夜の静寂を破るように、山間の寺院の鐘が低く響いた。そこは虚空蔵菩薩を祀る寺。古い石段を上り詰めた先に広がる境内には、無数の灯明が揺れ、柔らかな光が菩薩像を照らしていた。
その像は一つの顔に二本の腕を持ち、右手には鋭い剣、左手には如意宝珠を掲げている。まるで無限の智慧と慈悲を湛えたその姿は、見る者の心を静め、同時に震わせた。五仏宝冠を戴いた坐像の背後には、星空が無言の証人のように輝いている。
「虚空蔵菩薩よ…どうか私に力を。」
若い修行僧、智恵は祈りの声を静かに響かせた。彼の眼差しは決意に満ち、手には真言の経巻を握りしめている。彼の目標は「虚空蔵求聞持法」の成就だった。この秘法を極め、百万遍の真言を唱え終えれば、無限の記憶力と仏の智慧を体得できるという。しかし、その道のりは遥かに厳しく、心を砕かれるほどの試練が待ち受けている。
智恵はかつて、成績の低迷に苦しむ少年だった。記憶力が乏しく、学びの道を諦めかけた日々。そんな彼を救ったのが、この虚空蔵菩薩の教えだった。「無限の智慧と慈悲を分け与える存在」――その言葉に心を打たれた彼は、寺に身を寄せ、修行に励むことを選んだ。
寺の奥には五大虚空蔵菩薩が祀られている部屋がある。虚空蔵菩薩の智慧を五方に配し、それぞれが異なる側面を持つ。増益をもたらし、除災を願う人々の思いが込められたその姿は、金剛界五仏の変化形とも言われている。智恵はその一体一体に額をつけ、深々と祈った。
丑と寅の年に生まれた人々にとって、虚空蔵菩薩は特別な存在だという。厄除けや開運、祈願成就を助ける守護本尊。それを知った智恵は、自らの生まれ年が寅であることに奇妙な縁を感じていた。
「百万遍、唱え終えたとき、私も…」
智恵は深く息を吐き、虚空蔵菩薩を見上げた。その眼差しに宿るものは、恐れではなく希望だった。修行の旅路は続く。星々が煌めく夜空の下、彼の祈りと共に真言の声が寺院に響き渡る。その響きは、まるで宇宙そのものが耳を傾けているかのように深く広がっていった。
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