2024年09月15日
リスク社会論からトップダウンで作家の執筆脳を考える−中島敦の「山月記」を交えて4
3 リスク社会論を拡張する試み
中国で10年近く日本語教育に関わっていたこともあり、ここで教育についてリスクの問題を考察する。一般的に評価については、誰もがいい評価を得られればありがたい。しかし、話が複雑になると必ずしもうまくいかない。難しいことを避けていても、年と共に立場上考えなければならなくなることもある。
研究を進める上で難しい問題は、何といってもマクロの分析である。マクロの分析を地球規模とフォーマットのシフトにすると、どの系列に属していてもこぼれる人はいない。地球規模の研究は、東西南北の国地域とか地球全体を覆うオゾン層や1万メートルの海底に眠る生態あるいは浅瀬にある鉱物資源、さらに国地域を越えた伝染病などが研究の対象になる。
どの分野の研究者も文系理系の何れかが主の専門であり、他の系列の副専攻は、認知科学の柱をずらしながら調節している。一方フォーマットのシフトは人文が主であれば、認知の柱を崩して縦に言語の認知、横に情報の認知を置いたⅬのフォーマットを作り、何れかの対象を分析していく。
ではどうしてマクロが問題になるのであろうか。それは、研究がマクロに届けば、自ずと発見発明に通じるからである。自分の専門の系列及びその界隈をいくら調節しても、所詮アレンジで終わってしまう。濃くなるけれど頭打ちになるのが関の山である。結局、発見発明のない研究者で終わってしまう。
解決策として、若いうちから取り組むことを勧める。博士論文を書いてから、社会人としての人生がスタートするときに、評価の項目を10個ぐらい皆が持っている育成がよい。平時の実務や自分の専門のみならず、副専攻についても日頃から互いに評価をしていく。例えば、副専攻として情報や医学の中から何かを選ぶようにする。
人文が専門の私の場合、対照言語がドイツ語と日本語であり、他の国地域、例えば、中国や南アフリカの言語文学は副専攻になる。また、他の系列との共生として、人文と情報、心理と医学、文化と栄養などがこれまでの実績になる。自分の専門と比較及び共生をまとめるとこうなるという主張ができれば、難易度の調節とか世の中への貢献といった条件を満たしていて、名誉にも値する。
逆に全くの縦割り縦型で大学院時代から社会人にかけても文系か理系のいずれかに留まっていれば、今時サラリーマンでもシナジー共生に取り組んでいる人が多い中、研究者としては時代遅れで評価は低くなる。そこにリスクといえる負の要素が潜んでいる。つまり、社会人として評価の項目が増えずに調整の機会が少ない育成こそが自己責任によるリスクになってしまう。
花村嘉英(2005)「リスク社会論からトップダウンで作家の執筆脳を考える−中島敦の「山月記」を交えて」より
中国で10年近く日本語教育に関わっていたこともあり、ここで教育についてリスクの問題を考察する。一般的に評価については、誰もがいい評価を得られればありがたい。しかし、話が複雑になると必ずしもうまくいかない。難しいことを避けていても、年と共に立場上考えなければならなくなることもある。
研究を進める上で難しい問題は、何といってもマクロの分析である。マクロの分析を地球規模とフォーマットのシフトにすると、どの系列に属していてもこぼれる人はいない。地球規模の研究は、東西南北の国地域とか地球全体を覆うオゾン層や1万メートルの海底に眠る生態あるいは浅瀬にある鉱物資源、さらに国地域を越えた伝染病などが研究の対象になる。
どの分野の研究者も文系理系の何れかが主の専門であり、他の系列の副専攻は、認知科学の柱をずらしながら調節している。一方フォーマットのシフトは人文が主であれば、認知の柱を崩して縦に言語の認知、横に情報の認知を置いたⅬのフォーマットを作り、何れかの対象を分析していく。
ではどうしてマクロが問題になるのであろうか。それは、研究がマクロに届けば、自ずと発見発明に通じるからである。自分の専門の系列及びその界隈をいくら調節しても、所詮アレンジで終わってしまう。濃くなるけれど頭打ちになるのが関の山である。結局、発見発明のない研究者で終わってしまう。
解決策として、若いうちから取り組むことを勧める。博士論文を書いてから、社会人としての人生がスタートするときに、評価の項目を10個ぐらい皆が持っている育成がよい。平時の実務や自分の専門のみならず、副専攻についても日頃から互いに評価をしていく。例えば、副専攻として情報や医学の中から何かを選ぶようにする。
人文が専門の私の場合、対照言語がドイツ語と日本語であり、他の国地域、例えば、中国や南アフリカの言語文学は副専攻になる。また、他の系列との共生として、人文と情報、心理と医学、文化と栄養などがこれまでの実績になる。自分の専門と比較及び共生をまとめるとこうなるという主張ができれば、難易度の調節とか世の中への貢献といった条件を満たしていて、名誉にも値する。
逆に全くの縦割り縦型で大学院時代から社会人にかけても文系か理系のいずれかに留まっていれば、今時サラリーマンでもシナジー共生に取り組んでいる人が多い中、研究者としては時代遅れで評価は低くなる。そこにリスクといえる負の要素が潜んでいる。つまり、社会人として評価の項目が増えずに調整の機会が少ない育成こそが自己責任によるリスクになってしまう。
花村嘉英(2005)「リスク社会論からトップダウンで作家の執筆脳を考える−中島敦の「山月記」を交えて」より
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