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2015年10月25日
地球市民新聞・95号・【Part3】本当の強さとは。 人生の本質に気づく言葉
心のプレーゼンテーション・人間寺
95号・のことわざ
歩く足には棒当たる
あるくあしにはぼうあたる 意味外出したり活躍したりすれば、
それだけ災いや障害につき当たる率も多いが反面では意外の幸せをつかむことも多いというもの。
つまり動きまわっておれば、よいことにも悪い事にも逢うが、家にひっこんでいたのでは、
大した生き甲斐も生まれないということ。類義語歩く足には泥がつく
本日の癒しの動画 ・コレクションミュズィクを楽しみながら記事を読んでいただければ幸いです
本日も心のプレゼンをはじめましょう。
心のきれいな生活を送る方法
菩薩行道 以下の記事に付いて
固定観念と固定概念からの自立
[心の使い分け]
【1】「客観的」は、第三者の視点に立って物事に対して自分を見ること。
【2】「主観的」は、自分だけの視点に立って物事を見ること。
述べているのが解脱つまり御本人が元もと持っている 本当の自分の心を理解する意味です。
ここでのべる主観と客観の違いは何か
主観は相対的な事実を現したものです。
つまり、個人的な見方に染められた世界観で、姿形によって識別したり、個人的な推測によって解釈したり、誤った知識のとらえ方や、原則的な道徳に対する無明さや、おごり高ぶりや、未知のものへの恐怖心、などをもとに理解するように仕向けられてた、私たちの見方です。
この主観のもとに喋る人は、世界を有りのままで見ることができず、この世界についての自分勝手な億説を説明しているだけになります。
それに比べて客観は、ありのままの世界を偏りなく見ます。この世界との関わり方は、虚偽や偽善が全くない、時間をかけて証明された、
原則のある道徳にもとづいています。これは、人が究極の真理(真諦)を見つけ出したいと、
切望することから起こるものです。
そして、客観を理解することで、結果的に、存在するもの全ては多様な関係によって、
相互に繋がっていることが分かります。
その多様な関係とは、本当の自分、自己判断した自分の人格、交際相手、友人たち、
そして常に変動する環境や、身の回りで起こるあらゆる種類の現象などです。
主観で物事を見ていると、なんらかの争い事に向き合った時、大体は自分の思う結果へ、物事を操りたがるので、おのずと競争的な付き合い方になったり、うまくいかない場合は嫌々妥協するものです。
ですから、全ての物事を客観的に見る心を養うほうが、遥かに徳です。
いい慈悲の言葉は人の心に活力を与える
くじけない心を育て、前向きにさせてくれる言葉
解説・土肥六実
本当の自分の本質に気づく言葉【Part3】
勝ったかどうかで、強いかどうかが決まるのではありません。
勝利は、実力もありますが、偶然勝ってしまうことがあります。
天候やタイミングに左右されることもあります。
本当の強さとは、諦めないかどうかで、決まるのです。
諦めないのは、偶然ではありません。
本人に強い信念や精神力がなければ、果たせないことです。
負けても負けても、諦めない。
100回負けても、諦めない。
これは、勝っている人以上に強いことです。
諦めるのは簡単ですが、諦めないのは難しい。
落ち込んだ気持ちを立て直すのは、強いパワーが必要です。
だから、本当の強さとは、諦めないことを言います。
強くなりたければ、諦めないことです。
たとえ負けたとしても、諦めなければ、あなたは強いことになります。
人間万事塞翁が馬
にんげんばんじさいおうがうま
【人間万事塞翁が馬の解説】
【注釈】
昔、中国北方の塞(とりで)近くに住む占いの巧みな老人(塞翁)の馬が、胡の地方に逃げ、
人々が気の毒がると、老人は「そのうちに福が来る」と言った。
やがて、その馬は胡の駿馬を連れて戻ってきた。
人々が祝うと、今度は「これは不幸の元になるだろう」と言った。
すると胡の馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折ってしまった。
人々がそれを見舞うと、老人は「これが幸福の基になるだろう」と言った。
一年後、胡軍が攻め込んできて戦争となり若者たちはほとんどが戦死した。
しかし足を折った老人の息子は、兵役を免れたため、戦死しなくて済んだという故事に基づく。
単に「塞翁が馬」ともいう。
「人間」は「じんかん」とも読む。
.(悲しみの朝の後には喜びの夕べが訪れる)
【出典】
『准南子』人間訓 から
【注意】
「が」は所有を表す格助詞だが、「塞翁の馬」とはいわない。