
【ライン】合計は、言語の認知と情報の認知の和を表す指標であり、文理の各系列をスライドする認知の柱が出す数字となる。
@ 7、視覚以外、直示、新情報、未解決 → 李徴の慟哭の声と自嘲的な声。
A 5、視覚、直示、新情報、解決 → 妻子より己を優先させたため、虎になった。 
B 7、視覚、直示、新情報、未解決 → 帰途にこの道を通らないよう願う。
C 7、視覚以外、直示、新情報、未解決 → 芳子が就寝時の祖母の様子を語る。
D 5、視覚、直示、新情報、解決 → 李徴も袁參も涙の中に別れた。
【場面の全体】
 視覚情報が6割ほどしかなく、脳に届く通常の五感の入力信号の割合よりも低い。従って、ここでは視覚以外の情報が役に立っている。

花村嘉英(2019)「中島敦の「山月記」の多変量解析−クラスタ分析と主成分」より

中島敦の「山月記」の多変量解析−クラスタ分析と主成分8

◆場面3 

言終って、叢中から慟哭の声が聞えた。袁もまた涙を泛べ、欣んで李徴の意に副いたい旨を答えた。李徴の声はしかし忽ち又先刻の自嘲的な調子に戻って、言った。A2B1C2D2
本当は、先まず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕すのだ。A2B1C1D1
そうして、附加えて言うことに、袁參が嶺南からの帰途には決してこの途を通らないで欲しい、その時には自分が酔っていて故人ともを認めずに襲いかかるかも知れないから。又、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、此方を振りかえって見て貰いたい。A2B1C2D2
自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。勇に誇ろうとしてではない。我が醜悪な姿を示して、以って、再び此処を過ぎて自分に会おうとの気持を君に起させない為であると。A2B1C2D2
袁參は叢に向って、懇ろに別れの言葉を述べ、馬に上った。叢の中からは、又、堪え得ざるが如き悲泣の声が洩もれた。袁參も幾度か叢を振返りながら、涙の中に出発した。A1B1C2D1

花村嘉英(2019)「中島敦の「山月記」の多変量解析−クラスタ分析と主成分」より

中島敦の「山月記」の多変量解析−クラスタ分析と主成分7

【カラム】
A平均2.0 標準偏差0 中央値2.0 四分位範囲2.0
B平均1.2 標準偏差0.45 中央値1.0 四分位範囲1.0
C平均1.4 標準偏差0.55 中央値1.0 四分位範囲1.0
D平均1.6 標準偏差0.55 中央値1.0 四分位範囲1.0
【クラスタABとクラスタCD】
AB 平均1.6普通、標準偏差0.22低い、中央値1.5普通、四分位範囲1.5高い
CD 平均1.5普通、標準偏差0.55普通、中央値1.0低い、四分位範囲1.0低い
【クラスタからの特徴を手掛かりにし、どういう情報が主成分なのか全体的に掴む】
壁越しの会話であり、情報は旧から新、問題は未解決から解決へ進んでいく。
【ライン】合計は、言語の認知と情報の認知の和を表す指標であり、文理の各系列をスライドする認知の柱が出す数字となる。
@ 6、視覚、直示、旧情報、未解決 → 李徴は己の自尊心を認める。
A 6、視覚以外、直示、新情報、未解決 → 臆病な自尊心である。
B 6、視覚、直示、旧情報、未解決 → 他方に尊大な自尊心もある。
C 7、視覚以外、直示、旧情報、未解決 →尊大な自尊心は虎であった。
D 6、視覚以外、隠喩、新情報、解決 → 己を損ない知人を傷つけ、外形を内心にふさわしいものにしてしまった。
【場面の全体】
 視覚情報が4割のため、通常の五感の入力信号の割合よりも低いため、視覚以外の情報が問題解決に効いている。

花村嘉英(2019)「中島敦の「山月記」の多変量解析−クラスタ分析と主成分」より

中島敦の「山月記」の多変量解析−クラスタ分析と主成分6

◆場面2

何故こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依れば、思い当ることが全然ないでもない。人間であった時、己は努めて人との交りを避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云いわない。A2B1C1D2
しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。A2B1C1D2
共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心とのせいである。己の珠に非ることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。
A2B1C1D2
己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。A2B2C2D1
これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。今思えば、全く己は、己の有っていた僅ばかりの才能を空費して了った訳だ。
A2B1C2D1

花村嘉英(2019)「中島敦の「山月記」の多変量解析−クラスタ分析と主成分」より

中島敦の「山月記」の多変量解析−クラスタ分析と主成分5

【カラム】
A平均1.8 標準偏差0.45 中央値2.0 四分位範囲2.0
B平均1.0 標準偏差0 中央値1.0 四分位範囲1.0
C平均1.8 標準偏差0.45 中央値2.0 四分位範囲2.0
D平均1.4 標準偏差0.55 中央値1.0 四分位範囲1.0
【クラスタABとクラスタCD】
AB 平均1.4普通、標準偏差0.22低い、中央値1.5普通、四分位範囲1.5高い
CD 平均1.6普通、標準偏差0.5低い、中央値1.5普通、四分位範囲1.5高い
【クラスタからの特徴を手掛かりにし、どういう情報が主成分なのか全体的に掴む】
Bのバラツキが小さくて、直示のジェスチャーが多いことから、登場人物はよく動いている。
【ライン】合計は、言語の認知と情報の認知の和を表す指標であり、文理の各系列をスライドする認知の柱が出す数字となる。
@ 7、視覚以外、直示、新情報、未解決 → 李徴が発狂した。
A 7、視覚以外、直示、新情報、未解決 → 旧友の袁參が近くを通る。
B 5、視覚、直示、新情報、解決 → 果たして人喰虎が出没した。
C 6、視覚以外、直示、新情報、解決 → 声に聞き覚えがあり、李徴の声とわかる。
D 5、視覚以外、直示、旧情報、解決 → 李徴も声の主と認める。
【場面の全体】
 全体で視覚情報は2割であり、脳に届く通常の五感の入力信号の割合よりもかなり低いため、視覚意外の情報が問題解決に効いている。

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プロフィール
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花村嘉英
花村嘉英(はなむら よしひさ) 1961年生まれ、立教大学大学院文学研究科博士後期課程(ドイツ語学専攻)在学中に渡独。 1989年からドイツ・チュービンゲン大学に留学し、同大大学院新文献学部博士課程でドイツ語学・言語学(意味論)を専攻。帰国後、技術文(ドイツ語、英語)の機械翻訳に従事する。 2009年より中国の大学で日本語を教える傍ら、比較言語学(ドイツ語、英語、中国語、日本語)、文体論、シナジー論、翻訳学の研究を進める。テーマは、データベースを作成するテキスト共生に基づいたマクロの文学分析である。 著書に「計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?」(新風舎:出版証明書付)、「从认知语言学的角度浅析鲁迅作品−魯迅をシナジーで読む」(華東理工大学出版社)、「日本語教育のためのプログラム−中国語話者向けの教授法から森鴎外のデータベースまで(日语教育计划书−面向中国人的日语教学法与森鸥外小说的数据库应用)」南京東南大学出版社、「从认知语言学的角度浅析纳丁・戈迪默-ナディン・ゴーディマと意欲」華東理工大学出版社、「計算文学入門(改訂版)−シナジーのメタファーの原点を探る」(V2ソリューション)、「小説をシナジーで読む 魯迅から莫言へーシナジーのメタファーのために」(V2ソリューション)がある。 論文には「論理文法の基礎−主要部駆動句構造文法のドイツ語への適用」、「人文科学から見た技術文の翻訳技法」、「サピアの『言語』と魯迅の『阿Q正伝』−魯迅とカオス」などがある。 学術関連表彰 栄誉証書 文献学 南京農業大学(2017年)、大連外国語大学(2017年)
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