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2015年10月17日

地球市民新聞・018号・自信いっぱいの笑になるコツ



・心のプレーゼンテーション・人間寺



人間寺・018号言葉

新しい自分に変わる・ブッダの言葉

自分のことが嫌いなあなたへ。

自信いっぱいの笑になるコツ


自分自身に向かって怒ることをせず、


周囲の状況に惑われされることがない修行者は、幸せである。


蛇が古い皮を脱ぎ捨てるように、この修行者は超越した存在になる。


解説・土肥六実

周囲の状況の変化に、しばしば惑わされ、動揺してしまいます。

勤める会社の業績がガックリ下がれば、「この先、私はリストラされるのではないか?」と不安になります。

そして、「もしリストラされたら、それは私の働きが悪かったからだ。

私は本当にダメな社員だと自分を責めます。

職場の同僚たちが、一昨日のカラオケは楽しかった!」と話すのが聞こえたけれど、自分は誘われていなかったとしたら、「なぜ私だけ声をかけてもらえなかった?仲間外れにているのか?」と不安になります。

そして、「仲間外れにされるのは、私が悪いからだ、こんな自分は、嫌いだ、もうイヤだ」と、自分へ怒りを覚えます。

しかし修行者は、「周りで、どんなことが起ころうとも、平然としていなさい。自分自身に対して怒ったり、自分を嫌ったりしてはいけない」と教えます。

「何が起こっても動しない自分」に生まれ変われるには、もっと自信を持てるような生き方をすると、そして、楽観的でいることが大切です,


それには、「自分はやるベきことは、しっかりやっている!」といえるように、日々を、精一杯生きること。

そして、「悪いこともしていない。その結巣、何が起ころうと、人からどんな目で見られようと関係ない。


この先も、自分は自分の進むべき道をいくだけ」


と、天に任せておけばいいのです。


◎どんなことが起ころうと、平然としている。自分を痛めつけない。


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皆神山の謎 第四部 一厘の仕組篇 第四章 世界を支配するもの



今回は2011.08.06に撮影した東北の太平洋沿岸の被災地のリポートを編集しま-した。

この災害は人工的に起こされたものだという話が直後から囁かれていました。

実際-検証していくとおかしな事実がたくさん出てきます。そこには我々の知らない世界が潜ん-でいます。

 「一厘の仕組篇」を公開しようと決断したのも、実はこの震災がきっかけでした。

自分の-できることをやろう、と思ったわけです。更なる深みに足を踏み入れる第一歩でもありま-す。

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心と人間シリーズ


宗教なんて大っ嫌いな人へ


仏教は宗教ではない


仏教の教えを簡単に 2.釈迦の教え




二、ひとつの仮定

ここで、ひとつの仮定をしてみましょう。例えば、今あなたが突然、死んでしまったとします。

そこにあなたの死体が転がっています。

でも、なぜかあなたは自分の死体が見えるのです。

自分が死んで目の前に転がっているのを見ているのです。

これはあくまで仮定ですから、事実がどうかということは今、問題ではないのです。

ただ、あなたは肉体から離れた自分というものの存在を感じたということにします。

さあ、もうあなたにこの世の肉体はありません。

この世のものには何も触れることができません。

おいしいものを食べることも、愛する人に触れることも、会社で仕事をすることもできません。

苦労してためたお金も、勝ちとった地位も、名誉も、この世であなたのものだと思っていたもの全てがあなたの手の届かないところへ行ってしまいました。

結局、そういうものは、この世限りの物で、いずれは捨てなければならないのです。

まあ、この世ではそれなりに価値はあるし、それを得る過程での努力は大切だと思いますが、そういったものに執着を持つべきではないのです。

また、お金、地位、名誉を得ることによって、自分は偉いんだと思い込んだり、他人を見くだしたりすると、人からの信頼も得られなくなり、誰からも尊敬されなくなります。

そういうものをふりかざしていると、羽振りのいい時はいいかも知れませんが、もし下降線を辿ろうものなら、誰もついてこなくなり、寂しい思いをするのは自分です。

また、それを得る過程で、人を踏み台にしたり、傷つけたりしていると、悲惨な目に会うのは間違いありません。

そして、もしこのように死んでしまって手が届かなくなったとすると、そういうものにしがみついて生きていた人がいかに哀れであるか、想像がつくでしょう。


さあ、肉体を失ってしまった今、あなたに残されたものとは一体なんでしょう。それはあなたの「心」だけです。

あなたが「自分はここにいる」と思っている意識だけです。

そして、もし、これから3次元でない世界で暮らすことになるとすれば、あなたの「心」が、いかに豊かなものであるかが問題になってきます。

あなたが3次元世界で生きていた時、いかに自分の欲望を満たすことや、個人の利益ばかりを追求することなく、全ての人に平等に暖かく接し、社会に奉仕し、自然をいたわり、豊かで大きな「心」をつくったかが問題になってきます。

そんな馬鹿なことがあるはずはない、死んでしまえば肉体と共に意識も全てなくなるんだから、そんなこと考えるだけ無駄だと思う気持ちもわかります。

しかし、宇宙の果てもわからないあなたに、あの世が100%「ない」と言い切れますか。また、たとえないと思っても、「もしあったら…」と仮定して物事を考えられるくらいの、柔軟な思考力は持っていた方がいいと思います。

そして、この仮定ができるか、できないかが、豊かな心をつくれるか、つくれないかの境目のような気がします。

つづく



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「愛」の意味は変わった


 では、「愛とは何ですか」と問うならば、日本人の多くはどのように答えるでしょうか。

「恋愛」「人を好きになること」「慕うこと」「かわいがること」なども答えもあるでしょうが、それだけでなく、「人を思いやること」という答えも返ってくるでしょう。


あるいは、「人に親切にすること」という答えも返ってくるでしょう。

「愛とは人を思いやることだ」とは、今日多くの日本人が持つに至った理解です。

ところが、昔の日本には、「愛」という言葉にそのような意味はありませんでした。

じつは仏教には、慈しみを意味する「慈悲」と、愛欲・愛着を意味する「愛」という言葉があります。

仏教の「愛」は、異性、お金、名声などへの「執着心」の意味なのです。

仏教の「愛」は、欲望の一種であり、煩悩の一つにすぎません。

そのため、仏教では「愛」を否定しています。『法句経』にこう書かれています。

「愛より憂いが生じ、愛より恐れが生ず。愛を離れたる人に憂いなし、なんぞ恐れあらんや」


 この「愛」は、執着心の意味です。仏教では、「愛を離れること」が理想なのです。

ですからかつての日本人は、この仏教の「愛」概念にしたがって、「愛」に否定的な意味しか見ていませんでした。

それが明治時代の頃から、しだいに「愛」という言葉の意味が、少しずつ変わってきました。

今日では、愛とは「人を思いやることだ」「人生において最も大切なものだ」などの捉え方を、多くの日本人がしています。

「愛」に、積極的な新しい意味を見ているのです。

これはじつは、キリスト教の影響によるものなのです。

キリスト教においては、人に対して良いことをなすことを、「愛」と呼んでいます。

今日の日本人が、「愛」に肯定的・積極的な意味を見るようになった背景には、このキリスト教の愛の思想が影響しているからです。

かつて江戸時代において、「愛」は「愛着・執着・愛執」の意味しかありませんでしたから、キリシタンはキリスト教の「愛」(原語アガペー)を、「大切」「思い」「懇切」等と訳していました。

明治になると、クリスチャンたちは「愛」の語を、「和訳聖書」の中でも、説教の中でも、堂々と使うようになりました。

その結果、日本語の意味そのものに変化が起こったのです。

しかし、「愛」の新しい意味がすぐ広まったわけではありません。はじめの頃は、大変だったようです。

 実際、こんなエピソードもありました。明治時代に宣教師が、聴衆に対して大声で、
「神は愛なり!」と叫ぶと、思わず噴き出してしまった人々がいたそうです。


その人々はまだ、仏教的な「愛」の理解しか持っていなかったのでしょう。

このように仏教の「愛」と、キリスト教の「愛」では、意味が大きく違っています。

キリスト教の「愛」と比べられるものは、仏教においては、「慈悲」でしょう。

そこで仏教の「慈悲」と、キリスト教の「愛」とを対比して考えてみましょう。

(仏教の「愛」は、新約聖書でいう「エロスの愛」、仏教の「慈悲」は新約聖書でいう「アガペーの愛」に相当すると考え、両者を比較してもよい)

仏教ははじめ積極的な慈悲の教えを持っていなかった

仏教徒は、「慈悲」とは"苦を抜き楽を与えること"である、と説明しています。

慈悲とは、他の人の不幸を抜き去り、それに替えて幸福を与えることです。

この慈悲の教えは、はじめから仏教の中心的な教えだったのでしょうか。

どうもそうではないようです。

「慈悲」が盛んに言われだしたのは、大乗仏教の時代になってからです。

シャカの説いた原始仏教においては、「慈悲」は中心的な教えではありませんでした。

それどころか、「慈悲」が実際に説かれることは、きわめてまれでした。

シャカの原始仏教、および小乗仏教は、「出家」主義の仏教です。

それは出家した者だけが救われる、という教えです。

出家主義の仏教では、他の人々との関わり合いは、重視されません。

ですからそこに「慈悲」という考えが入り込む余地は、ありませんでした。

仏教の考え方を説明するために、よく次のようなたとえが使われます。

ここに、幅の広い、流れの急な川があったとしましょう。

川のこちら側(此岸)は、私たちのいる迷いの世界であり、煩悩の世界です。

川を渡った向こう岸(彼岸)は、悟りの世界、あるいは生死の苦しみの消え去った静けさの境地です。

仏教では、この彼岸を「涅槃」と呼んでいます。

仏教の目的は、人々がこの川を渡って、彼岸である涅槃に達することです。

どうすれば川を渡れるでしょうか。最も普通の渡り方は、泳いで渡ることです。

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妙法・あなたが生まれた意味と理由


シリーズ6

意味はないけど、意味を自分でつけてしまおう。

意味はないけど、意味を自分でつけてしまおう。

生きる目的を与えられず生きてきました

ただ、生まれてきました。

そうした前提がありながらも、生まれもってすでに持っていることがあります。

面持ち、性格、身体的特徴、得意なこと、人種。

これらを生かして生きる、ということはできます。

それを自分が与えられた使命として解釈してしまうのです。

あえて自分から「よい意味で勘違いを進んでする」といった感じです。

私には「文章を書くのが得意」「考えることが好き」「読書が大好き」という性格的特徴があります。

こうした生まれ持った性格を生かせば、ほかの人より伸びていくことはできます。

もともと、書くことが得意なのですから、それを生かさない手はありません。

もちろん自分の個性を無視して生きることもできます。

しかし、個性を生かしたほうが、生活に活力と緊張感があふれます。

「豊かさにつながる」と思っているから、使命という意識を持って生きることができます。

自分で、あえてそう思い込んでいます。

「自分はこのために生まれてきたのだ。これを自分の得意技にするぞ」と解釈が可能です。

生きることは、何か目的が必要です。

生まれてしまったから、仕方なくただ生きるというのは、むなしい。

せっかく生まれてきたのですから、自分なりに生活が向上する目的を持ちたいものです。

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